悪意しかない王命結婚、確かに承りました。
「アメリア、お前に話がある」
父が渋い顔で切り出したとき、アメリアはついに侯爵家が解散宣言をするのだと思った。
「あら。やっぱり先日のお話も詐欺だったのですね。だからあれほど申しましたのに」
「そ、それはそうだが、今は違う!」
差し込む朝の光がアメリアの長い銀髪をやわらかに照らし出す。ゆるやかに波打つ髪は真珠の糸のように輝き、紅の瞳は燃えるようでありながら、彼女は穏やかな表情で父をおっとりと咎める。
名家であるはずのグランディール侯爵家は事業に失敗し多額の負債を抱えている。没落待ったなしだ。
この書斎には母と弟も呼ばれていて、二人とも神妙な顔をしている。きっと、アメリアと同じことを考えているに違いない。
「お父様、それは良いお話ですの? それとも悪いお話?」
「どちらかというとめでたい話、なのかな……?」
父はぽつりと零す。おめでたい話など転がっているはずがない。
ここ数ヶ月、父が駆け回っていたようだが、どこからも色良い返事はもらえていなかったようだった。そんな時にめでたい話。非常に怪しい。
また騙されているのではないかと疑いを深めたアメリアに、次に告げられたのはもっと信じがたい言葉だった。
「この度の王命により、お前は第二王子ユリシス殿下の婚約者に選ばれた」
「えっ」
「まあ」
「まじか」
一瞬空気が止まり、三者三様の反応をした。
母と弟は顔を見合わせていて、アメリアもパチパチと目を瞬かせる。
第二王子のユリシス殿下は、口さがない人たちから「呪われた王子」と言われている。
彼の周囲では病や不幸が絶えないと噂され、誰も近寄ろうとしない。
人を遠ざけるような冷徹な態度も拍車をかけていた。だからこれまで、婚約者もいなかった。
(よりによってわたくしを選ぶというのも、また不思議だわ)
アメリアは、実は元は第一王子の婚約者だった。だがグランディール家の事業が傾くや否や、あっさり婚約破棄され、別の御令嬢に乗り換えられた。
夜会では見捨てられた令嬢と囁かれている。ちょうどそれも、半年程前のこと。
(まあもう夜会に行っている場合でもないし、醜聞はどうでもよいのだけれど)
アメリアについて回るその醜聞を知らないはずはない。それに、他にも適齢期の令嬢はいるから、わざわざ第二王子の妻にアメリアを選ぶ必要など無かったはずだ。
――そんな令嬢を、王命で嫁がせる。
グランディール侯爵家も血筋だけは確かだが、今は彼にとって後ろ盾となる力はもはやなく、何の権力も持たない没落五秒前の家だ。
第二王子が余計な力を持たないように宛てがうには、実に丁度いいのだろう。その事情を理解するのに時間はかからなかった。
アメリアは小さく息を吐き、肩の力を抜く。
「わかりましたわ、お父様。ユリシス殿下の婚約者として精進いたします」
「いいのか、アメリア」
父が驚いたように目を瞬いた。もしかしたら、嫌がると思ったのだろう。
「ええ。わたくしにはお断りする理由もございませんし。むしろありがたいくらいですわ」
「確かに、姉さんだもんね」
「どういう意味かしらね、エドマンド?」
「ううん、なんでもないよ。ただ、呪いとか姉さんには効かなそうだなって」
アメリアとお揃いの銀髪を爽やかに揺らしながら、弟のエドマンドは胡散臭い笑顔を浮かべている。柔らかな物腰ながら言いたいことを言うタイプの人間だ。
アメリアは赤い色の瞳を細めた後、ほうとため息をついた。髪色と同じ色のまつ毛が縁取る意思のつよい瞳は、人によっては冷たい印象を持たれる事もある。重々承知の上だ。
「王命だなんて、仰々しいこと」
「ねー。わざわざそんなことしなくても、姉さんのもらい手はないのに……いたっ」
また余計な事を言う弟のつま先を、アメリアはヒールの踵で踏んでやった。
それからしっかりと笑顔を作る。
「それでお父様。それと引き換えに借金を減らすことでも提案されましたの?」
