38.最後の旅路へ
旅立ちは数日後に決まった。
神殿地下の備蓄庫からは、水筒や保存食、乾燥地帯でも耐えうる外套が次々と運び出される。王立調査団は古い地図と気象記録を見直し、魔法院の学者たちは簡易結界札の調整に追われていた。風除けや水分補給、魔力の干渉対策――すべてが、旅路を少しでも穏やかなものにするための準備だった。
聖女たちもまた、静かに支度を進めていた。けれどネージュの手元はどこかぎこちなく、布袋に薬草を詰める指先は、わずかに震えていた。
そんな彼女の背後から、軽やかな声が落ちる。
「そんなに詰め込んだら、リスのほっぺでも真似できないんじゃない?」
振り返ると、ルシアンがいた。冗談めかして笑いながら、そっと椅子を引き、隣に腰を下ろす。
「……不安で、つい」
「母上もそうだったな。口が一つしかないのに、いつも口紅を五本くらい持ち歩いてた」
思わず吹き出しそうになったネージュは、慌てて手で口元を覆った。
「ほら、やっぱり君は笑ってるほうがいい」
「でも、今は……笑ってる場合じゃないです」
それでも、ネージュの頬にはほのかに朱が差していた。ルシアンは真面目な顔つきのまま、彼女の薬草袋をのぞき込む。
「これ、よく使うやつだよね? 上に入れた方が便利だ」
「……旅慣れているんですね」
「父上の命令でね。幼い頃からいろんな土地を回らされた。だから、こういう支度だけは慣れてる」
その言葉は自慢げではなかった。静かに、そっと寄り添うような響きがあった。声のひとつひとつが、胸の奥をやわらかく撫でていくようだった。
──そして、夜が来た。
神殿の一室。すべての支度が終わり、ネージュは静かな自室のベッドに座っていた。月明かりが白い寝具を照らし、夜の気配がカーテンの隙間からそっと入り込む。
「ねぇ、シュウ……」
囁くような声に応じて、大精霊が姿を現す。
「どうした?」
「……私、今日、少しだけ……楽しかったの」
声はかすかで、揺れていた。
「これから私はフロスティアのために祈らなくちゃいけないのに。何が起こるか分からないのに……そんな時に、楽しいって思ってしまった。いけないのに」
「幸は真面目だなあ」
そう、シュウは軽く言った。
けれどネージュは、ぶんぶんと首を横に振る。
「私は、聖女なんだから。使命を負ってるんだから。……それなのに」
シュウは真っ直ぐに、彼女の瞳を見つめた。
「使命の中に楽しさがあってはいけないなんて、誰が決めた?」
「でも……」
「ルシアンだろう? 君が楽しかった理由はさ」
名前を出され、ネージュは顔を赤らめた。
「彼は知ってるんだよ。息を抜かなきゃ、人は折れてしまうってことを」
そう言いながら、シュウはネージュの隣に腰かけ、その背をぽんぽんと軽く叩いた。
「幸は、幸せにならなくちゃいけない。使命のために、自分を使いつぶす必要なんてない。誰かを見捨てろって意味じゃない。けれど――『みんなの幸せ』を願うとき、自分をその“みんな”の中に入れること、絶対に忘れてはいけない」
その声は静かだったが、確かな力がこもっていた。
もう彼女を幸と呼ぶものはシュウだけだ。けれど、きっとあの頃の『幸』ならば、「楽しい」と思うこと自体がなかっただろう。過去の彼女にはシュウだけが味方だった、けれどネージュには……。
ネージュは目を伏せたまま、長いまつ毛を震わせていた。やがてそっと息をつき、窓の外の月を見上げる。
──祈れるだろうか。
心の奥に、確かに生まれた“幸せ”の気配を抱えたまま。
朝は、静かに、しかし確かにやってきた。
遠くから聞こえる鐘の音が、神殿の石壁に反響する。空はまだ薄藍に染まりきらず、夜と朝の境目が曖昧なまま、冷たい空気を漂わせていた。
ネージュは荷物を肩に、神殿の正門前に立っていた。旅装束に身を包んだ仲間たちが次々と集まってくる。誰もが言葉少なで、しかしその目には固い決意が宿っている。
ルシアンが、最後に現れた。彼の装いはいつもより質素で、けれど端正に整えられていた。ネージュの視線を見つけると、ふっと微笑む。
「……出発のときだな」
「はい」
ネージュの返事は小さく、でも震えはなかった。
王立調査団の先遣隊が先に馬車を整え、神殿の大階段をゆっくりと降りていく。その荷台には地図、観測機器、補給物資がぎっしりと詰め込まれていた。後方には聖女たちと護衛、学者たちが続く。
フロスティアからの祈りを背負って、旅は始まった。
最初の数日は、さほど厳しい道のりではなかった。
街道は整備され、周囲には小麦や豆を育てる畑が広がり、点在する農村からは朝餉の煙がゆらゆらと上がっていた。馬車の車輪がきしむ音と、荷馬のひづめが土を踏む音が、旅路のBGMのように耳に残る。
農民たちは道端に立ち、珍しげに行列を見つめていた。誰かが手を振れば笑顔で返す子供たち。
そんな小さなやり取りすら、ネージュには胸に沁みた。
「こうして見ると……穏やかな風景ですね」
彼女が呟くと、向かいの席のエレンが応じた。
「このあたりは比較的豊かですからね。乾燥地帯に近づくほど、景色は変わっていきます」
「エレン様は行かれたことが?」
ノアは耳ざとくその言葉に反応した。
「アレンテ村には訪れてはおりませんが……フロスティアに来るときにここを抜けてきたのです」
エレンの語った乾いた大地。立ち枯れた草。風の止まった空。
まだ見ぬ土地を思い、ネージュはまっすぐに前を見据えた。
それでも今は、心の奥に、あの夜のシュウの言葉が灯のように残っている。
「幸は幸せにならなきゃいけない」——あの言葉は、彼女の一歩一歩に小さな温もりを添えていた。
やがて遠くに、乾いた風の匂いがわずかに混じる。
旅は、これからが本番だった。




