5、スズランの栞
後輩たちの任官式への参列という、もっともらしい理由を携えて、フリーデリケはミケーレの元を訪れた。
ミケーレは窓の外、降り積もった雪を眺めていた。振り返った彼の瞳には、師としての厳格さと、それ以上に深い哀惜が宿っていた。
「来てくれてうれしいよ、フリーデリケ君。君は僕の最も優秀な生徒だったが、今年も優秀なのがいるよ。ほら、君が目をかけていた、あの……」
以前と少しも変らない、ミケーレの声を聞いた瞬間、フリーデリケの秘めた想いが、堰を切って溢れ出した。彼女は彼の言葉を遮るように歩み寄り、その厚い胸板にすがった。彼は拒まなかった。静かに彼女の背に腕を回す。
雪解けの湿った風が入り込む教場で、彼女たちは接吻を交わした。部屋は嗅ぎなれたかび臭い古い本の匂い。それが特別なものに感じられた。冷たい冬の終わりの苦く、耐えがたいほどに甘い味。
石造りの官舎、暖炉の爆ぜる音。重厚な書物に囲まれた部屋で、軍事の師であった人とフリーデリケは結ばれた。彼の掌は、彼女の想像よりもずっと厚く、そして……思っていた通り、火のように熱かった。彼女の白い肌に刻まれる吸い跡。それは、帝国への忠誠心よりも強く彼女を縛り付ける、共犯者の烙印だった。
「ミケーレ」
その名を唇の中で転がすだけで、指の先まで熱が満ちる。
翌朝、フリーデリケは鏡の前で軍服の襟を正した。けれど、高鳴る鼓動を隠すことはできなかった。体中が火照っている。世界が、昨日までとは違って見えた。道端に咲く名もなき草花さえ愛おしく、彼女はその幸福を、誰かに分け与えずにはいられなかった。
そんな時、彼がフリーデリケの前に現れたのだ。彼女を慕ってくれてくれている後輩だった。彼は、努力家で、どこか影のある青年だった。悪い噂を聞いたこともあったけど、彼女の知っている彼は凛々しい軍人の卵だった。今日は彼の任官式だ。
「……努力しましたね。あなたはきっと、帝国の立派な礎になるわ」
フリーデリケは、自分でも驚くほど慈愛に満ちた、聖女のような声を出した。ミケーレとの抱擁で、彼女の心は満ち足りていた。あふれんばかりの充足感が、彼女を寛容にし、残酷なまでに美しくさせていた。
彼女は、ミケーレの教本に挟んでいた、スズランの押し花の栞を取り出した。それは昨日までミケーレとの秘かな恋の証だった。でも彼との想い出は、もう心に刻んだから、こんな形のあるものなんかいらない。
「今はこんな物しかあげられないけれど」
フリーデリケは幸福の余韻の中で、あどけない情熱を向けてくる後輩への、せめてもの励ましとしてそれを手渡した。彼女の襟元から立ち上る、ミケーレの香りと混じり合った女の匂い。それを、純潔な後輩はフリーデリケ自身の芳香だと錯覚し、恍惚とした表情で栞を受け取った。
「いつか、この花が咲く季節に、あなたに故郷を案内してあげる」
約束。それは彼女にとって、満たされた心から溢れ出ただけの、実体のない親切心に過ぎなかった。だが、受け取った青年は、それを生涯の呪いとして胸の奥底に縫い付けることになる。
自分が愛する男から受け取った幸福を、別の男の絶望の種として蒔いていく。フリーデリケは、その残酷なまでの美しさを纏ったまま、春を待つアカデミーを後にした。




