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9.お忍び

「ねえ、せっかくなら下町に行ってみないか?」


ルシアンがいたずらっぽく言い出したのは、数日後の事。

神殿や、聖女たちの仕事の様子などを一通り見終わった頃だった。


「えっ、下町ですか?」


ネージュは思わず聞き返す。観光客が訪れるような市場や広場ならともかく、王族がそう気軽に足を踏み入れる場所ではない。


「いいじゃないか。ずっと格式ばった場所ばかりだし、たまには庶民の暮らしを見てみたいよ」


ルシアンが無邪気に笑いながら言うと、ノアが小さくため息をついた。


「また殿下の気まぐれですか……」

「気まぐれとは失礼な。社会勉強ってやつだよ!せっかくだから、みんなで変装して行こう!」

「変装?」

「そうだ。こんなに大勢いるんだから、ちょっと身なりを庶民風にすれば、誰も気づかないさ」


結局、ルシアンの提案に誰も逆らえず、一行はそれぞれ目立たない服に着替え、神殿の外へと繰り出した。


下町の屋台通りに踏み入れれば、露店の活気に満ちた空気が漂ってくる。香ばしい煎り立てのナッツの香り、鉄板で焼かれる肉の音、甘い蜜菓子の香り——どれもネージュには馴染みのないものだった。


「わぁ……」


思わず立ち止まって見回すネージュに、ルシアンが驚いたように振り返る。


「どうした?まさか、初めて?」

「えっと……その……」


ネージュは少し戸惑いながら、視線を落とした。屋敷の外での食事の経験はほとんどなく、下町はもちろん、露店のならぶ祭りも行かせてもらえたことはなかったが、それを口にすることはできず、彼女は曖昧に濁した。

そんな彼女の反応を面白がるように、ルシアンは軽く笑いながら屋台のひとつで串焼きを二本買うと、一本をネージュに差し出した。


「試してみなよ。これはうまいぞ」


ネージュは恐る恐る受け取り、小さく一口かじる。すると、じゅわっと肉の旨味が口いっぱいに広がり、スパイスの香りが鼻を抜けた。


「おいしい……!」


驚いたように目を丸くし、もう一口、もう一口と夢中になって食べ進める。そんなネージュの様子を、ルシアンは腕を組みながらじっと見つめた。


「……そんなに美味しいか?」

「ええ! こんなに美味しいもの、初めて……!」


無邪気に笑いながら食べるネージュ。その姿に、ルシアンは思わず息をのんだ。


普段、彼女はどこか怯えたように俯いていることが多かった。けれど今は違う。心からの喜びを隠そうともせず、まるで子供のように目を輝かせている。

その様子に目を奪われたようにしばらく手を止めていたルシアンをノアは小突いた。

お忍びという事で、ノアも殿下と呼ばずにいつも以上にフランクに接しているらしい。


「ほら、串焼きの汁が服に垂れるぞ。なにしてるんだ」 

「あ……ああ、随分にぎやかだな」

「そうだな、ここの王都は港から遠い割に物流が良いみたいだ。スパイスをこの価格で庶民が使えるんだから」

「さすがノアだな」

「社会勉強にきたんじゃないのか?ルシアン」


しかめっ面のノアに、ルシアンは肩をすくめた。



その夜——


「今日は街の見学に行かれたようですな、いかがでしたかな?」


皇太子一行の談話室にエヴァン大司祭が顔を出した。


「急なわがままを聞いていただきありがとうございました」

「かまいませんよ、その年なら見たもの聞いたもの全てがその身になる時期なのですから、いろいろな経験をなされば良いのです」


神殿の話以外にも、彼らは街の仕組みなどについても話を聞いたりと話し込んでいた。


そんな中、ふとルシアンがつぶやいた。


「聖女の方々はかなり質素な生活をしているのですか?」

「まぁ、華美な贅沢はしておりませんが、多少ゆとりのある庶民の生活といったところでしょうか。なにか気になる点がございましたか?」

「大聖女は、貴族のご出身と伺っていたのですが、庶民の食事を見たことがないほど嬉しそうに食べていたので」


その言葉に、エヴァンは静かにルシアンの目を見た。


「……ネージュ様の生家では、食事ぬきもザラで、当然誰かと食卓囲むこともなかったはずです。美味しいかどうかを気にする余裕すらなかったのですよ」


その言葉に、ルシアンの表情が固まった。

たしかに、ネージュは気品ある貴族の娘のはずだった。

しかし、今日見せたあの純粋な喜び——あれは、ただの食事への感動ではなく、「生きる楽しみ」を知らなかった者の反応だったのだ。

そう彼は思い至った。


「……ルシアン殿下?」


ノアの声に、ルシアンはハッとする。


「……なぜ…」 

「聖女の伝承は事実なのです。虐げられた乙女が聖女になる。この神殿の聖女たちは皆多かれ少なかれ過去に傷を持つ者だけなのです。命の危機にさらされていたものもおります。その事を胸に留めておいてください」


