4、研究室で
石造りのアカデミーの廊下には、常に独特の匂いが漂っていた。古い石壁が吸い込んだ雨の匂いと、廊下を歩くブーツの乾いた音。フリーデリケは、ミケーレの研究室の扉の前に立っていた。手には、先日突き返されたあと、彼女が寝る間を惜しんで訂正を加えた進軍計画図を握りしめている。
彼女は一つ呼吸を整え、扉をノックした。
「……入れ」
中から聞こえたのは、聞き慣れた、しかし少し疲れを含んだ低い声。
室内は、壁一面を埋め尽くす書物と、丸められて、無造作に突きたてられている無数の地図で溢れていた。ミケーレは机の上に広げられた巨大な地図に覆いかぶさるようにして、ディバイダーを回していた。窓から差し込む薄暗い夕陽が、彼の彫りの深い横顔に鋭い陰影を落とし、彼をこの世のものとは思えないほど孤独な存在に見せていた。
「座りなさい。……昨日出した課題はどうなった」
彼は視線を地図から外さない。フリーデリケは促されるままに隣に座り、修正した図面を広げた。
「補給拠点を分散させ、輜重隊のルートを複数設定しました。また、現地の農村からの徴発を行わない前提で、食糧を自前で運搬する計算です」
ミケーレは地図上の見えない線をなぞった。その指先が、わずかにフリーデリケの手の甲に触れる。 驚くほど、熱かった。 氷のような言葉を吐き、常に冷静沈着な彼の体温が、これほどまでに高いという事実に、彼女は眩暈に似た衝撃を覚えた。
「燃料は?」
ミケーレが冷たい声で尋問するかのように尋ねる。机の端には、以前彼女が差し入れたスズランを飾った小さな花瓶があった。花はすでに茶色く変色していた。ミケーレはその枯れた花を片付けるでもなく、ただそこに置いたままにしていた。
「燃料も、暖かい食料がいきわたるだけ用意しました。……次は、もっと補給の層を厚くします」
フリーデリケの言葉は、自分でも驚くほど湿り気を帯びていた。
「厚くすれば機動力は落ちる。だが、軍隊は正気を保てる。それだけ長く存在感を示せるんだ」
ミケーレはふと、地図から顔を上げ、彼女の瞳を真っ直ぐに見た。
「剣は人を殺すが、兵站は人を人に留め続ける。フリーデリケ君、それを忘れるな。兵士を飢えさせる司令官は、敵よりも先に自分の部隊に損害を与えているのだ」
「はい」
「……君が将来、帝国軍の将帥になれば、私は安心して教壇を降りられるのだがな」
ミケーレがふと見せた、硬い頬の弛緩。それは後進への慈しみか、それとも同じ孤独を共有する者への微笑か。
窓の外では、屋根に積もった雪が解け、絶え間なく雫が落ちる音がメトロノームのように正確な時を刻んでいた。その一滴一滴が、フリーデリケの心の中に溜まっていく、名前のない熱の器を満たしていく。
ミケーレ教官が語る言葉は、どれも冷徹で実利的なものだった。進撃、突破、分断、包囲、そして戦果の拡張。しかし、フリーデリケにとって、彼の講義はどんな叙情詩よりも甘美に響いていた。
彼女は教壇に立つ彼を、教科書の陰から見つめ続けた。彼が書いた専門書を、スズランの押し花を栞にして何度も読み返した。そこには、ただの知識以上の何かが記されているような気がしてならなかった。
ミケーレはあまりに師であり、軍人でありすぎた。だからこそ、フリーデリケもまた、彼の求める完璧な生徒であろうと必死だった。二人で軍用地図を広げ、戦略を練る静かな夕暮れ。
戦場の凄惨さを理論というフィルターで濾過し、純粋な知性のゲームとして語り合う時間。それこそが、フリーデリケの初恋のすべてだった。
ミケーレの隣に立ち、同じ地図を見つめているだけで、混沌とした世界が秩序立って見えた。彼の厳しい叱責さえも、自分を一人の人間として認めて、期待してくれている証のように感じられ、密かな喜びに繋がっていた。
卒業の時が来ても、フリーデリケは大公国には帰らなかった。
「帝国軍の進んだ指揮系統を実戦の中で学び、将来の祖国の防衛に役立てたいのです」
兄大公に宛てた手紙には、そんな殊勝でもっともらしい理由を書き添えた。
フリーデリケは大公国出身者で構成される騎士団に志願し、帝国で軍務を続ける道を選んだ。彼女は、ただ、ミケーレと同じ空気を吸っていたかった。彼が見ている世界を、同じ高さから見つめていたかった。
ミケーレの理論を、自分の手で実戦で証明して見せたかった。




