貴方だけに
時は昭和。
このころ、日本は戦争の色に少しずつ染まりつつあった。
だが…
「麗!」
「…新さん、こんにちは。」
麗と呼ばれた少女は青年―新の方を振り向き、微笑んだ。
すると、新は彼女を引き寄せ…
慣れたように唇に接吻した。
(今日も…だわ。)
「新さん…往来では止めた方が良いのではなくて?」
「誰も見てないし、大丈夫だって!」
「……。」
「なあ、ちょっとこっち来いよ!」
笑顔で自分を呼び寄せる新に、麗も笑顔を向けその後をついていった。
「こっちこっち!」
(…相変わらずね、新さんは…でも、私は…。)
「麗、一人じゃ無理だろ?手、貸せよ。」
いつの間にか木に登り始めている彼に麗はおずおずと手を出した。
「…!」
やがて木に登り終えた麗はそこから見える絶景に只々感動した。
「綺麗だろ?…この前見つけたんだ。」
「ええ…とても、綺麗です…。」
すると、新は再び麗に接吻した。
「あ…。」
「……。」
(…最近何故かとても気になる…新さんが私に…接吻する訳が…。)
「……新さん…。」
「ん?」
「…どうして…その……私に接吻を?」
彼は今までされたことない質問に一瞬キョトンとしたが、平静を装って答えた。
「あー…それは、挨拶だ。」
「挨拶?」
「…嫌か?」
「いえっ!もう…慣れてますから…。」
「そうか…。」
そのまま二人の間に沈黙が流れる。
「…そろそろ…帰るか。」
「…ええ。」
翌日…
「……。」
「何を呆けていて?麗。」
麗に声をかけたのは幼馴染みの夏乃。
「夏乃…いいえ、何でもなくてよ。」
「嘘をいいなさい。…誰にも言わなくてよ。ほら。」
「ええ…。」
麗は昨日のことを夏乃に話した。
「まあっ。野嵜さんたらまだ麗に接吻してたの?」
「…そうなのよ…。」
「でも…貴方たちだってもう子供ではないのだから、挨拶…というのには納得しかねるわ。」
「でしょう?…夏乃は、許嫁の霧生様と…したことある?」
「あるわけないでしょう!手を握ったことすら無いのに…!」
忽ち夏乃は頬を染めた。
「普通…そうよね…。」
「ええ。…貴方たちって何か特別な関係であって?」
「多分…只の幼馴染み。」
「…もしかしたら…野嵜さん、麗のことを好きなのではなくて?」
「ええっ!?」
「異国人なら兎も角、私たちは好きな相手じゃないとしないでしょ?」
「そ、そうだけど…でも…。」
「…麗は野嵜さんのことをどう思っていて?」
(私は…新さんのことが…)
「わかったわ。」
「えっ?」
「まさか麗がこんなに分かりやすいなんて…。」
「えっ?えっ?」
「あら?もうこんな時間。早く行かなくては八代先生のお小言を受けるわ。」
「ま、待って!夏乃!」
数時間後…
「麗、御機嫌よう。」
「御機嫌よう。」
(…はあ…何故か今日は疲れたわ。)
「麗!」
「あっ、新さ…」
新はいつものように麗に接吻した。
「今、帰りか?」
「…ええ。」
「一緒に行こ。」
(…嗚呼、なんだか胸がドキドキする…。…夏乃があんなこというから…!私…新さんを意識してしまうわ…。)
「じゃ、俺こっちだから。」
「あっ、ご機嫌よう。」
「じゃあな。」
麗は家に帰ると、寝台に突っ伏した。
(我ながら、はしたないわ…。)
疲れていたので眠りたかったが、頭だけは冴えてしまっている。
「…昨日、向かいのご子息の一人が出兵したとか。」
「確か…三男の方よね。御国の為に頑張ってくれるかしら?」
階下で客と話しているのであろう母の声が聞こえる。
「きっと立派な働きをしてくれるでしょう。」
「そうですわね。…あ、もしかしたら近々そちらの下のお嬢様と仲が良い…ええと…」
「野嵜新さん?ああ…そうね、あの方は海軍では曹長ですからね。なにか大きな戦いがあれば行くのでしょうね。」
(え…?)