「なっ、なぜそれを」
アメリアの冷たい笑顔に、父は顔を引き攣らせている。なんともわかりやすい人だ。侯爵家の解散はギリギリ免れたようだ。
「書面はちゃんとしっかり確認なさいました? 我が家に不利な条件がこっそり書いてありませんでしたか?」
「こ、今度は大丈夫だ」
「僕にも見せてね、父さん」
エドマンドも冷たい笑顔で父親に迫る。
どう考えても事業に向いていない父親の返事を聞きながら、アメリアは心の中でため息をついた。早くエドマンドにその地位を譲り渡した方がいいのでは、と喉の所まで出かかったけど言わなかった。
***
「グランディール侯爵家が長女、アメリアでございます」
翌日。王宮の謁見の間に姿を現したアメリアは、玉座に着く国王の前に進み出て、深々と礼を取った。
威厳に満ちた王の隣には、控えるように立つ第二王子ユリシス殿下の姿がある。
光を吸い込むように艶やかな黒髪、その下に輝く金の瞳は鋭く、冷徹そのもの。
整いすぎた面差しは表情を欠き、まるで精巧な彫像のようだ。体格もよく、鍛え抜かれた筋肉の厚みは衣服越しにも窺える。その立ち姿はまさしく戦場に立つ覇者のようで、武神と呼ばれるだけはあると誰もが思わず息を呑む。
「よく参った、アメリア・グランディール」
国王の低く重々しい声が響いた。久しぶりに見たが、相変わらずの狸っぷりだ。
「王命により、そなたを我が子ユリシスの婚約者と定める。今この場において、それを宣言する」
その視線がアメリアを捉えた瞬間、広間に並ぶ貴族たちの間から小さなざわめきが起こる。
「……あの呪われた王子と」
「花嫁になるなんて、どれほど恐ろしいか」
「グランディール家の娘も哀れなものね」
「没落寸前とはいえ娘を差し出すとは」
囁き声があちこちから漏れ聞こえる。
没落の最中にある侯爵家の娘と、呪いの噂に彩られた第二王子――奇妙な組み合わせに、誰もが眉をひそめている。
だがアメリアは背筋を伸ばし、平然と前に進んだ。
「謹んで、王命をお受けいたします」
その声音は震えることなく、むしろ凛とした誇りを含んでいた。
王の横に控えるユリシスは、わずかに瞼を伏せてアメリアを見やる。冷徹と噂される男の瞳に、ほんの一瞬、驚きの色が宿った気がする。
「そうか、受けてくれるか! 誠にめでたい。グランディール嬢は妃教育も受けておるからこれ以上の縁談はないだろう!」
国王が婚約の成立を高らかに宣言すると、広間にいた貴族たちは一斉に頭を垂れ、形式的な祝福の言葉を述べた。
けれどその目の奥にあるのは、好奇と軽蔑と、わずかな憐憫だ。
第一王子に婚約破棄された令嬢。わざわざそのことを持ち出す王の無神経さにも呆れる。
グランディール侯爵家の面々は一段下の列に控えており、母は口元に手を当て、弟のエドマンドは眉を寄せて心配そうに姉を見上げていた。
(まあまあ。エドマンドのあんな顔が見られるなんてそれだけでも来た甲斐があったわ……ふふ)
案外かわいい弟に胸の奥でそっと笑みをこぼしていると、王は隣にいる宰相と何やらコソコソと話をしていた。
「ではユリシスよ、アメリア嬢と少し話でもしなさい。薔薇が見頃だ」
「……はい」
王に頭を下げたユリシスがこちらを見て、スタスタと歩き出す。アメリアは慌ててその背中を追った。
周囲からまたヒソヒソと話す声が聞こえたが、まあどうでも良いのでとにかく足を動かす。
広間を出ると、そこにユリシスはいた。
「……」
アメリアを確認すると、また踵を返して無言で歩き始める。ゆるやかな歩調でアメリアに合わせてくれつつ、一定の距離を保ったままだ。
ようやく薔薇園らしきところに到着すると、ようやくユリシスは立ち止まった。それから徐ろに口を開く。
「アメリア・グランディール侯爵令嬢。君が私の婚約者となることは覆せない」
冷たく突き放すような声色だ。
アメリアは負けじと背筋を伸ばし、ことさら美しく微笑んだ。
「はい。よろしくお願いいたします」
