第二話:四十人の胃袋と、凍てつく脂
空の器を前にして、料理番は動かなかった。
一杯の汁で胃袋を掴めば全てが従うなどという甘い幻想は、前世の厨房でも持ち合わせたことがない。
出汁の熱さは理性を麻痺させるが、その熱が冷めた後に残るのは、余所者への拭いがたい警戒と、明日を生き延びられるかという切実な恐怖だけだ。
ボリスの目は、まだ私を敵として測っていた。
沈黙を破ったのは、男の腹の底が低く鳴った音だった。
男は袖口で口元の脂を乱暴に拭い、煤けた指先で大鍋の底を指し示した。
四十人の兵が外の監視塔と兵舎で凍えている。
この寒さで王都からの輜重隊が遅延すれば、備蓄の塩漬け肉と挽き割りの大麦は三日で底を突く。
貴族の余興で配給の粉を浪費したとなれば、隊長は私を即座に雪原へ放り出すだろう。
食わせる人数が、技術の重みを何倍にも跳ね上げる。
残された時間は、日没までの三刻しかない。
手持ちの駒はあまりに頼りない。
魔猪の骨はまだ三頭分残っているが、急激に火力を上げれば鍋肌が焦げ付いて苦味が回る。
麺を打つにも、木灰の上澄み水は沈殿を待たねば刺激が強すぎて粉の風味を殺してしまう。
そうしたかった、とは思う――熟成させた返しを用意し、前日から煮出した清湯で静かに合わせるのが料理としての筋道だ。
だが、現場の飢えは職人の美学など待ってはくれない。
妥協の限界を見極めることこそが、現場の仕事だった。
ボリスが動いた。
何も言わずに保管庫の重い木扉を蹴り開け、凍りついて白粉を吹いた干し肉の塊を肩に担いで調理台へ叩きつける。
塩抜きもされていない岩のような塊を、私は薄刃の包丁で紙のように薄く削ぎ落とし、大鍋の煮立つラードの中へ直接滑り込ませた。
激しい油跳ねの音と共に、鼻を突く獣臭さが甘辛い燻製の煙へと化けて、換気口から外の吹雪へと吸い込まれていく。
煙の匂いが、兵舎の重い空気を揺らし始めた。
鉄の扉がきしみ、吹雪の唸り声と共に巨大な影が滑り込んできた。
守備隊長ガウェインの顔には、生気がなかった。
兜を外した男の頬は凍傷で黒ずみ、まつ毛にはびっしりと霧氷が張り付いている。
配給の遅延を告げにきた斥候が道中で行き倒れたという報告書を握り締め、男は調理場を満たす異様な脂の匂いに足を止めた。
王都から捨てられてきた公爵令嬢が、煤にまみれて寸胴の前に立っている光景は、戦場の常識を著しく踏み越えていた。
男の視線が、煮えたぎる白い湯面へと落ちる。
私は木椀を二つ、調理台の上に叩きつけた。
薄く削いだ燻製肉が熱いスープの上で花のように開き、灰汁で鍛えた黄色い麺が、脂の膜を破って艶やかな湯気を吐き出している。
兵士たちが凍える手で窓の隙間から覗き込む中、私は匙を持たずに突っ立っている隊長を見据え、顎を引いた。
判定を下すのは、その乾いた舌だ。