麗は思わず話を聞いていたが、新の話には動揺した。
(……新さんが…出兵…。考えたことも無かった…。出兵したら…会えなく…なるのね…。)
麗は自分の瞳が濡れているのにも気付かず、呆然としていた。
それから十日経つかどうかの後。
「…麗…。…私、今日が最後なの。…学校来るの…。」
朝、いつもの待ち合わせ場所で夏乃は到着早々言った。
「………ど、どういうこと!?」
「その…何故か急に霧生家との縁談が進んで…。」
「そうなの…来年の春で卒業なのにね…。」
「……もしかしたら、朋矢さん…出兵するのかしら…。」
「!」
「だから…だからこの時期にも関わらず、婚姻のお話が進んで…」
「……。」
「麗…?…あ…。」
(…そうよ…朋矢さんが出兵するなら、その部下である野嵜さんも…。)
「麗。…今が潮時なのではなくて?」
「え?」
「…今日にでも…伝えた方が良いわよ。…貴女の気持ちを。」
「……え…ええ…。」
「…大丈夫よ。」
「ありがとう…夏乃…。」
時はあっという間に過ぎた。
「…麗、そんな顔しないで。永の別れではないのだから。」
「でっ、でも…明日から一人だと思うと…。」
「…この学級の方たちは皆いい人ばかりじゃない…。貴女なら直ぐに友達が出来るわ。」
「そう…かしら?」
「そうよ。…あっ…名残は惜しいけどもうそろそろ行かなくては…。」
夏乃は麗の両手を固く握った。
「…離れていても、私は貴女のことを想っているわ。…麗も幸せになってね。」
「私も…貴女の幸せな日々を祈ってます…。」
「…ご機嫌よう!また会う日まで!」
「ご機嫌よう!」
二人は互いの姿が見えなくなるまで手を振り続けた。
(…夏乃…嗚呼…明日から貴女がいないと思うと…。)
麗の足は自然と、新と見た絶景の見える木の方へ向かっていた。
「……麗?」
「新さん?」
麗がそこに行くと、既に新が木の上にいた。
「…こっち来いよ。」
そう言いながら新は一番低い枝まで下り、麗の腕を取った。
麗が足を掛けるとそのまま引き寄せ…いつものように接吻した。
(…どうしよう…私、いつもより遥かに動揺してる…新さんに…悟られはしないかしら…?)
「…あ…あの…」
(言うのよ、麗!)
「私……新さんのこと…んっ!」
麗は突然新に唇を塞がれた。
(新さん…?…何だか、いつもと違う…!?)
いつもより長く、深い接吻に麗は違う動揺を覚えた。
…どのくらいそうしていただろう…。新はゆっくりと麗から顔を離した。
「っ…はあ…はあ…。」
(…新さん…私がこんなに息切れしてるのに…少しも呼吸が乱れてない…。)
「…麗、悪いな。」
不意に新が切り出した。
「…そういうことは…俺から言わせて欲しい。」
「!…そ…それって…。」
「だが…今は言わない。」
「え?」
「…俺、近々出兵するんだ。…でもな…お前に…伝える為に絶対戻ってくる。」
「新さん…。」
「…麗に…伝える。…それだけの為に帰ってくるから。」
「ええ…。…待ってます…新さん…。」
再び二人の影が重なった。
…こちらにも、別れを控えた男女が一組。
「…不束者ですが、宜しくお願いいたします。」
「……ああ。」
(…相変わらずなのね、朋矢さん…。…貴方らしいわ。)
この日、麗の友人である華族の令嬢城ヶ崎夏乃は許嫁の霧生朋矢に嫁いだ。
霧生家は軍人の家で、家主である朋矢の父は海軍の大佐である。
ちなみに朋矢は准尉であり、若いながらも立派に自らの部下を指揮し、彼らの憧れの的であった。
…婚礼の宴も酣になったころ…
「!」
不意に、朋矢は夏乃の手を引き、その場を離れた。
「…あ、あの…主役である私たちが抜け出したら…」
「…あのまま居たら、夜が開ける。…お前と二人きりになれないだろ。」
無表情で素っ気なく言ったが、夏乃の胸を高鳴らせるには十分な台詞だった。
「…きゃ…!」
突然、朋矢は夏乃を抱き上げた。
そのまま向かうのは…二人の褥。
「お前も…もう子供じゃないから…分かるよな?」
(……そうよね…私と朋矢さんは…夫婦に成ったのだわ…。子供のころからこうなることは知っていた筈なのに…未だに…実感が湧かない……今、この時も…。)
「……ん…。」
夏乃は気が付くと、朋矢の腕の中で微睡んでいた。
(…もう、夜明けなのね…。)
体勢を変えようとしたが、身動ぎすらできないくらいに抱き締められ、動けない。
(…朋矢さんたら…。)
急に恥ずかしさが込み上げ、態と苦笑した。
「夏乃…?」
その時、朋矢が目を覚ました。
「……お、御早う御座います…。…その…腕を緩めて下さい…。」
「………嫌だ。」
「え!?」
(朋矢さん…どうしたのかしら!?…こんなこと言うなんて初めて…。)
「……近々…出兵する。」
「!」
「…お前と、こうしていられるのも…あと、数える程だ…。」
「……必ず…帰って来ますよね…?」
「……分からない…。」
「朋矢さん…!」
「…何故か…嫌な予感がして…な…。」
「…一体どうなさったのですか…?…朋矢さんらしくないですよ…。」
「俺らしくない…か…。…夏乃。本当の俺は…只の臆病者だ。」
「……何故…そのようなことを…。」