ユリシスは一瞬だけ視線を逸らし、低く言葉を継ぐ。
「君も承知のとおり、私には悪評がある。……恐れるなら、恐れてもいい。ただ、逃げ出すことだけは許されないだろう」
表面だけを捉えれば、冷徹な宣告だ。
けれどアメリアは怯えるどころか、柔らかに微笑んだ。
彼は一体いつから悪意に晒されてきたのだろう。その冷めた表情に、ユリシスのこれまでの生き方が見えるような気がする。
(黒髪が悪魔の化身だとかなんとか、本当にくだらないわ)
だが、逃げ出すと思われたのは心外だ。
「ユリシス様。わたくしは昔から運がいいのです。だから勝手に幸せになれますわ」
「は……」
その言葉に、ユリシスの口元がわずかに揺らぐ。短い沈黙のあと、彼は言葉を落とした。
「近いうちに、私は臣籍に降りて王族という立場を離れることになる。王からは――リュストア領を授かる予定だ」
ユリシスの声音は重く、広間の静寂に深く落ちた。なるほど。第二王子という身分そのものを王籍からなくしてしまうつもりなのか。
さらに賜る予定だと言っているリュストア領は国境に接しており、長らく戦火にさらされてきた痩せた土地だ。
豊かな交易路もなく、寒風吹きすさぶ荒野と小さな町や村が点在するばかり。
王都の貴族たちにとっては、栄誉ある領地というよりも、遠ざけたい厄介事にほかならない。
王家の思惑は明らかだ。
不穏な噂を背負うユリシスを臣籍降下させることで、第一王子フレデリックの立場を盤石にする。
そしてその一方で、ユリシスに公爵の地位を与え、表向きは恩寵を施したかのように見せる。だが実態は隣国との国境警備に他ならない。
王家にとって都合のよい整理であり、表舞台から彼を遠ざける最良の手段でもある。傍に置いておけば、必ず政争が起こると踏んでの判断だ。過去には国を割るような事態に陥った事もあると言うし、王位は非常にデリケートである。
呪われた王子、と蔑み遠ざけながら、武神のごとき彼の力を必要としているのだろう。
(まあ。なんともわかりやすいこと)
散々蔑んでおきながら、その力は利用したいという都合のいい話だ。
その『呪い』の信憑性はいかほどのものか。
アメリアが調べた所によると、彼に仕えていた侍女や騎士たちはなぜか原因不明の火傷や怪我を負い、母親である第二妃も病死してしまったのだという。それが全て彼の呪いだと。
(起こったことは事実だとは思うけれど、皆がそう口を揃えることに違和感がありますわ)
アメリアは胸の奥で小さく嘆息した。
しかしその表情に陰りはなく、むしろわずかに唇をほころばせる。
「まあ、リュストア領ですか。訪ねたことはございませんが、美しい湖があると聞き及んでおります。是非見てみたいですわ」
アメリアが笑みを浮かべているのを見て、ユリシスは静かに眉を寄せる。
「それに、そこの湖魚が絶品だと以前新聞で見ましたの! 滋味深いのだとか。それほど素晴らしいのであれば、毎日の食卓に並べられますわね」
「……湖魚、だと?」
「ええ。それに、リュストアには古城が残っているのでしょう? そこに住まうことになるのかしら。絵画を拝見したことがあるのですけれど、とても美しくて……実際に訪れるのが楽しみですわ!」
痩せた土地、国境に近い辺境。冷遇の代名詞であるリュストアを、アメリアはまるで宝石を見つけたかのように語った。
ユリシスの金の瞳がわずかに揺れる。
「……本気でそう思っているのか」
「もちろんですわ。どのような土地であれ、必ず誇れるものがあるはずですもの。わたくしはそれを見つけるのが楽しみでなりませんの」
あまりにあっけらかんとした答えに、ユリシスは返す言葉を見失った。
戦場で武神とまで称えられた男が、目の前の令嬢一人に完全に調子を崩されている。
ふと口元が緩みかけて、ユリシスは慌てて視線を逸らした。
だがアメリアはそれを見逃さず、穏やかな声音で言葉を添える。
「まあ殿下。笑ったお顔も、とても素敵ですわね」
