5.親子の夜
ネージュは決意が鈍る前、明日にも神官に面会を申し込むことに決めた。
父である侯爵は神殿近くの高級宿に部屋を取り、娘を伴った。
クラシカルで上品な調度のそのホテルに入れば、使用人たちの態度は自宅の物とはまるで違うとネージュは小さく息を漏らした。
自身の醜い姿は見えているだろうに、気にも留めていないがごとく恭しく荷物を預かるホテルマン。
微笑みを浮かべるフロント。
それは全て侯爵といるからであろうことは理解してなお、本当は自分に似つかわしくないであろうこの空間は少しだけ息が楽だとネージュは感じた。
父が宿の手配をしたのだが、思えば父娘二人きりで食事をするのは物心ついてから初めてのことだった。
静かなレストランの個室で二人きり、テーブルに揺れるキャンドルの明かりが、幻想的に部屋の中を照らしている。
温かい湯気を立てるスープの香りが漂い、まるで本のように厚いお肉が前に運ばれてきた。その脇には、花を飾った美しいサラダが並んでいる。
この華やかな食事は、果たして本当に食べられるものなのだろうかとネージュは不安げに花を散らしたサラダをちらりと見た。
「エディブルフラワーだ。目で楽しむためだけれど、もちろん食べられるよ」
その眼差しに気づいた父はさりげなくサラダを口にする。
ニンジンの甘味が引き立つドレッシング、まぶされた小さなクルミの粒。
「花畑を食べたらこんな気持ちなのかしら」
その言葉に侯爵は微笑んでネージュを愛おし気に見つめた。
視線の先の彼女はそっと、透明感のある琥珀色のスープを、口にする。
「おいしい…!温かいだけでも嬉しいのに、こんなに美味しいなんて」
「温かいだけでも?」
その言葉に侯爵は僅かに眉をひそめた。
「ええと……」
失言に気づいて俯いたネージュに、侯爵は優しく語り掛け状況を聞きだした。
家では冷めきったスープが食卓に並ぶことが多く、それでも出てくるだけありがたいほど。
出てこなければそれで終わり。学校の食堂にも、色々と言われるから足を運ばないようにしていたし、お弁当を作ってくれなんて頼むこともできなかった、と。
「昼食がないのは慣れたので大丈夫です。でも、夜も抜かれる時は、さすがに辛かったですけど」
そこまで聞きだした侯爵は、ネージュに何不自由させたつもりはなかった自身の行動を悔やみ唇を噛んだ。
「お前のテーブルマナーは完璧だったから、まさかそんな思いをしていたとは」
「スープの練習はお水でした。お肉の練習は種なしのパンで、でもお父様から見て恥ずかしくないマナーが身についていたなら良かったです」
「あいつら……ネージュのための生活費を使い込んだのか……」
けれど、ネージュは芸術品でも見るように料理を見ていた。
美しいとは言えない灰色の大きな瞳には、揺れるろうそくの灯りが映り輝く。
他の人間のいない個室だからこそ、ネージュは誰も気にすることなく笑顔を見せた。
彼女の目の前に広がる花畑のようなサラダや、口の中でとろける肉は本当に美味しかった。
一人きりで冷たい視線の中で食べる冷めた料理などではない、という気持ちの問題を別にしてもその味はとびきりの物だった。
「お父様、せっかくのお料理が冷める前にいただきましょう?」
「あ、ああ。そうだな」
シュウは親子の時間の邪魔をしないと決めたのか、彼の姿は見えないし声も聞こえない。部屋の中で静かに過ごしているらしい。ただ、ネージュと父だけの時間が流れていた。
「ネージュ、桃は好きかい?」
「ごめんなさい、食べたことがないからわからないです」
その言葉に父は目を見開いて驚くが、ネージュもまた驚かれた理由もわからず少し困惑した顔をする。
「そうか…なら、明日一緒に食べに行こうか。もっと色々なものを知ってほしいと思ってな」