「…周りからは、口数の少ない男として見られていたが…本当は…自分の考えを言うのが…怖かっただけだ…。」
「……朋矢さん…どうか私には、全てお話し下さいませ…。」
彼は自分の胸の内を明かした。
今の日本の考えに対する疑問…
自分の立場…
出兵への恐怖…
そして…
「……これも…話しておくか。…夏乃。」
「はい…。」
「……愛してる。」
「!」
「お前が許嫁で…良かった。」
そう言って、朋矢は夏乃に接吻した。
数日後…
(…どうして、このような日が来たのかしら…。願っても、時は流れるもの…然れど、今日という日は来てほしくなかった…。だって、今日は…)
「麗、今日は新さんの出兵の日でしょう?見送りに行きなさい。普段から親しくしているのだから。」
「…はい、お母様…。」
(どうしよう…私、平常心を保てるかしら…今だって、こんなに動揺してるのに…。)
「…あら、麗ではなくて…?」
「…夏乃!?久しぶり…!」
「まあ、まだ最後に会った日から十日も経ってなくてよ…。でも、会えて良かったわ。」
「私も…。あ…夏乃、もしかして…」
「…そうなの…家の人が今日…。…麗も…でしょ?」
麗は黙って頷いた。
「…夏乃、まだ新婚なのに…。」
「今の御時世にそんなのは関係なくてよ…。」
「そうだけど…。」
「……あっ、もうすぐ時間だわ!」
「いけない…!」
二人は駅の乗り場に駆けていった。
「御国の為に…!」
既にそう言った声が響く中、麗と夏乃も大切な人の目の前に立った。
「夏乃…行ってくる。」
「…はい。…御武運をお祈りしています。」
「…ああ。」
この日も言葉は素っ気なかった朋矢だが…最後に目で夏乃に「愛してる」と告げ、列車に乗った。
(朋矢さん…どうかご無事で…!帰ってきたら、どうか貴方の言葉でそれを伝えて下さい…!)
「麗…。」
「新さん…どうか………っ…!」
(駄目…!新さんを見てられない…!)
「…俺を信じろ、麗。」
「……はい。」
「あの木の上で言ったことは必ず守る。…だから、笑顔を見せてくれ。」
「新さん…。」
(…そうは言っても…暫くの別れを思うと、涙が止まらないわ…!嗚呼…どうしよう…。)
突然、新は麗の顎に手を添えると、上を向かせ…いつものように接吻した。
「!?」
当然、周りの注目を一瞬にして集めた。
「…取り合えず、涙は止まったな。…ほら、笑ってくれ、麗。」
麗はぎこちないながらも、笑顔を見せた。
それを見て新も微笑むと…列車に乗り込んだ。
(信じられない…新さんたら…でも、新さんらしい…。…やだ、折角新さんが涙を止めてくれたのに…!)
麗の様子を察した夏乃は、手を引き、人気のない所へ連れていった。
「…ありがとう。…情けないわ、私…。」
「ううん…。私だって…もう…限…界…。」
二人は声を押し殺し、暫し泣いた。
「……。」
あれから、幾月も過ぎた。
麗は今までと同様、女学校に通い、稽古事に忙しい日々を送っていたが、一人になると新のことを考えられずにはいられなかった。
「轟さん!」
「はっ、はい!」
「…どうなさったの?最近貴女上の空でいてよ。」
「い…いえ、何でもなくてよ…。」
「…そう…?」
(いけない…私ったら…今さらだけど、私…こんなに新さんのことが……好きだったのね…。)
「…あ!」
「な…何?」
「もしかして轟さん…恋をなさっているのではなくて?」
「恋!?」
「まあ、何方に?」
気が付くと、麗の周りには人だかりが出来ていた。
「えっ、えっ…そ…そんなのではなくてよ…。」
「隠さなくても良いじゃない。相手はどういう方?歳は?」
「ちょ…ちょっと…」
(はあ…何とか誤魔化せたけど、疲れたわ…。こんな時、夏乃が居たらな…。)
麗は夏乃と良く来た、校庭の隅の桜の木の下に座った。
(最後に夏乃と来たときは新緑が繁っていたのに…今はもう、枯れ葉すら少ない…。)
冷たい風が吹き、麗は改めて季節が流れたことを感じた。
(新さんが…まだ行く前は風も涼しく感じたのに…今はもう…冷たくて…寒くて…。…でも…去年は雪が降っていても、今日よりは…何故か暖かく感じてたわ…こんなに寒いのは…大切な人が…近くに居ないせい…なのね…。)
「…新さん…夏乃…。」
麗は腕に顔を埋めた。
(…もう、如月…。)
麗は暦を見あげた。
(…そろそろ、白梅が咲く頃ね。…ちょっと庭に出てみようかしら…。)
その時…
「…まあ!夏乃様…!」
階下から、女中の声が聞こえた。
「え!?」
「お嬢様!お客様です!」
「…今行くわ!」
麗は、慌てて階段を降りてきた。
「…御待たせ…。」
「…いいえ…。」
夏乃の顔は酷く青ざめていた。
(…何か、あったようね…。)
「…夏乃、久し振りに昔よく行った浜辺に行かない?」
「お嬢様、こんな季節に浜辺など…」
「すぐ、戻るわ。…行きましょう、夏乃。」
「ええ…。」
(…あ…昔のままだわ…。…丁度、人も居ない…。)
「……麗。」
「どうなさったの?」
「……これ…。」
夏乃は震える手で、一通の手紙を出した。
そこに記してあったのは…
「…!」
(…嘘でしょう…?)