その一言に、冷徹と噂される男の頬が、わずかに赤らんだ。
不器用に視線を伏せる姿に、アメリアは胸の奥でひそやかに笑みを深める。
「ユリシス殿下、ご安心くださいませ。わたくしは女主人の仕事も母から学んでおります」
「兄とは違って、君を王子妃にすることはできない」
「まあ。わたくしは別にお妃様になりたくて承諾したわけではありません」
「しかし、君は兄のことを……」
言い淀む彼の言葉を遮るように、アメリアは軽やかに言葉を紡いだ。
「あらあら。別にフレデリック殿下をお慕いしていたわけでもございませんわ。ユリシス殿下のご希望であれば、わたくしはお飾りの妻でも構いませんし、屋敷のことに口を出すなというのであれば、そういたします。政略結婚とはそういうものでしょう?」
アメリアは明るくのびやかにそう述べた。第一王子にはこのズケズケというところが気に食わないと言われた気がするけれど、もう過ぎたことだ。
アメリアの視線の先にいるユリシスは思わず息を呑み、金の瞳をまるく見開いていた。冷徹と噂される王子らしからぬその反応に、彼自身が最も戸惑っているようだった。
「私は、妻となる君に対して不義理なことをするつもりはない」
「まあ」
そう真っ直ぐに言われ、アメリアは思わずときめいてしまった。フレデリックには既に愛妾候補が数人いたし、他の貴族も似たようなものだ。
だから逆に、すごく新鮮だった。
「ではユリシス殿下。これからよろしくお願いいたします」
「……ああ」
「リュストア湖、ぜひ見てみましょうね!」
すっかり気を良くしたアメリアは、ニコニコと満面の笑みでユリシスを見上げたのだった。
***
それからふた月も経たない内に、アメリアはリュストア公爵となったユリシスの元に嫁ぐ事になった。
通常ならば婚姻まで一年以上かけることもあるが、この早さでいくと何もかも決定事項だったのだろう。
不安材料はさっさと処理したいという意図が透けて見える。
今はガタガタと揺れる馬車で、ユリシスと向き合っているところだ。
「お迎えありがとうございます。すぐリュストアに戻る事になりますが、良かったのでしょうか」
アメリアはそう問う。
既にリュストア領に移住していたユリシスが、またわざわざ王都に迎えに来てくれたのだ。
辺境の地であるリュストアからは距離もあるし時間もかかる。その道のりをわざわざ来てくれたことに驚きを隠せない。
「……花嫁を迎えに行くのは私の仕事だ」
何度か話をして気が付いたのだが、どうやらユリシスはめちゃくちゃいい人みたいだった。
最初の時も、悪評だらけで辺境に嫁ぐことになるアメリアをとても心配してくれていたらしい。
「ありがとうございます」
(その優しさに付け込まれたのではないかしら)
アメリアはお礼を言った後、頬に手をあててじっとユリシスを見つめた。
ユリシスに付き纏う呪いという悪評。彼と一緒にいると不幸になるらしいが、今のところアメリアはその呪いを受けてはいない。
二度ほど王宮に呼ばれる事があったが、そのときのお茶会でカップの中に虫がいたり、贈られるはずのドレスが引き裂かれたりしていたけど、どう考えても人為的だ。呪いじゃない。
庭園を散歩していたら黒猫が横切ったのは偶然だと思いたい。
侯爵家は元々傾いていたし、虫入りカップは同席した王妃に見せてあげたし、ドレスをボロボロにした侍女も見つけ出したし、特に何も問題はないのだ。
「そうだわ。ユリシス殿下、リュストア湖はもうご覧になりましたか?」
「いや、まだだ」
ユリシスが先にリュストア領に発ったのはふた月ほど前のこと。だからすでに領地を見て回っていると思ったのだけれど。
その気持ちが顔に出ていたのか、アメリアが首を傾げるとユリシスはどこか言いづらそうに言葉を紡ぐ。
「……君が、見たいと行っていたから。その時に行こうと」
「まあ!」
「地図で位置は確認している」
「まあまあまあまあ!」
「……そんな顔で見ないでくれ」
