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4.父の帰宅

客間はひどく静かだった。


あれほどまでにアーサーが怒鳴り続けていたのに、ドア越しに耳をそばだてるメイドたちの衣擦れの音ひとつ聞こえない。

ネージュがこうしてゆっくりと一人で座っていられるのは、果たしていつ以来だろうか。

彼女の父が家にいるときはメイドたちも取ってつけたようにネージュを令嬢として扱うけれど、それもまたゆっくりというのとは違う。


無理に笑顔を作り、振る舞うことを強いられてきた。

そしてその笑顔が本当に必要とされていたのか、彼女は未だにわからないままでいる。


かろうじて落ちていなかったティーカップを手に取った。せめて、この一瞬だけでも落ち着こうとでもいう様に。

冷えて香りも消えた紅茶だが普段彼女が口にする出がらしよりはるかにマシな味がした。



自身は(みゆき)よりは、少なくとも、今は少しマシだろう。

家には金もあり、物質的に困ることはない。暴力を受けることもない。

それでも、なぜ「聖女」になったのか。

まだ全てが受け止めきれず、ネージュはゆっくりと順を追って考え始めた。


聖女というのは、国を支える、尊い存在であり、精霊を顕現させ、他の者には使いこなせないような魔法を行使する者だ。

はっきりと姿を持ち強い力をもつ「大精霊」、時折姿を見せる「精霊」、ごく小さな存在である「妖精」など顕現する精霊には種類がある

あの精霊、シュウはどう考えてもごく小さい存在とは考えずらい。

つまり、それを顕現させたネージュには聖女の宿命、独身で神殿に仕える生涯が待っている。


そして、聖女を出した家がどうなるかはアーサーの言う通りだ。

どうしても後ろ指をさされることは避けられない。生家をそんな目に遭わせるべきなのだろうか。

心の中でその問いが繰り返されるが、答えは出ない。思い悩んだところでどうにもならない。

聖女を出した家が聖女を隠すことも罪なのだ。


先刻のアーサーの言葉が、ゆっくりとネージュに現実を突きつけてくる。


使用人たちは彼女に冷たくも辛くも当たっていたが、父である侯爵から直接ひどい目にあったことは一度もない。

問題は、父がほとんど家にいないことだ。国の重鎮でもある侯爵はそれほどまでに忙しく、娘の悩みや問題に時間を割く余裕などないのだと家庭教師から何度も言われ、彼女はそれに従い口をつぐみ耐えてきた。

侯爵が忙しいのは仕方がないことだし、娘が悩んでいることは、彼にとっては何の重要なことでもないだろう、と必死で自分に言い聞かせて。


それでも、もし父に話していたら、少しは変わったのだろうか。

でも、そんなことを考えるだけ無駄だということを、彼女はよく理解していた。

変わらない現実を受け入れなければならない。結局のところ、変わることをただ願うだけが楽だったのだ。現実に踏み込んだ希望を持てば、絶望を味わうことになる。いつもそうやって諦めていた。


だが、それでもやっぱり、心の奥底でどこかで変わることを信じたくもあった。なによりも、自分が変わることができれば、きっと世界も変わる、いや、変わるかもしれないという希望は、母の声があったから消えずにいた。

『あなたもいつかきっと、このお姫様のように自分を信じられるようになるわ』

その優しい声。



考えが堂々巡りに陥ってしまったネージュは、目を閉じる。

前世でもよくしていた動き、目に見えないシュウの肩に頭を乗せるように首を傾けた。すると、予想もしない実体がそこに現れて頭を受け止める。ネージュは弾かれたように身を起こした。


「ただいま、幸」


シュウの声が彼女の動揺をすぐに静めた。彼の大きな手が、優しくネージュの頭に置かれて、穏やかな温もりが広がった。


「もうすぐ侯爵が帰ってくるよ、ほら。」


シュウの言葉と共に、廊下から物音が聞こえてきた。どうやら侯爵が帰ってきたらしい。シュウはさっと立ち上がり、ネージュを守るようにその前に立った。


「……シュウ」


呟きに、シュウは無言で頷いた。すぐに遠くのドアが開く音がして、侯爵の声が響いてきた。


「旦那様!客間にはお客様が!」

「なら尚の事私が挨拶せねばならんだろう。」


侯爵の声はどこか不機嫌そうで、それを耳にしたネージュは俯いた。侯爵はそのまま無理やりドアを開けさせようとしている。使用人の悲鳴があがる中、彼の声が響いた。


「いえっ!お嬢様のご友人でして!」

「ほう、ネージュの婚約者と浮気相手を未来の主としてお通ししたと聞いているが?」

「め、め滅相もございません!」

「いいから通せ!命令だ!」


ガタン!とドアが音を立てて開く。私はその音にピクリと震えてしまい、シュウは安心させるようにそっと私の手を握った。


「侯爵様、お早いお帰りで。その気になれば帰れると証明されましたね」


シュウがすぐに立ち上がり父を出迎えた。しかし、彼の言葉と声には何とも言えない棘が含まれていた。


「大精霊シュウ様。私の不徳の限りで御座います。」


父は深く頭を下げ、そのまま動かなかった。国の魔道騎士団でも最強の侯爵が、シュウの目の前で小さくなったように見える。そんな父を見つめるネージュもまた悲し気な目をしていた。