「お父様、自由に外に出られなくなる前に、楽しいことを覚えたら辛くなる気がします」
「そうか…そうだな」
彼が組んだ手に顔を埋めるようにしてつぶやいたその声は、くぐもって聞こえた。
顔を隠しているからだけではないだろう。その言葉の奥にあるものは心中の慟哭のようだった。
食事を終え、部屋に入ればふかふかのベッドや、良い香りの石鹸が置かれたバスルーム。
ネージュはついはしゃいで、慌てたように父を見やるが、彼の表情は咎めるものではなくただ笑みを浮かべていた。
「お父様…今日は小さい頃みたいに、一緒に寝てくださいませんか?」
「ネージュ…。もちろんだ」
大きなベッドにネージュが横たわれば、父はそっと布団の上からケットをかけてポンポンと子供をあやす様に叩く。そのリズムはひどく懐かしいような暖かな物。
「お父様…天井に影絵でお話を映してくださったことがありましたよね」
「ああ、あったな」
小さな頃、ネージュはその影絵に夢中だった。何も考えず、ただ話に没頭していたけれど、この年になれば判る。彼の使った光の魔法はとても緻密で、贅沢で、普通の魔法使いには到底真似できない技術だった。
「あれが見たいです」
「お安いご用だ」
彼はにっこりと微笑んで、手を広げながら言った。
天井に映る光の影絵をじっと見つめていれば、ネージュの心は静かに過去に引き戻されていく。
幼い頃のこと、父と過ごしたあたたかい日々。
語られる物語のひとつひとつが、彼女が幼いころに夢中になった話ばかりだった。
太陽の神様と月の女神が運命の出会いを果たし、力を合わせて世界に平和をもたらすお話。
水の女神が泉を創り出し、人々に恵みを与える物語。
傷ついたドラゴンを守るために立ち上がる勇敢なお姫様の話。
それらの物語以上に、好きだった物語を父が忘れずにいたことにネージュはただ満たされる。
それは、まるで長い間忘れかけていた時間が一瞬で戻ってくるような、不思議な感覚だった。
「お父様、もうこんなに夜が更けてしまいましたね」
布団の中で身体を丸めながら、ネージュが眠たげな声で呟くと、父は静かに髪を撫でる。
その手のひらの温もりが、より一層眠りに誘う。
「そうだな、昔はこうしてよく夜更かししてしまったな」
「ええ。そして朝には、お母様がいつも起こしに来てくれました」
その言葉に、父は一瞬沈黙した後、少しだけ深く息をついた。微かに震える声が聞こえる。
「……ああ、そうだったな」
父の声は、少しだけ寂しさを含んでいた。
彼にとって、妻――フロリアは、本当に大切な存在だったのだろう。
「お母様も、きっとこうしてお話を聞く私を見て、微笑んでくれていたんだろうな」
「フロリアなら、どこにいてもお前が幸せであってほしいと思うだろうな。きっとそうだ」
父の言葉にネージュは夢うつつでうなずいた。
母はいつだって私の幸せを心から願ってくれていた。今も私が幸せであることを、天から見守ってくれているに違いない。
穏やかな沈黙が二人の間に流れた。
神殿に上がるという未来が待っていることは分かっていてなお、それでも、いや、だからこそこんなふうに静かに夜を共に過ごせていた。
「お父様」
「なんだ?」
「私、お父様の娘で良かったです」
その言葉が、ネージュの口からこぼれ落ちた。
すると、父の手がふとぴくりと震えた。しばらく黙っていた父が、ようやく口を開いた。
「……ありがとう、ネージュ」
静かに目を閉じたネージュの瞼の裏にも天井に映る魔法の光がまるで幻想のようにゆらめいていた。
心地よく温かな光に包まれて、彼女の呼吸は穏やかな寝息に変わっていく。
「……こんな父で、すまなかった。ネージュ」
天井に映る光の影絵は、ゆっくりと消えながら父の涙に小さく反射した。