「あら、わたくしどんな顔をしているのでしょう」
アメリアと共にリュストア湖に行くことが彼の中で当然のように語られることが嬉しくなったのは確かだ。けれど、どんな顔をしているのか見当もつかない。
その時だった。
ぐらり、と馬車が大きく傾き、馬たちが嘶く。
「きゃあ!」
「っ――!」
体が浮いたかと思った瞬間、アメリアは強い腕に抱き止められていた。
硬く鍛え抜かれた胸板に押し寄せられ、思わず息を呑む。ユリシスの腕がアメリアの肩と腰をしっかりと支えていた。
金の瞳が間近にあり、その鋭さの奥にかすかな焦りがのぞいている。
「……アメリア嬢、怪我はないか」
「え、ええ。大丈夫ですわ」
ユリシスの腕からそっと解放されると、アメリアは揺れる馬車の中でパタパタと身なりを整えた。
御者が慌ただしく声を上げる。
「殿下! 車輪がぬかるみに取られてしまいました!」
見ると、片輪が深く泥に沈み込んでしまっている。
御者や従者たちが泥に足を取られながら必死に立て直そうとしているが、容易には抜けそうにない。
「……またか」
ユリシスは低く呟き、金の瞳に影を落とした。
その表情は苛立ちではなく、思い詰めるような苦渋に満ちている。まるで、これも自らの呪いの証だと信じているかのように。
アメリアはそんな横顔を見上げ、ふわりと笑みを浮かべた。
「まあまあ、殿下。時間もかかりそうですし、ちょっと外に出てみましょう?」
「外に?」
「ええ。ここはどのあたりかしら。リュストアにはもう入っていますか?」
「そうだな、端のほうだ」
「あら。それは一層良いですわね」
怪訝そうに眉を寄せるユリシスをよそに、アメリアは軽やかに裾を摘み上げ、馬車から降りてしまう。
外に出ると、そこにはのどかな風景が広がっていた。
緩やかな丘がいくつも連なり草は青々として、所々に野花が咲いている。遠くには小さな農村の煙が細く立ちのぼり、鳥の声が空へと溶けていく。
(痩せた土地と言われていたけれど、そうでもないように見えるわ)
想像よりもずっとのどかで優しい風景が広がっている。
頬をかすめた風は少し冷たく、王都の柔らかさとは違う鋭さを含んでいた。
「まあ……清々しい空気ですわね。心が洗われるようですわ」
確かに通り雨でも降ったのか、地面はまだしっとりと湿っている。だが、すでに雨雲は去り、澄みきった青空が広がっていた。
「アメリア嬢。あまり一人で出歩かれては――」
「まあ殿下! 見てくださいませ、虹ですわ!」
追いついてきたユリシスの袖を咄嗟に掴み、アメリアは弾むように声を上げた。
指差す先、丘の向こうに淡い七色の光が弧を描いている。
銀の髪を揺らしながら、彼女は子どものように目を輝かせていた。
喜びに頬を染め、虹を仰ぐその横顔は、あらゆる冷たい噂を吹き飛ばすほど眩しい。
虹を見上げていたアメリアは、ふわりと微笑んで振り返った。
「幸運でしたわ。馬車から降りなければ気づかなかったでしょう」
その言葉に、ユリシスは信じがたいものを見るように彼女を凝視する。
アメリアは優雅に首を傾げ、さらりと続けた。
「ぬかるみに車輪を取られるなんて、雨上がりには良くあることですわ」
「……しかし、アメリア嬢に大変な思いを」
ああ、やっぱり。
この人はアメリアに降りかかることを全て自分の責任だと思っている。かつてそうやって押し付けられた不幸を、受け入れてしまったように。
(呪いを掛けられているのはユリシス殿下の方だわ)
無性に腹が立ってきたアメリアは腰に手を当て、自分よりも背丈の大きなその人をキッと睨みあげた。
「ユリシス殿下、不良債権を娶ることになったご自覚はおありですか?」
「不良債権……?」
「ええそうです。婚約破棄されて、さらに実家は没落寸前の令嬢を押し付けられていますのよ。大変なのは殿下の方ですわ。わたくしや侯爵家にとっては幸運な申し出でございます」
あのままであれば、没落貴族となり、もしかしたらとても大変な目に遭っていたかもしれない。
