2、教室で
三十年前、帝都ワプティアの近郊に位置する軍事アカデミー。二十歳のフリーデリケにとって、何もかもが、得がたい自由の香りに感じられた。
彼女は大公国の公女という、重苦しい身分を背負っていた。 生まれながらに定められた人生。一歩歩くごとに裾を直す侍女たち、慈悲深く、しかし無力であれという無言の圧力。
大公国の宮殿は、金糸で編まれた鳥籠だった。しかし彼女は帝国への留学という名目で、その籠を飛び出した。
「ここでは、名前も身分も関係ない。必要なのは、状況を打破する知性と、兵を動かす意志だけだ」
アカデミーの門をくぐった日に自分に言い聞かせたその言葉は、彼女の背筋をかつてないほど真っ直ぐに伸ばさせた。
フリーデリケは帝国に留学して初めての自由を満喫していた。興味のあることに没頭する自由、なんでも自分で、自分のタイミングでできる自由。ここに来て、初めて大公国での宮殿の生活が不自由なものだったと気づいた。
大公国の公女という身分を脱ぎ捨てることのできたそこは、彼女にとって人生で最も美しく輝いていた場所だった。
教室内には、張り詰めた沈黙が流れていた。 教壇に立つ男、フリズナ公爵ミケーレは、当時の帝国軍において天才の名をほしいままにしていた。三十歳という若さで公爵位を継ぎ、同時に軍事理論の最高権威。彼は、それまでの騎士道精神に基づいた勇気の戦争を、科学の戦争へと塗り替えた男だった。
「フリーデリケ君。君の立てたゴニアタイト侵攻計画を、前へ出て説明しなさい」
ミケーレの声は、磨き抜かれた銀細工のように低く、鋭かった。 指名されたフリーデリケは、周囲の生徒たちの視線を浴びながら、中央の演習地図へと進み出た。彼女は緊張を隠すように、手にしたタクトで地図上の一点を指した。
「本計画の骨子は、機動力の最大限の活用にあります。騎馬歩兵隊を支援に付けた二個騎士団を四つの支隊に分け、森林部の間道を行軍。敵が防衛線を構築する前に、中枢である要塞都市の背後に回り込みます。わずか三日で、敵の指揮系統は麻痺するはずです」
彼女は淀みなく自説を展開した。ミケーレの瞳を直視しながら、自分の思考の鮮やかさを証明したかった。 しかし、ミケーレは動かない。彼の灰色の瞳は、地図に引かれた鮮やかな赤い進撃線を見つめているが、そこには賞賛の色など微塵もなかった。
「……以上です。この進軍こそ、騎士の機動力と衝撃力を最大限に生かした戦略だと考えます」
沈黙が数秒、数分にも感じられるほど長く続いた。ミケーレはゆっくりと地図の周囲を歩き、彼女のすぐ隣で足を止めた。彼から漂う、古い紙の匂いが、フリーデリケの鼻腔をくすぐる。
「美しいな。……机上の空論としては、最高級だ」
ミケーレの言葉に、教室の空気が氷点下まで下がった。
「フリーデリケ君。君の描いたこの赤い線は、血を流す人間の行列であることを忘れているのではないか?」
彼は教壇に戻り、一本のチョークを取って黒板に猛烈な勢いで数字を書き殴り始めた。
騎士一名が一日で消費する小麦の量、馬一頭が必要とする水、飼料、荷馬車の車輪が一日に進める距離……、
「戦場において、真に人を殺すのは剣ではない。時間の経過そのものだ。君の三日間の電撃戦に必要な物資の総重量、そしてそれを運ぶ手段は?」
チョークが激しく音を立てて折れ、白い粉がミケーレの黒い袖口に舞う。
「君の騎士団は、二日目の夜に飢え始める。三日目の朝には、馬は疲弊して動かなくなり、重い鎧はただの金属の棺桶と化す。敵と刃を交える前に、君の英雄たちは胃袋という名の内なる敵に敗北するのだ」
ミケーレの言葉は、熱を帯びた刃のようにフリーデリケのプライドを切り刻んだ。彼は教壇から戻り、地図を置いた机に左手を着いた。そして右手で地図の上の一本の線をなぞった。それは進軍の矢印ではなく、後方から伸びる細く、脆い、補給の糸だった。
「見なさい。これが兵站だ。司令官が兵士に与えることができる唯一の正気だ」
ミケーレが生徒たちを見回す。
「薪がなければ兵士は温かい食事もできず、寒さに震える。パンがなければ誇り高き騎士も信頼する仲間である愛馬の肉をむさぼり食うだろう。軍旗というただの布切れを高く掲げ続けさせるのは、後方から届く一袋の塩であり、一樽の葡萄酒なのだ」
至近距離で発せられるミケーレの声は、彼女の身体を震わせた。彼の指先が、地図上の補給拠点を示す一点を強く押さえる。
「フリーデリケ君。私は君に、人を殺す方法を教えているのではない。軍隊という名の、数千の胃袋を持つ巨大な生き物を、正気で生かし続ける方法を教えている。理解できるか?」
フリーデリケは息を呑んだ。彼の瞳の奥に宿る、軍事という残酷な科学への深い献身。それは暴力への賛美ではなく、むしろ人間という存在の脆弱さに対する、彼なりの悲痛な慈しみのようにも見えた。
「……はい、教官。私は、剣よりも先に、荷馬車の車輪の数を数えるべきでした」
彼女の答えに、ミケーレの唇がわずかに、本当にわずかに緩んだ。それは、自分の見ている深淵を共に覗き始めた弟子への、静かな歓迎の表情だったのかもしれない。
「よろしい。では、この脆弱な補給線を、敵に悟られぬよう、かつ強靭に再構築しろ」
「はい」
窓の外では、冬の陽光が弱々しく石畳を照らしていた。フリーデリケは、自分の頬が熱を帯びていることに気づき、慌てて地図に目を落とした。




