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42.灰燼のアレンテ

谷間での一昼夜は、まるで時の流れそのものが足を止めたかのように、静寂に包まれていた。

吹きすさぶはずの風もここではただ遠くで唸るばかりで、この小さな空間だけが別世界のように穏やかだった。


サヴィアは、ネージュとレイラが交代で額を冷やし続ける中、浅い呼吸を繰り返していた。

その小さな身体は無理の跡を隠しきれず、時折まどろむように意識の端を漂っている。

ネージュはそっと布越しに彼女の手を包み祈るように呟く。


「大丈夫……きっと、すぐに良くなるから」


その声は自分自身に向けたものでもあった。

静かに、冷たい水に塩と砂糖を溶かした即席の飲み物をサヴィアの唇にゆっくりと運ぶ。


その隣でシュウがゆるく微笑む。


「あの日々は、いま確かに人を救ってる。そうだろう?」


エレンもまた、霧のような水の膜に包まれ静かに目を閉じて横たわっていた。

彼女の頬に浮かぶ皺は、ただの疲労ではなかった。命を削って祈ってきた者の刻印のように、深くその顔に刻まれている。


そして夜が明け、一日が過ぎた頃――


谷に差し込む朝の光の中で、サヴィアがふと目を開ける。

ノトスの腕に支えられながら、ゆっくりと身体を起こしたその姿には、まだ細いながらも確かな意志が宿っていた。


「……もう、大丈夫。少しずつなら……歩ける」


その言葉に、ネージュは安堵の息を漏らしながら手を伸ばし、彼女の指をやさしく握る。


「無理だけはしないでね。少しずつ……ほんとうに、少しずつでいいから」


その声に、サヴィアは小さくうなずいた。


やがて、皆が再び歩みを始めた。

もはや急ぐ旅ではない。

足並みを揃えながら、誰もが互いの歩幅を確かめ合うように、静かに砂の大地を踏みしめていく。


風は、ようやく穏やかさを取り戻していた。


そうしてしばらく進んだ後――

赤茶けた岩肌と、朽ちかけた石の門柱が、月明かりに照らされ姿を現した。


「……ここが」


ネージュが立ち止まり、小さく息を呑む。

風に削られた礎石、崩れかけた石垣、そして神殿跡と思われる祠のような構造物が、ひっそりとそこに在った。


かつて『アレンテ村』と呼ばれたその地は、もはや村の形をしていなかった。

だが、誰の目にもそれとわかる――そこには、確かに祈りの痕跡があった。


「……魔力の流れが、変わってる」


シュウが地に膝をつき、掌を砂に当てる。

その指先がわずかに震えた時、皆の視線が一点に集まった。


風化し、色を失いながらも、かすかに赤みを帯びた石柱。

他のどこにも見なかった色彩を纏うそれは――


「これが……忘れられた、オベリスクなのか」


ルシアンの声がかすかに震える。

傍らで、エレンが目を伏せ、深く息を吸い込んだ。


「ようやく、辿り着いたのですね」


その声は、祈りにも似ていた。


そのとき、ネージュの背に、ふっと温かな風が触れた。

振り返ると、そこにはサヴィアが立っていた。


その表情にはまだ疲労の色が残っていたが、確かに前を見据える力があった。

彼女の横にはノトスが寄り添い、風の精霊として、静かにこの地の空気を見守っていた。


いまここに、祈りを捧げるべき者たちが、ようやく揃ったのだった。


まだ学者や神官たちが荷を解く間もなく、聖女たちは静かに、だが確かな決意を持って、忘れられたオベリスクの前に進み出た。


風に削られた石の柱は、かつての荘厳さをかろうじて留めていた。ひび割れたその表面には、かすかに赤みを帯びた紋様が浮かび、聖女たちの祈りに呼応するかのように、淡く脈打つような光が灯る。