この王命で救われたのはアメリアの方。アメリアにとっては、幸運でしかない。
「……不良債権、か」
ユリシスの口元がわずかに揺らいだ。けれど笑ったわけではない。深く沈む金の瞳が、まっすぐアメリアを捉えている。
「アメリア嬢」
「はい、殿下」
「……私はもう王族ではない。だから、ユリシスと……そう呼んでくれないか」
その声音は、意外なほどに静かで柔らかかった。
アメリアは瞬きをひとつしてから、にっこりと微笑む。
「はい。では、ユリシス様と」
名前を口にした瞬間、彼の金の瞳がはっきりと揺れた。
次の瞬間、アメリアの手首がぐっと引かれる。ユリシスの美しい瞳が近い。
「アメリア、と呼んでもいいだろうか」
「もちろんですわ」
銀の髪が風に揺れ、紅の瞳がまっすぐに彼を見返す。
その瞬間、ユリシスの表情が初めて強く崩れた。
「君を不幸にしない。そう誓う」
深く低い声。
まるで己自身に誓うように吐き出された言葉は、アメリアの胸をわずかに震わせた。
まだ未来は不確かだ。呪いの噂も、辺境の過酷さも消えはしない。
けれどその眼差しの熱に、アメリアは確かに気付いてしまった。
「はい。一緒にがんばりましょう」
ユリシスの指先に込められた力は、不器用な必死さと執着の予兆。
政略結婚のはずが、これから彼に溺愛される未来が待っているのだが――今のアメリアは知る由もない。
その後到着した古城でも、ついに行くことができたリュストア湖でもアメリアは心から楽しんだし、そんな彼女をユリシスは眩しそうに眺めていた。
新生活は、噂に反して穏やかで幸福なものだった。
痩せた土地にも確かな恵みがあり、アメリアの笑顔があれば、不運さえも幸運へと変わっていった。ユリシスはその姿を傍らで見守り続け、気づけば彼女の存在なくしては一日も過ごせないほどに心を許していた。
* * *
そして一年後。
第一王子フレデリックの婚礼が盛大に催され、リュストアからも二人は王都に招かれた。
かつて「呪われた王子」と「没落令嬢」と蔑まれたはずの二人が並んで歩けば、その美しさに会場はたちまちざわつく。悪魔と恐れられたユリシスが、妻アメリアにだけは微笑みを見せ、その手を決して離さない。誰の言葉も届かぬほど、彼は彼女にだけ懐いている。
仲睦まじい二人の姿は、王太子の婚礼さえ霞ませるほどに人々の視線を奪った。
「美しい人。私と踊っていただけますか」
「もちろんですわ、ユリシス様。喜んで」
フレデリック王太子の隣で新妻が唇を噛むのを横目に、ユリシスはアメリアの手にそっと口づけを落とした。
幸せそうな二人の姿を見て、もう誰も呪いのことなど口にしない。
リュストアは二人の治世で治安が回復し、交易も栄え始めている。冷遇と蔑まれた土地も、今や希望の象徴だ。
「目立ちすぎだよ、姉さん。元気そうでよかった。義兄さんもお久しぶりです!」
新たにグランディール侯爵となった弟エドマンドが義兄と姉に明るく挨拶をしたのを皮切りに、二人の周りには縁づきたい貴族たちが集まり始める。
かつて「哀れ」と笑ったその口が、今は競うように言葉を尽くし、羨望と称賛を投げかけていた。
そういえば王妃の姿が見えない。いつも美しく着飾って、フレデリックの傍らに立っていたのに。
(どうされたのでしょうね。公費の使い込みについて進言しただけですのに)
アメリアは涼やかに微笑み、隣に立つユリシスを見上げる。その瞬間、彼の金の瞳はただ一人、彼女だけを映していた。
それが柔らかく綻ぶのも、アメリアに対してのみ。
(政略結婚のはずが、控えめに言って最高ですわね)
リュストア領の若き当主夫妻はこの日、誰よりも華やかで幸福に満ちていたのだった。
おわり
お読みいただきありがとうございます。
呪いをかけられた王子さまを、メンタルつよつよヒロインが救うお話が書きたいなと思いました!そして懐かれてほしい。
感想や★★★★★評価などしていただけると最高にうれしいです