開けずの木箱
掃除をしていたら、懐かしいものを見つけ、私は思わず手を止めた。
古い木箱だ。私が夫の元に嫁ぐ際に僅かな嫁入り道具と共に持ってきたものだった。勿論、当初夫はこの箱を訝しみ、私に聞いた。
この箱には何が入っているのかと。
その問いに、私は口ごもりながら、答えになっていない勝手な言葉で返した覚えがある。
「これは、……どうか何も聞かないで、そして絶対に触れないでください」
夫はそのとき、ただ黙っていた。なにか、悟ったようだった。ややあって口を開くと、
「わかった。知られてほしくないなら、もう言わない。俺はその箱のことは忘れる」
ただ、静かに、そう言ってくれた。
気になりませんか、と、私は意地悪く問いかけた。夫は笑いながら、
「どんな仲のよい間柄でも、絶対に言えないことや隠しておきたい事もあるだろ。だから、俺は聞かない。本当に知られたくないことなら、黙っておいで。俺は気にしないから、だから、安心おし」
そう言ってくれた。
もう、十年も前の事だ。あのときの夫の言葉は、とても嬉しかった。
『俺は聞かない』という、夫の言葉が……。
木箱はあれから、動かされていない。木箱の上や、その周りに降り積もり、こびりついた埃が十年という月日を物語っている。
私は、夫とはじめて出会った頃のことを思う。
まだ、人間でなかった頃のことを……。
その日、私は水浴びをしていた。引き締まるように冷たい水が、肌に心地良い。
水浴びに、あまりに夢中だった為だろうか。間抜けな事に、私は着物を無くしたことに気付かなかった。
「どうしよう……あれが無いと帰れない」
確かに木の枝にかけておいたのに。考え違いか、それとも風に飛ばされてしまったのかしら、と、幸い誰もいないことを良いことに、私は岸に上がり、そのままの姿で着物を探した。
だが、いくら探しても着物は見つからない。もうじき、日も沈んでしまう。惨めさと、自分の間抜けさに泣きそうになったときだ。「あの……す、すまんことをした! つ、……つい、出来心で」
若い男が、そこにいた。手に、探していた着物を持っている。
「……か、返して下さい!」
羞恥と怒り、そして安堵の入り混じった声で着物を引ったくり、身に着けた。
男はただただ恥じいっている。
「出来心だった。……おとぎ話のように、着物を隠せば……もしかすると、嫁に来てくれるかもしれないと、馬鹿な考えを!」
「……嫁?」
私も、その話は聞いたことがある。
天女の羽衣を隠した男が、親切ごかしに近寄り、何も知らぬふりをして半ば強引に妻にする話を。
「許してくれ。本当に、すまんことをした。」
「なぜ……」
疑問が浮かんだ。そのおとぎ話のように、素知らぬ顔で近づけば男の思うようになったかもしれないのに。
なぜ、この男はみすみす機会を逃すのだろう……?
「なぜ、返してくれたのですか? あなたは本当は返さぬつもりだったのでしょう?」
我ながら、おかしなことをすると思った。着物を取り戻したのだから、後は逃げれば良いだけの話ではないか。
多分に、そのときの私は逃げたいという心よりも好奇心の方が勝っていたのだろう。
「無理やりに……無理やりに嫁にしても幸せにはなれんと、思う。ふたりとも……。夫婦というものは二人幸せでないとならん。片方が不幸なら、もう片方も……きっと不幸じゃ」
片方が我慢する幸せなら、俺はいらん……。
そう、男は言った。
「おかしな人ね……」
それが、私の感想だった。
「人間に、なりたいと? お前、正気か?」
姉様は、心底驚いたといったふうに私を見た。
「お前、わかっているのか? 人間になるという事を。天女であることを忘れて……いや、幸せに暮らしたいなら捨ててしまわねばならぬのだぞ!」
「わかっています! 天人の着物はけして人に見せはしないし、ここでの暮らしも懐かしみはしません。私は……人間になりたいんです……!」
姉様はしばらくの間、私を睨みつけていた。
が、急に目元を緩ませると、
「……お前も、恋をするようになったのか」 慈しむように抱きしめられ、私は泣いた。
「わたしが……私が憎くはないのですか?」
泣きながら、聞いた。姉様も、人間であったことがあるから。
人間の男の、妻であったことがあるから。私が知っている『おとぎ話』は、姉様が語ってくれた、姉様自身の話だから。
「お前を憎むなんて、どうして私に出来ようか……。人間になるというなら、きっとしあわせになるんだよ。くれぐれも、私と同じ轍を踏まぬように……! ……一年に一度しか逢えぬというのは、やはり寂しいからな」
姉様が取りなしてくれたのか、私は拍子抜けするほどスンナリと人間になることを許された。
別れ際に、姉様が言った。
「着物は、頑丈な木箱に入れて、出来れば燃やせ。お前はもう、人間になるのだから」
「そんな……!」
「この話は、お前に話したことが無かったな……。私が人里に降りる際に聞かされた話だ。お前がそうなるとは言わん。だが聞いておけ」
姉様はゆっくりと、それこそ噛んで含めるように、私に話して聞かせた。
昔、人間に惚れた天女がいた。天女は、皆の反対を押し切り、人間になって、惚れた男と共に暮らした。
子供にも恵まれ、幸せに暮らしていた。彼女の子供が、天女の着物を見つけてしまうまでは。
彼女は戯れに、それを身に着けた。自分が昔住んでいた所を懐かしんだのかもしれなかった。だが、軽い気持ちで身に着けた途端、彼女は天女だったころの自分を取り戻してしまった。
天女というものは、なにも可憐で優しいだけの姫君ではない。荒々しい性格の者もいるのだ。
天女に戻った彼女は、目の前の我が子を引き裂き、天界へと逃げ去った……。
「お前がそうなるとは言わん。だが、天界の着物を身に着けてしまうと、人間の心が弾き出されるということをよく覚えておけ」
目の前の、埃をかぶった木箱を見つめた。夫の目に付かぬところで燃やそう。いつか燃やそう。そう思いつつ、月日は流れ、今日まで来た。
(身に着けた途端に、私は夫の事を忘れるのだろうか……)
私は、木箱を、手に取った。
「あれ? 飯を炊いてるのか」
私は夫に微笑む。
「たまにはいいじゃない。夜に炊きたてご飯でも」
かまどの火は、香ばしい匂いをさせている。もう少しで炊き上がるだろう。
「いつにも増して、旨そうな匂いだな」
きっと、焚き物が良かったせいだろう。
「もうすぐ出来るわ。お汁も、沢山作ってあるから」
夫はいつも、『おまえのつくる飯は美味い』と言ってくれる。
私は、きっと幸せだ。