39.砂の大地へ
陽は高く、光はますます強さを増していた。土の色は次第に赤みを帯び、地を這うように伸びていた草は、やがてまばらになっていく。
草原の柔らかな緑が終わりを告げ、足元には埃がまとわりつくようになった、そのとき——
「……空気が、変わった」
サヴィアが立ち止まり、風を読むように顔を上げる。
頬をかすめる風は、冷たさをすっかり失い、ただ乾いていた。
「乾燥地帯の入り口だな。ここから先は、風向きも、水の気配もがらりと変わる」
ノアの呟きに、エレンは静かに頷いた。まなざしは遠く、まるで過去の幻を見ているようだった。
「ここを抜けるのは容易ではありません。でも……私たちになら、できます」
その声には、あの地を生き延びた者の確かさと、水の精霊との絆が宿っていた。
レイラは一歩前に出て、足元の地面に目をやる。
「岩が浅く出ていますね。進むほど、足場が不安定になりそうです」
その声に不安の色はない。研ぎ澄まされた観察力が裏打ちする、冷静な判断だった。
「でも、私とガイでなんとかなりますわ」
ネージュがふっと微笑んだ。
「大丈夫。みんながいるし。……私も、少しは役に立てるはず」
そして、シュウに問いかけるようにそっと囁く。
「シュウ、土じゃなくて……砂でも大丈夫?」
姿を現したシュウが、短く頷いた。
「ああ、問題ない」
言葉を交わしながら、皆で荷車の縄を締め直し、崩れた袋を結び直す。
そんな小さな積み重ねが、この旅を支えていた。
風が強まり、埃が舞う。前方には、波打つように連なる赤土の丘。
木陰も、泉もない。音すら吸い込むような沈黙の大地が広がっている。その先に、さらに過酷な砂の世界が待っていた。
けれど、誰も怯まない。
「行きましょう。ここからが本当の試練です」
エレンが前を向いて歩き出す。ネージュも荷物を担ぎ、振り返る。
そこには、どこまでも優しかった、穏やかな草原の景色。
でも、今は——前へ。
陽の照り返しに目を細めながら、彼女もまた一歩を踏み出した。
その足元には、死んだように赤茶けた大地が広がっている。
乾いた風は、朝と昼とでまるで表情を変えていた。
陽が昇るにつれ、地は容赦なく熱を帯びてゆく。靴底が焼けるように熱く、荷車の車輪もときおり軋んだ。
「……このままでは、神官たちが先に倒れますね」
ノアが帽子のつばを指で押さえ、背後を振り返る。
学者や神官たち――強行軍に慣れぬ面々は、熱と乾きに疲弊しつつあった。
「昼間は、歩かない方がいいかもしれません」
エレンが水袋を持ち上げ、中身を揺らしてみせる。内部には、空気から集めた水が、ひんやりと光っていた。
「夜に歩いて、昼間は休む。……その方が、現実的ですね」
ネージュも、うなずいた。
「風のない熱って……こんなに重いんですね」
そのとき——
「……風、呼ぶ」
ぽつりと、サヴィアが呟いた。
彼女の周囲の空気が、かすかに揺れる。熱の合間を縫うように、ひと筋の風が流れた。
サヴィアはそっと目を閉じた。風の通り道を探るように、静かに。
風は、彼女の指先に従うように吹き抜け、ほのかに涼しさを運んでいった。
それは、砂漠という試練を前にした彼女たちへの、小さな祝福のようだった。
「おお……まさか、本当に……」
神官の一人が、感嘆を漏らした。学者たちの間でも、驚きと尊敬の入り混じった声がさざ波のように広がっていく。
「これが……風の大聖女の力……!」
熱に追い詰められていた空気が、ひと筋の風によってわずかに緩む。それだけで、人々の顔色が変わるのがわかる。絶望の縁から、希望の光が差し込んだようだった。
「一度、ここで夜まで休息をとりましょう」
エレンの静かな声が、一行に冷静な判断を促す。誰も異を唱えず、荷を下ろし始めた。
その少し後ろで、ひとりの魔導騎士が黙々と働いていた。鎧に赤土の埃をまといながら、荷を担ぎ、水袋を分配し、力尽きかけた神官の肩を支える。
「……あの騎士、随分働くじゃないか。体は持つのか?」
ノアが小声で呟き、ちらとそちらへ視線を送った。
だが騎士は何も答えず、小さく会釈すると、ふたたび静かに一行の後方へ戻っていった。まるで影のように、ただ黙々と。
夜——
太陽が沈み、大地がようやく熱を手放す頃。一行は再び歩き出していた。
月明かりは心もとないが、風はわずかに強まり、昼間の重苦しさを洗い流してくれる。乾いた砂がさらさらと靴音に混じり、夜の静けさが旅人の足取りを包む。
夜の砂漠は、昼間とはまるで別の顔を見せていた。
星々が深い空に無数の光を放ち、地上はひっそりと眠っているかのよう。風は音もなく吹き、時折巻き上がる砂粒が冷たく頬をなでていった。
「……きれい……」
ネージュが、誰ともなく呟いた。
けれど、美しいのは空だけだ。足元の地面は、相変わらず命を拒むような無音の大地。彼女たちは、ただ歩みを重ねることでしか、次へ進む術を持たない。
そして、夜明けが近づいたころ――空気は、今度は冷たさを増していく。
昼の熱を吐き出した大地は、今度はそれを忘れたように、骨まで冷やす冷気を放ちはじめる。火照った身体に、冷気はじわじわと染み込み、疲労を鋭く浮かび上がらせていく。
「そろそろ、休もうか」
ルシアンの低い声が響くと、一行は頷き合い、風の流れがいくらか穏やかな窪地に腰を下ろした。
ノアとレイラが手際よく焚き火の準備を始め、サヴィアがそっと風の通り道を変えて、火種に酸素を送り込む。ぱちり、と乾いた音を立てて火が灯った瞬間、冷たい空気が少しだけ後退した。
焚き火の光が闇を押し返し、一行の顔に柔らかな明かりを与える。
「……あったかい」
レイラが両手を火にかざして、小さく微笑む。
ネージュは荷から干し肉とパンを取り出し、火のそばで温め始める。エレンは水袋を焚き火の脇に置き、冷たい水を少しだけぬるくしようとしていた。
そのとき、遠くで微かに砂を踏む音がした。
焚き火のそば、ひときわ静かに佇む魔導騎士。その顔を覆う革の面頬は、まだ外されていない。
「……苦しくは、ありませんか?」
レイラがそっと声をかけた。心配と、わずかな興味が混じったまなざし。
その言葉を聞いたエレンが、代わりに穏やかな声で答えた。
「こういった土地では、夜でも風が砂を運びますから……顔を覆っていれば、害虫や飛砂から身を守れるのです」
レイラは小さく頷いた。だが、彼女の視線はそのまま、騎士の仮面にとどまり続ける。
エレンは少し声を落として、そっと続けた。
「それに……騎士とは、ときに顔に傷を持つものです。名誉の証として。あるいは、過去の痛みとして」
その魔導騎士は何も言わず、ただエレンに一礼する。
一介の下級魔導騎士。ラウル・クリミネル。
その横顔に、ネージュと同じ灰色の瞳が一瞬だけ光ったことに、誰も気づくことはなかった。