ルシアン一行は全員、聖女たちの過去に言葉が出てこなかった。



その夜、ルシアンは談話を終えると、静かに自室へ戻った。シックな装飾の施された部屋の中で、彼はふと、窓辺に立つ。


——あれほど美しい笑顔を見せるネージュが、かつて食事すら満足に与えられていなかったなど、信じられない。


窓の外では、王都の灯りがまだちらほらと瞬いている。屋台の明かり、子供たちの笑い声、香ばしい串焼きの香り。全てが、今日の光景と重なっていた。


ノックの音とともに、ノアが入室した。手にはルシアンの夜の茶が乗った盆。


「ルシアン様、今夜は随分と黙り込んでいましたね。何かお考えですか?」


「……ノア。ネージュはなぜ、そんな生活をしていたんだ。彼女は貴族の娘ではなかったのか?」


ルシアンの声には、戸惑いとわずかな怒りが混ざっていた。その問いに、ノアは一瞬ためらい、それから懐から一冊の小さな手帳を取り出した。今回の訪問にあたり、案内役となる聖女たちの経歴を調べていた記録だ。


「事前に調べてはおりました。お聞きになりますか?気持ちの良い話ではありませんが」

「構わない!」


その言葉にノアは一度だけため息をついて手帳をめくった。


「ネージュ様は本来、聖女のなかでも血筋の良いブランデール侯爵家の生まれです。しかし……彼女はこの国の基準では二目と見られぬ醜女なのだそうです。それゆえに婚約者を始めとして、使用人や道行く人々からさえ蔑まれ続けていたようです」


ルシアンの眉がわずかに動く。


「……あれほど美しいというのにか!?」

「美しさの基準は変化するものです。この国では、華やかな髪や全てを映すような大きな瞳、そして慈愛に満ちた豊かな体……その全てが見るに耐えないものなのだそうです。逆に私達からみればあっさりとした容姿のレイラ様がここでは絶世の美女なのだと伺いました」

「だからといって、見た目でそこまでの扱いをするなどあっていいわけ無いだろう!」

「人というのは、時に『美』を血筋や名誉と同等に扱うものです。だからネージュ様は蔑まれ、レイラ様は……金を稼ぐための道具として、厳重に囲われていたそうです」

「……軟禁、か」

「ええ。ネージュ様は醜さゆえに、レイラ様は美しさゆえに……不幸だったのです」


ルシアンは、昼間の光景を思い返す。肉の旨味に目を丸くし、夢中で串を食べるネージュの姿。あれほど純粋な喜びを見せた理由が、今なら痛いほどわかる。


「……この前、私はネージュに『綺麗だ』と言った。彼女は……困ったような顔をしていた」

「その言葉が、彼女にとっては皮肉にも聞こえたのでしょう」


ノアの静かな言葉が、ルシアンの胸を打つ。


「……なんてことだ。私は彼女を……苦しめる側に立っていたのかもしれない」

「殿下」


ノアの声に、ルシアンは顔を向けた。


「司祭が仰っていたように、聖女たちは、ただ神に選ばれたわけではありません。過去に深い傷を負い、生きる望みさえ失いかけた者たちばかりなのです、同情でつかの間手を差し出すほうがよほどに残酷だと私は思います」


ルシアンは胸を押さえ、深く息を吐いた。


「それでも……それでも俺はまたネージュの笑顔が見たい、笑顔でいられるように守れたら良いとさえ思う」


その問いに、ノアは静かに答えた。


「殿下が彼女の笑顔を守りたいと願うのなら、まずは否定された彼女の全てを肯定して差し上げてはいかがですか?」


ルシアンは静かに目を閉じた。心の奥から湧き上がる感情を噛みしめながら。


——彼女の笑顔を、これからも見たい。


それが、今の彼にとって何よりも確かな願いだった。

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