33.襲撃
サヴィアの低く落とした声は、穏やかな空気を裂いた。
空気がひやりと冷え、囲炉裏の炎が小さく揺れる。
風もないのに、背筋を撫でるような冷たい気配が走った。
「皆、警戒を!」
ノアが即座に立ち上がり剣を抜く音が響き、護衛騎士たちも身を翻し、外へと駆け出していく。
その時――窓の外に、闇を割くように無数の光が現れた。
金色にぎらりと光る眼――
「魔獣……!」
森から姿を現したのは、飢えに駆られた狼たちだった。毛並みは逆立ち、目は血走り、理性の欠片すら感じさせない。唸り声を上げながら、群れが村へと雪崩れ込んでくる。
「皆様も、こちらに!」
村長が悲鳴のように叫びながら奥の戸を開き、村人を誘導しつつ聖女たちに声をあげた。
村長の手が示したその先には、土で固められた頑丈な地下室が広がっている。
「この家の地下なら、全員入れます! どうか、皆様も……!」
村人たちは次々に逃げ込み、戸口には混乱と恐怖が渦巻く。
だが――ネージュは首を横に振った。
「私たちは……戦います」
レイラも無言で立ち上がり、拳を握った。
サヴィアとエレンもまた、それぞれの杖を静かに構える。
その光景を見ていたルシアンが、息を吐きながら微笑む。
「……まったく。無茶をする」
けれど、その声に呆れた色はなかった。すっと腰の剣を引き抜き、背筋を伸ばす。
「だが、共に戦おう」
夜空の下、戦いの幕が上がる。
レイラはガイと共に、村人たちが避難した地下の入口に立ちはだかる。
「ここは、絶対に通させません」
そう呟くと、ガイの力で地中から岩がせり上がり、レイラごと扉を厚く覆った。
ネージュとシュウは、狼の足元の大地に魔力を注ぎ込む。
「ここから先には行かせない」
地面が崩れ、次々と落とし穴が口を開く。狼たちが足を取られ吠えながら転がった。
サヴィアとノトスが、夜空に風を巻き起こす。旋風は群れの足元に渦を描き、獣たちの動きを鈍らせていく。
そこへ――エレンとマーレが、風に乗せて水を解き放つ。
「マーレ、頼むわ」
その声に応えるように空気が水を纏い、鋭い水の鞭が宙を奔った。
風と水の連携が、狼たちを翻弄する。
その隙間を縫って、ノアとルシアンが走る。剣が月光を受けて閃き、魔獣の間を鋭く駆け抜けた。
守るために。この村を、笑い合えたこの場所を――
誰一人として、失わせないために。
ネージュは、風に舞う水と髪を押さえながら、仲間たちの背を見つめる。
その胸には、確かな祈りがあった。
夜の村に、剣戟と風の唸りが重なり、戦いの音が響き渡った。
やがて、その音がふっと消える。
魔獣たちの唸り声が、徐々に遠ざかり――最後の一体が倒れ伏したとき、夜の村を包んでいた緊張の糸が静かにほどけていった。
沈黙が、雪のように降りてくる。
激しさの余韻だけを残して、深く静かな夜が戻ってきた。
ネージュたちは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
吐く息が白く揺れ、夜風の中で肩を上下させながら誰もが確かめるように呼吸を繰り返す。
衣の裾は泥と水に濡れ、しかし、頬を伝うのは血ではなく戦い抜いたあとの汗だった。
「皆、無事ですか?」
エレンの言葉にそれぞれが軽く頷き返す。
サヴィアは小さく肩を上下させながらも、杖をしっかり握っていた。
ネージュも深く呼吸しながら、戦いの緊張を解くようにそっと目を閉じる。
「……終わった、みたいだな」
ノアが剣を納めながら、ほっと息をつく。
その隣で、ルシアンが静かにうなずいた。
そのひととき――
疲労のなかにも、どこか穏やかな微笑みが交わされる。
そのすぐ後に、護衛騎士のひとりが駆け寄ってきた。
「ルシアン殿下、御身は――!」
「大丈夫だよ、心配ない」
ルシアンは軽く手を上げ、少しだけ額の汗を拭った。
剣を納めたその姿は、皇太子である威厳よりも、仲間としての気遣いに満ちていた。
「村人たちが、不安がっているはずだ。知らせに行かないと」
その言葉に、ネージュも頷いた。
「レイラが地下を守ってくれていたわ。扉のところまで行きましょう」
一行はゆっくりと、戦いの場から戻っていく。
魔力の消費と疲労が身体に重くのしかかるが、足取りは確かだった。
地下室を覆っていた岩の前にたどり着くと、ルシアンが扉に向かって声をかけた。
「もう大丈夫だ。安心してくれ」
しばらくの静寂のあと、岩の壁が内側から崩れる音が響くと岩が砕け、土埃が舞う――その向こうに、レイラの姿が現れた。
彼女はほっとしたように目を細め、頬をゆるめる。
「……良かった。皆様ご無事で」
ルシアンはうなずきながら、肩越しに振り返る。
「みんなに、『もう大丈夫だ』と伝えなくてはな」
その言葉にレイラもまた微笑を返し、最後の岩壁に触れた。
岩壁が完全に崩れると、わずかに湿った空気が吹く。その奥――地下室の中は、明かりも乏しく、ひんやりとしていた。
ネージュたちは一歩ずつ、慎重に階段を下りていった。
戦いの余韻をまとったまま、けれどその足取りはやさしく、静かだった。
ろうそくの炎が揺れる薄暗い空間に、肩を寄せ合うようにして村人たちが座り込んでいる。
誰もが不安げに顔を上げ、扉の向こうを見つめていた。
そして、ネージュたちの姿が現れた瞬間――
「あ……!」
「聖女様が……!」
小さな子どもが立ち上がり、走り寄ろうとするのを、母親がそっと抱きとめる。
けれどその目にも、安堵の涙がにじんでいた。
「もう、大丈夫です」
ネージュは微笑み、はっきりとそう伝えた。
その声は、地下室全体に静かに、けれど確かに広がった。
「村の外にはもう魔獣はおりません。夜明けまで、安心して休んでください」
エレンが言うと、村人たちの緊張がふっと解けたように、あちこちから小さな吐息が漏れた。
「よく……ご無事で……!」
震える声で言ったのは、村長だった。白髪まじりの髪を乱し、目には涙が浮かんでいる。
「こんな田舎の、こんな小さな村を、命を懸けて……本当に、ありがとう……」
エレンがそっと肩に手を置き、深く頭を下げた。
「守るべき命に、大きいも小さいもありません」
その言葉に、村人たちは誰もが胸を打たれたように、静かに目を伏せた。
ノアはそれを見て、小さく頷くと、控えめにルシアンの横へ歩み寄る。
「殿下……やはり、こういう場に立っておられる姿こそがふさわしい」
「余計なことを言うな、ノア」
ルシアンは目を細めながらも、どこか誇らしげな表情を浮かべていた。
そんな一幕を眺めながら、ネージュはそっと手を胸に当てた。緊張で早鐘を打っていた鼓動は、もう静かに落ち着いている。
この手で、誰かを守れた。
この声で、不安を払えた。
それが、たまらなく嬉しかった。
静かに灯る明かりの下で、村人たちの表情に安堵の色が戻っていく。
それは、何よりの報酬だった。