聖女たちは一様に、静かに跪いていた。

両手を合わせ、目を閉じ、深く息を吸い込みながら。


だがそのままの姿勢で、ネージュの体がわずかに、しかし確かに震え始めたのは、それから数拍後のことだった。


「……ネージュ?」


最初に言葉を発したのはルシアンだった。

だが彼が動くより早く、革の面頬をつけた一人の魔導騎士が風のように駆け出した。その身のこなしには、迷いもためらいもなかった。


ネージュの肩を抱き上げ、地面からそっと離したその男――ラウル・クリミネルは、これまで口を閉ざしてきた男だった。


「彼女の魔力流出量が異常だ」


短く、断言するように放たれたその声に、学者たちがはっと顔を上げた。手元の計測器に視線を落とした一人が、青ざめた表情で叫ぶ。


「こ、これは……! 周囲の魔力濃度が急激に上昇しています!こんなの、見たことがない……!」


「ネージュ!? 大丈夫ですか!?」


駆け寄ったレイラが、ネージュの手を握りしめる。彼女の顔には焦りと不安が滲み、その目は揺れていた。


「……レイラ様は? お身体に異常は……」


神官の一人が問いかけると、レイラは深く呼吸し、確かめるように小さく頷いた。


「私は……変わりません。これまでと、同じです」


それに続き、エレンが静かに目を伏せながら言った。


「私も同様です。違和感も、痛みもありません」

「うん、あたしも」


サヴィアが弱々しく、それでもはっきりと頷いた。

その返答に、ルシアンは思わず拳を握りしめた。焦燥と困惑が入り混じった視線を、ラウルがネージュを横たえた場所に向ける。


ラウルは膝をつき、ネージュの額に手を当てる。呼吸は浅く、顔色は蒼白。魔力の奔流に身を投じた代償が、彼女の身体に深く刻まれていた。


「……なぜ、彼女だけが」


ルシアンの問いに、誰も即答することはできなかった。


シュウがゆっくりとその場に現れ、風に舞う砂のように静かに呟いた。


「……私の魔力が、ほぼ失われていない」


その言葉はあまりにも静かで、だからこそその意味が重く響いた。

聖女とともに祈る大精霊が力を失わぬままならば――その負荷はすべて、ネージュにのみ注がれていたことになる。


熱の残る砂の上に、ネージュの額から落ちた汗が一粒。すぐに吸われ、跡だけが残った。


沈黙を破ったのは、神官長のひとりだった。神殿で長らく神秘を扱ってきた老神官は、畏敬を込めて一歩前へ進み出る。


「……大精霊シュウ様、今の言葉、確かでございますか? 祈りにおいて、あなたが消耗された感覚は――?」


シュウはまばたきひとつせず、その問いに静かに頷いた。


「確かだ。私は、ネージュとともにあったが……私の力の使われた量があまりにも少なかった」


そのとき、澄んだ音とともに、空気がわずかに潤む。


「私はいつも通りにエレンと祈った感覚です」


現れたのは、水の大精霊マーレだった。微笑をたたえながらも、その視線には不思議な色があった。

場に広がる違和の気配。


それを感じ取ったのか、一人の学者――かつて食事時にネージュを炎の女神に似ていると言った青年が、おずおずと声を上げた。


「……では、逆に。今までの旅の中で、最も多くの魔力を使ったと感じた場所は、ありますか?」


問いかけられたシュウは、ほんのわずかに首を傾げた。


「……タルソス、だな。あれだけさびれていたからだろうが、少し、魔力を引かれた感覚があった」


すぐそばに佇んでいたガイも、目を閉じてうなずいた。

だが、その中でマーレは、ふと違う答えを返した。


「わたしは……カラーリアです。港の神殿で祈った時……あのときが、一番……」


その声には、かすかな驚きがにじんでいた。

ノトスもぽつりと付け加えた。


「アーフェンだ」


それぞれの精霊たちが告げた言葉が、静かに積み重なっていく。

祈りの場において、大精霊たちの力は異なる消費をされていたのだと、精霊たち自身さえも初めて気が付いたのだった。

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