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31.祈りの朝

タルソスの朝は、まだ冷たかった。

しかし空は高く澄み、雲の切れ間から黄金色の光が差し始めている。


門から見えたのは、みすぼらしい姿の人々――

貧しい区画の人々が、透かし彫りの塀の向こうに静かに列をなしていた。

老いた者も、幼い子どもも、手を合わせ、頭を垂れている。


旅立つネージュたちに、祈りを捧げていた。


ネージュは、馬車の窓越しに彼らの姿を見つめた。胸に広がるやわらかくも切ない痛み。

彼らの祈りは、確かに彼女たちへと向けられていた。


小さく、手を胸に当てる。そして、深く静かに祈りを返した。

それに気づいた他の聖女たちも、同じように頭を垂れる。


こうして、ネージュたちを乗せた馬車はゆっくりと門を抜けた。

朝日に染まる街道へと、蹄の音を刻みながら進み出す。

王都へ――。


馬車は二台に分かれていた。


ネージュ、エレン、そしてルシアンが乗る一台。

ノア、レイラ、サヴィアが乗るもう一台。


柔らかな揺れに身を任せながら、しばらくの間、静寂が続いた。

車窓から流れる景色を見つめるネージュの横で、ルシアンが口を開いた。


「……グラーケンとの交渉について、経過を伝えよう」


ネージュとエレンが自然と視線を向ける。

ルシアンは、ほんのわずか表情を引き締め、言葉を続けた。


「ネージュの提案した"レース技術"を取引材料に、魔力風車を止める交渉を進めた。

結果、完全に止めさせるには至らなかったが――」


一拍置き、彼は視線を窓の外に向けた。

朝の光が、彼の横顔を柔らかく照らしている。


「アヴァリアに面する領地の魔力風車を、停止するという確約を得た」

「……!」


ネージュとエレンは思わず小さく息を呑んだ。それは、大きな一歩だった。

グラーケンの土地を蝕む魔力風車――

その一部とはいえ、止めさせることに成功したのだ。


「もちろん、これですべてが解決するわけではない」


ルシアンは穏やかに続けた。


「だが、変革の端緒にはなる。魔力に頼らない産業を興す必要性を、彼ら自身が意識する契機にも」

「あの国はまだ、職人たちの手を信じていてくれたのね……」


エレンは僅かに声を詰まらせながらつぶやいた。

彼女にとって、グラーケンはたとえ逃げ出しても母国なのだ。


「ありがとう、ルシアン殿下……」


ネージュはただ、感謝を告げるしかできなかった。

その声は、どこまでも真摯だった。

ルシアンは、目を細めて彼女を見つめ返す。

その瞳の奥の暗さを覗き込むように。


ネージュは、小さく指先を組み合わせた。けれど、胸の奥の重さは拭えない。

確かに、グラーケンとの交渉は一歩進んだ。

けれど――フロスティアの危機は、まだ、何も終わってはいない。


表情には出していないつもりだった。

けれど、隣に座るルシアンには――すべて伝わっていた。


「……焦る気持ちは、判る」


低く、落ち着いた声にネージュは俯いたまま口を開いた。


「でも……」

「確かに前に進んでいるんだ。ゆっくりと、でも確実に。だから……焦らなくていい」


その言葉は、押しつけでも慰めでもなかった。

ただ、真実をまっすぐに見据えた者の、静かな確信だった。


「君たちがここまでしてくれたことは、決して無駄にはならない。俺が――必ず繋ぐから」


ネージュは、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。

重ねてきた努力も、震える心も、全部、彼は見てくれていたのだと。

それだけで、涙が出そうで、ぎゅっと下を向く。


そんなネージュをルシアンは穏やかに見ていた。

そして、ごく自然な声音で、そっと言葉を落とす。


「離れている間……ずっと心配していたよ」


それは、ただ事務的な報告の合間に交わされるには、あまりにあたたかな響きだった。

ネージュは、はっとして顔を上げる。


視線がぶつかる。

ルシアンの目は、あの時と同じ――いや、それ以上に、やわらかだった。


ネージュは慌てて視線を落とし、ぎこちなく微笑んだ。

けれど胸の奥がじんわりと熱くなっていくのを、止められなかった。


「……無事で、よかったです」


小さく返すのがやっとだった。


向かいに座るエレンは、そんな二人をそっと横目に見たが、

何も言わず、気づかないふりで窓の外に目を向けた。

流れていく草原、遠ざかるタルソスの町並み。


ルシアンとネージュの間に言葉は交わされていない。

けれど、胸の奥には確かなものが満ちていく。


ネージュは、ふと膝の上で指を絡めた。

落ち着かない心を隠すように。


そのとき――

そっと、隣に置かれたルシアンの手が、わずかに動いた。触れるか、触れないか。それだけの距離。

ネージュは、心臓の音が跳ねるのを感じた。

けれど、逃げることはしなかった。


誰もが言った。

ネージュは哀れなほどに醜いと。

うねる赤い髪も、濃い灰色の大きな瞳も

その全てが醜いと。


けれど今、この瞬間。

ネージュは、そんな言葉を思い出すことさえなかった。

ただ、ルシアンと共にあるこの時間が、世界のすべてよりも愛おしかった。


そっと、ネージュは目を閉じる。

膝の上に置いた指先が、震えるように小さく動き、ほんの少しだけ――隣に寄り添った。

ルシアンは何も言わない。けれど、彼の手もまたそっと寄り添うように近づいてきた。


微かに触れただけの指先。

けれどぬくもりは確かにそこにあった。


その外、王都へ向かう街道の先に、白く輝く光が伸びていた。

未来はまだ見えない。

それでも――きっと、この道は、間違っていないと。

ネージュは、そんな確信を胸に抱きながら、ようやく少しだけ微笑を浮かべたのだ。

誤字報告ありがとうございました

確認不足の誤字のせいで興をそいでたら申し訳ありません。

今後一層気を付けますが、お気づきの点あればご報告いただけるとありがたいです

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