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40.真夜中の歩み

再び夜の旅が始まった。


空には月が浮かんでいたが、薄い雲の流れにその姿を隠されては現れ、淡い光と影を砂の大地に落としていた。足元を踏みしめるたび、さらさらと砂が滑り、時折混じる小石が鈍い音を立てる。

風はひんやりとしていたが、その冷たさには乾きが混じっていて、土を巻き上げるには十分すぎる力を保っていた。


「……地形が変わってきたな」


ノアが静かに呟く。地面の傾斜は徐々にきつくなり、砂だけでなく岩の破片が混じるようになってきた。旅の序盤にあった草地の穏やかな景色はもう遠く、いま彼らが進むのはもはや道なのか風が残した跡なのかも不安になるようなものだった。


荷車を押す神官たちの肩が重く沈み、息も徐々に乱れていく。その少し後方、ネージュは努めて平静を保っていたが、歩を進めるごとにわずかに呼吸が浅くなっていた。


「大丈夫、ネージュ?」


気づいたルシアンが、さりげなく歩幅を合わせて隣に並ぶ。心配を悟らせないように声の調子は柔らかく、しかし真っ直ぐに彼女を見つめていた。


「足、痛めてない? 荷物……代わろうか?」

「いえ、大丈夫です……ありがとうございます、ルシアン様」


ネージュは微笑みを作ったが、その額にはうっすらと汗が滲み、背筋にはわずかに緊張の名残が張りついていた。彼女の返答に満足せず、ルシアンは無言で自分の外套を肩から外しそっとネージュの肩にかける。


「夜の汗は油断すると冷える。強がりすぎは、人を心配させるだけだよ」


一瞬ネージュは息を詰めたように目を伏せ、それからそっとうなずいた。言葉よりも、その仕草に宿る真心に。


その少し後方。砂の舞う夜道を重い荷を背負いながら黙々と進んでいた一人の魔導騎士がいた。革製の面頬で顔を覆い、口数少なく歩むその姿には、誰もが「ただの従騎士」として視線を向ける。しかしその視線だけは、途切れることなくネージュの背に注がれていた。


ラウル・クリミネル。


もはや娘に声をかける資格などない――そう悟るように、彼はただ黙して従っていた。ネージュのそばに、彼女と歩む誰かがいるのならば、自身の役目は“見守ること”だけだと、そう定めて。


夜風が再び吹き抜け、地平線の先がわずかに揺れる。星々の光がその上にこぼれ落ち、彼らの道をかすかに照らしていた。

──それでも、彼らは進む。

まだ見ぬ祈りの地を目指して。



太陽が地平線を昇りきる頃、一行は乾いた岩陰を選び、簡易な天幕を張って休息に入った。夜明け前の冷気がまだ残る空には、柔らかな白光がじわじわと広がり始め、乾いた大地は静かに熱を取り戻しつつあった。


風はすでに弱まりつつあり、空気の重さと静寂が辺りに満ちていく。砂と岩に囲まれた窪地に身を横たえ、一行は眠りについた。サヴィアが導いた風はわずかな涼を保ち、彼らの疲れをそっと包み込んでいた。


そして、日が傾きはじめたころ目を覚ました一行は、出発を前にささやかな夕餉を囲む。


焚き火の炎がぱちぱちと音を立て、小鍋からは香草の甘い匂いが漂っていた。干し肉の脂がほのかに溶け、素朴な香りが空腹を誘う。


「もう少し煮れば、香草が甘くなりますよ」


ネージュが小鍋をかき混ぜながら微笑むと、周囲から「さすがだ」「頼りになる」と温かな声が飛ぶ。心もまた、少しずつ解けていくようだった。


そのとき、少し離れた岩に腰かけてスープをすすっていた一人の青年学者——細身で眼鏡をかけた、常に本を手放さない真面目な男——が、もそもそとページをめくりながら言った。


「……あっ、あのっ、ちょっといいですかっ」


周囲が振り向く。彼は慌てて本を手にしたまま、火のそばに近づいた。


「おまえ、また読んでるのかよ!」

「せめて食事中くらい本を置けって!」


仲間の学者たちが、あきれ混じりに声をかける。だが彼はまるで聞こえていないかのように、ページを開いたままネージュの前へそっと差し出した。


「えっと、これ……炎の女神の図像なんですけど……その……ネージュさんに似てますよ……」


その声は、決して悪意のあるものではなかった。むしろ純粋で、真っ直ぐで、目の前の聖女にただ感じたことを伝えたいという一心だった。

しかし、差し出されたその絵姿を見たとたん、場の空気がふっと止まる。

長く波打つ赤い髪、くっきりとした濃い瞳、そして柔らかくも力強い肢体――それは、まさしくフロスティアで“美”とされてきた基準から大きく外れる姿だった。


一瞬、周囲に微妙な沈黙が走る。


「……こいつ、またやった」

「あいつ、それ……知らずに言ってるだろうな」


呆れた声が小さく上がり、誰かが頭を抱える。だが青年学者本人は、自分が“地雷”を踏んだことにまったく気づいていない。


「あまり有名ではないんですが……あの、神々しさが……」


言葉を選びながら懸命に説明しようとする彼の顔は真剣そのものだった。それがまた、余計に周囲のため息を誘った。


だがネージュは、黙ってその古びた絵図を見つめていた。

そして、ゆっくりと目を細め――ふっと、小さな笑みを浮かべた。


「炎の女神……私が、ですか?」


学者は焦ってページをめくり直し、何か証拠でも探すように視線を泳がせる。


「こ、この目とか、あと髪の流れとか……」


ネージュは、少しだけ照れくさそうに笑った。


「光栄です。でも、そんな……私はただの土の聖女ですよ?」


その言葉に、あちこちから安堵の笑いがこぼれる。学者は自分がやらかしたことをようやく悟ったのか、顔を真っ赤にしながら古文書を胸に抱えて身を縮めた。


その笑いの輪の外、少し離れた場所で焚き火を見張っていたルシアンは、薪をひとつ、どんと乱暴にくべた。火の粉がはらりと舞い、ノアがちらりと視線を送る。


「俺の方が……先に言ったのに」


小さく漏れたその声を、火がぱち、と弾ける音がかき消した。

けれどノアだけはしっかり聞いていたようで、ふっと口元を歪める。


それを見て、ルシアンは少し顔をしかめてスープを口にしたのだった。

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