37.忘れられたオベリスク
真昼の陽光が高窓のステンドグラスを透かし、色とりどりの光が床に揺れている。
赤、青、緑の光は石造りの床に滲むように広がり、静かな神殿の一室を染めていた。
中央の長机を囲むように、神官と魔法院の学者たち、王立調査団の面々が揃っていた。
彼らの間に重苦しい沈黙が流れる中、一人の学者が慎重に口を開く。
「……確かに、あの村には高濃度の火の魔力が観測されました。それは計測結果からも明らかです」
彼は手元の地図に印をつけていく。港町カラーリア、高地アーフェン、森のタルソス――そして中央にそびえる、王都のオベリスク。
「我々はフロスティア全土に存在するオベリスクの痕跡を調査してきました。けれど、どの地点でもこのような魔力濃度の変化は確認されなかった」
別の学者が重ねるように言う。
「“火”の精霊は、現代のフロスティアには顕現していません。聖女の系譜にも……その力は、欠けたままです」
言葉を受けて、神官長がゆっくりと口を開く。その声は低く、重みを含んでいた。
「大聖女のうち、“火”だけが常に不在だった。……最初から、ではなかったのかもしれません」
場の空気がざわめく。だが、それを押し黙らせるように、年若い学者が一冊の古文書を取り出し、慎重にページを繰った。
かすれた筆跡で記されていたのは、今はもう地図上からも消えた廃村――
「“アレンテ村”。すでに半世紀以上前に人の気配が絶え、以降は記録すら残されていません」
「……そこに、“忘れられたオベリスク”があると?」
「この文献によれば、“炎を封じた塔”として語られていたようです。『紅き石柱が空を焦がし、祈りとともに沈黙した』――そう記されています」
しん、と室内が静まった。
空気がわずかに震え、見えない何かがその場を撫でたかのような緊張が走った。
椅子を引く音が響き、大司祭エヴァンが立ち上がる。
「聖女様たちにお伝えを。……フロスティア最後の旅路が、始まると」
神殿に呼び出されたのは、ネージュ、レイラ、サヴィア、そして最年長の聖女エレン。
彼女たちの背後には、黙してついてくるルシアンとノアの姿があった。
重々しい扉が音を立てて開かれ、石造りの空間に冷たい空気が流れ込む。
聖女たちが入室すると、神官長はすでに祭壇の前で彼女たちを待っていた。
背後には古びた写本と、長い時を経た地図が並んでいる。そのすべてが祈りの歴史を纏っていた。
「……お待ちしておりました。フロスティアのために祈りを捧げる方々」
大司祭の声は静かでありながら、胸の奥を震わせるような響きを持っていた。
「まずは、結論から申し上げましょう。フロスティアにはもう一つ、“忘れられたオベリスク”が存在しておりました」
思いも寄らぬ言葉に、聖女たちの目が揃って見開かれる。
「最後の柱は、東方の地――“アレンテ村”の跡地にあると、ほぼ確定しました」
その地名が発せられた瞬間、部屋の空気が凍りつく。
かつて、突如起きた大火によって村全体が焼け落ち、二度と人が戻ることのなかった場所。
語られることも忌まれ、“炎の咎”と囁かれた地。
「オベリスクの痕跡と、“炎”にまつわる封印の記録……双方が一致しています。
あなた方に、最後の旅を――この国の祈りの結びを、託したい」
大司祭のまなざしが、まっすぐに聖女たちへと向けられる。
「これは、フロスティアの未来をつなぐ祈りの道となるでしょう」
その言葉に、ネージュは静かにうなずいた。
そのすぐ背後で、ルシアンが一歩前に出る。
「私も……随行を願います」
その声が静寂を切り裂いた瞬間、神殿参事が慌てたように口を挟んだ。
「今回は、偶然では済まされませんぞ。あの地は、皇族が歩むにはあまりに危うい」
だが、ルシアンは一歩も引かない。
「承知の上です。今回ばかりは、道が同じだからではない。……私が、それを望むからです」
一拍の間の後、彼はネージュの横顔を見つめ、ゆっくりと言葉を継いだ。
「私は、あなたを守りたい。そして――この国が進もうとする、静かな戦いの行く末を。
自分の目で、最後まで見届けたいのです」
その声は、王族としてではなく、一人の人間として、ただ真っ直ぐに響いた。
ルシアンの言葉に、ネージュは目を見開いた。
「……ルシアン様、それは――」
思わず発しかけた声には制止の色がにじんでいた。
だが口を開いたのは、ノアだった。
「ネージュ様、それは無駄です。止めようとしても無理でした」
淡々とした口調の奥に、主を誰より知る側近の静かな諦めと決意があった。
「ですから、私も共に行きます。殿下を守り、そして聖女様たちを守るために」
ノアの瞳は真っ直ぐに前を向いていた。けれどその視線は、わずかに――
ほんの一瞬だけ、レイラの横顔を捉えた。
レイラはそれに気づいたかもしれない。けれど何も言わなかった。
ただそのまま、少しだけ視線を伏せる。
押し殺された感情が、その場の空気に淡く滲んだ。
空気の張り詰めた神殿の一室。
互いの覚悟が静かに交錯するその場に、一歩前へと出たのはエレンだった。
その声音には、最年長の聖女としての威厳と、かつて王族であった者の重みがあった。
「楽な旅路ではありません。乾いた地を越え、忘れられた地を目指すなど、無謀とも言えるでしょう」
その言葉に誰かが息を飲む。けれど彼女は続けた。
迷いのない眼差しが、ノアを捉える。
「けれど――それでも、その旅の先に国のありようを学ぶことができるのならば、それはこの国の未来にとって、確かな価値となる」
そして少しだけ声の調子を変え、凛とした声音で告げる。
「だからこそ。それを知った者を、失うわけにはいきません。ノア様。どうか、ルシアン様をお守りください」
静かに、しかし確かに響いたその言葉に、誰もが言葉を飲んだ。
もはや誰も異を唱えられなかった。
かつて王族であった者がそう告げたことで、その場は自然と収まりを見せた。
ネージュはそっと息を吐き、エレンを見た。
その背中に、自らの過去と立場に向き合い続けてきた者の覚悟を見た気がした。