「幸…いや、ネージュ」


シュウは静かな声で続けた。


「今、魔道騎士団団長室で話をしてきた。君が受け続けてきた、そして彼が見逃してきた扱いを…。」

「お父様は悪くないわ。」


ネージュは慌てたようにそう言って、父の目を見つめる。

父はとても頑張っていたのだ。国の為に、だからこそ彼女も耐えたのだ、と彼女はシュウにも懇願するようにり返す。


「違う、ネージュ。私がもっとお前を気遣っていれば…。妻フロリアを失った苦しみから逃れるために、仕事に打ち込んで、フロリアの忘れ形見であるお前を苦しめていたことに気づかなかった…。」

「私はお母様のような美人ではないから、顔も見たくないんだと使用人たちに言われていました。やはり、似ても似つかない娘ではお父様の心の慰めにはなれませんでしたか」


ネージュがそう言った時、父の顔に苦しそうな表情が浮かぶ。その目はひどく後悔に満ちていて、彼女はその目を見続けることができず、俯いた。

俯いた弾みに、ぽつりと足元に一粒の涙が落ちた。


「違う!ネージュ、私を真っ直ぐ見つめるお前の眼差し、優しい声はフロリアそのものだ。あまりにも似ていて、辛かったんだ。いくら詫びてももう許されることではないのはわかっている。……ネージュ、お前の望みを教えてくれ」


父はその声を震わせながら言った。


「神殿に上がれば、ネージュは大聖女だろう。シュウ様は、ほぼ間違いなく大精霊だからな。魔導騎士の私が保証する。しかし、お前が結婚を望むのであれば、私がどこへでも連れて行こう。この国で聖女隠しが犯罪でも、隣の国ではそうではない。」

「でも、お父様のお立場が…。」

「ネージュ、知ってるか。私は魔法がちょっとばかり得意でな。どの国に行ってもお前と二人なら食べていける自信がある。」


侯爵はようやくやや明るい口調で冗談めかして言った。国最強の魔導騎士が言う『ちょっとばかり魔法が得意』という言葉に、少しだけ場の空気がほぐれ、ネージュは小さく笑った。

それを見て微笑んだ父の顔には、優しさと決意に満ちていた。


「ネージュ」


シュウが口を開く。その声はどこか穏やかで包み込むように優しかった。


「侯爵の言う通り、僕は地の大精霊。だから、君が神殿を望むのであれば、大聖女として敬われる立場になるだろう。そして、聖女になりたくなくても、僕は気にしない。どうあれ、ネージュを守るし、ネージュのそばにいる。君が誰かと結ばれ、子をなしたなら、その子も守るよ」

「ずっと、いてくれるの?」

「約束したろう?」


それが前世の今際の際の言葉を差しているのだと、シュウとネージュにだけは理解できた。

生まれ変わってなお共に居てくれる存在の温かさを確かめるように、ネージュは彼女を守るように立つシュウの背に触れてか、意を決したように口を開いた。


「シュウ、お父様、私は結婚なんてしたくないです。神殿に上がります。この家の恥になることをお許しください」

「この家の恥はお前ではない、お前を苦しめた私だ。」


侯爵の声が、どこか苦しそうに響く。


「侯爵、この婚約者はどうします?」


シュウがアーサーを抱え、侯爵に尋ねた。彼は少し黙って考え込むと、やがて決然と言った。


「破棄だろう!不貞の証拠はいくらでも集められるはずだ」

「ええ、いくらでも集めましょう。では、彼を送り返したら今夜は宿に泊まりませんか?この家では、ネージュはゆっくりとはできないですから」


シュウの言葉にネージュが思わず頷けば父が顔を伏せ、また束の間の静寂が訪れた。


「自宅がくつろげない場所とは…済まなかった…。」


苦し気な声がぽつりと落ちた。シュウはアーサーを抱えたまま、部屋を出て行った。

何もかもが変わっていくのだ。


ネージュは小さく首を横に振ると、まだ僅かに赤い目でそれでも父親に微笑みかけたのだ。

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― 新着の感想 ―
アーサーと実家の子爵家、浮気相手の準男爵家の2つはみせしめも有り、おとり潰しかな? 彼女自身は神殿に上がり、大聖女になると決めたから、侯爵家の使用人達も事情聴取後に何らかの処分おりるだろうし。
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