麗は驚き、何度も手紙を見直したが…霧生朋矢の戦死の旨が記されていることに変わりはなかった…。
「……夏乃…。」
「…立派な最期だったと…伺ったわ。…あの人、戦争を恐いと仰ってたから…。…良かった。御国の役に立ってくれて。」
「夏乃……私の前では、強がらなくても良くて…よ?」
「………っ…わああっ…!」
「夏乃…!」
麗は泣き崩れた夏乃を抱き締め、暫くの間背を撫で続けた。
(夏乃…どんなに辛かったか…!…霧生様…何故彼女を置いて逝ったのです!…私は…貴方様を御怨みします…!)
「…本当に…ありがとう、麗…。」
「良いのよ。…少しは、落ち着いたかしら?立ち直るまではかなりの月日が必要でしょうけど…また、悲しくなったら私を頼ってね。」
「…ええ…。」
「それじゃ…ご機嫌よう。」
麗と別れた後、夏乃は雲間から射す光を見ながら帰路についた。
「只今…戻りました…。」
「お帰りなさい、夏乃さん…。…ねえ…これから貴女はどうするつもり?」
「私は……私はもう霧生家の嫁です。私の家は此処しか御座いません。」
「でも…子もいないし…何より貴女は若いのだから…好きにして良いのよ。」
「…では…これからも此処に居させて下さいませ。」
「夏乃さん…本当に良いの?」
「はい。…お義母様。」
「ああ…これからもこうして貴女に母と呼んでもらえるのね…。では、これからも私と共に暮らして下さい。」
「勿論ですとも。」
共に大切な人を喪った嫁と姑は手を取り合い、互いを慰めた。
…その後、翌月麗は女学校を卒業。
このころから日本各地への空襲が酷くなり、彼女達の知り合いも多数亡くなった。
そして八月…広島と長崎への原爆投下を受け、日本は終戦を迎えた。
「…久しぶり。麗。」
「あら、夏乃。奇遇ね。」
「ええ。…すっかりこの辺りも変わったわね…。」
「そうね…。」
「……麗…野嵜さんは…?」
「…まだ…。」
「そう…なの…。」
「………もしかしたら…新さん…」
「そんなわけないでしょう…!」
「だって…もう一年半は帰ってないのよ…!なんの音沙汰もないし…。…きっと…」
「麗……。…!!あ…!」
「夏乃…?…っ!」
「…ほら、行ってみたら…?」
「え…ええ…。」
(嘘……嘘…!夢ではないの?)
「新…さん…?」
「麗……ただいま。」
「新さん…!」
麗は喜びのあまり、新に抱きついた。
「私…ずっと、待っていたのよ!…良かった…帰ってきてくれて…。」
「ごめんな…心配させて…。麗、あの場所に行こう?」
麗は夏乃に別れを告げ、新と共にあの木がある場所に行った。
「まだ…あったんだな…。…ほら。」
以前のように新は麗の手を取り、木に登った。
「…ああ…景色もそのままね…。」
「そうだな…。」
二人は肩を寄せ合い、景色を眺めた。
「…麗。」
不意に真面目な顔をして、新は麗の方を見つめた。
「…あの時の約束通り…今、お前に伝えるよ。……麗、俺の嫁になってくれ。」
「……。」
「…麗?」
「っ…ごめんなさい…嬉しくて…。」
「…そうか…。」
新は麗に優しく口付けした。
「…ほら、返事を聞かせてくれ。」
「…解っているくせに…。」
苦笑しながらも麗は答えた。
「…喜んで。」
再び二人の影は重なった。
「…俺、ずっと心配だったんだ。」
「え?」
「俺がいない間…他の男に取られないか…。」
「まあ。…私はずっと前から…貴方だけを想っていましたよ。…これからもです。」
美しい景色の下、想いが通じ合った二人を祝福するかのように、木々の間から光が射した。
「貴方だけに」完