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30.優しい囁き

ホールには凛とした声が響き渡る。

金の髪をなびかせ、ルシアン皇太子が堂々と立っていた。

その姿は、暗い陰りに満ちた式典の空気を切り裂くように鮮やかだった。


「これより我らが正義を――国に示そう。それは我がアヴァリアとフロスティアが良き隣人であり続けるために」


静かだが、確かに胸を打つ声だった。


アヴァリア皇国の使節団たちが、それに呼応するように胸に手を当て、一礼する。

フロスティアの者たちもまた、互いに目を見交わしゆっくりと頭を垂れた。


こうして、誰もが目を逸らせない形で腐敗は告発され、

正義が声高に掲げられたのだった。



式典は静かに、だが確かに終息へと向かっていった。


貴族たちは互いに顔を見合わせ、今後の自分たちの立場を計算する者、安堵する者、困惑する者――さまざまだった。

けれど少なくとも、フロスティアの中心に巣食っていた闇の一角は、確かに崩れたのだ。



白無地の儀式服に身を包んだ聖女たちは、ホールの隅で小さく輪を作った。

ネージュが、そっとレイラの手を握る。


「……お疲れ様、レイラ」


その温かな言葉に、レイラは張り詰めていたものをほどくように微笑んだ。笑みはまだほんの少し震えていたけれど、確かに強い光を宿していた。


「……ありがとう、ネージュ。みんなも」


ノアが、照れくさそうに髪をかき上げながら、そっぽを向く。


「当然だ。レイラを支えると、最初から決めてたんだから」


エレンは静かな口調で付け加える。


「これで、まだすべてが終わったわけではないわ。けれど、あなたが最初の一歩を踏み出した。それだけで、世界は変わり始めたのよ」


サヴィアは静かにうなずく。

その手には、誰に言われるでもなく、祝福の小さな風が寄り添っていた。


「……レイラ。声、ちゃんと届いた」


そんな中、ネージュはふと気配を感じて振り向いた。


――ルシアンだった。


先ほど見せた毅然とした姿とはまた違い、少しだけ肩の力を抜いた彼が静かに近づいてくる。

ネージュは一瞬、胸がぎゅっと締めつけられるような感覚を覚えた。

無事に戻ってきてくれてよかった。

けれどそんな思いを悟られないように、笑顔を作る。


「ルシアン殿下、お疲れ様です」

「ネージュ」


ルシアンは静かに彼女を見つめた。

その目に宿る光は、ネージュの想像以上にあたたかい。


「君たちのおかげだ。特に――君の天啓であったあのレースがなければ、ここまで上手く運ばなかった」


言葉を選ぶように、一つひとつ、丁寧に。まるで慈しむかのように。


「ありがとう」


不意に、ルシアンが一歩、距離を詰めた。

その動きに、ネージュはわずかに肩を震わせる。


そして――


彼は、そっと、ネージュの耳元で囁いた。


「……ネックレス。つけていてくれて、嬉しいよ」


低く、優しい声。

それだけで、ネージュの頬はみるみるうちに朱に染まった。


「あ……」


言葉にならず、唇だけが小さく動く。

けれど、ネージュはまっすぐにルシアンを見て、こくんと小さく、頷いた。


ルシアンはそれだけで満足したように、柔らかく目を細める。

そして、ネージュの頭をそっと撫でた。ほんの一瞬、誰にも気づかれないように。


その瞬間、胸の奥に柔らかな光が灯った気がした。

タルソスの空の下、ネージュの心は、じんわりとあたたかかった。



やがて式典の終了が告げられ、ホールの扉が大きく開かれた。冷たい外気が流れ込み、場内の熱気を冷ます。

人々が徐々に外へと流れていく中、ネージュとルシアンも、そっとその流れに乗って、隣り合って歩く。


華やかなホールを抜けた先――

白い石畳の広場は、先ほどまでの喧騒が嘘のように静かだった。


空には重たい雲がまだ残っていたが、雨はもうほとんど止んでいる。

湿った空気の中、冷たく澄んだ風が、ふたりの間を通り過ぎた。


「……ネージュ」


隣からルシアンの低い声がして、ネージュはゆっくりと顔を向けた。

ルシアンは穏やかな眼差しで、彼女を見ていた。


「本当に……よく頑張ったな」


その言葉に、胸がじんと温かくなる。

けれどネージュは、ただ小さく笑って首を振った。


「私ひとりでは……何もできませんでした。レイラが声を上げたから。ノア様も、エレンさんも、サヴィアも……」

「それでも」


ルシアンは、そっと遮るように言った。

その瞳には、まっすぐな光が宿っている。


「君が、最初の一歩を示したんだ。それがなければ、誰も歩き出すことはできなかった」


ネージュは戸惑い、けれど逃げずにそのまま見つめ返した。


ルシアンはふと、視線を落とす。

ネージュの胸元――、衣の下にのぞく、あの小さなネックレスへ。


「やはり、よく似合っている」


思わず、ネージュは手を伸ばし、ネックレスをそっと握った。

温かなぬくもりが、手のひらに伝わってくる。


「ありがとうございます」


言葉は震えたけれど、確かに、届くように。


ルシアンは微笑んだ。

それだけのささやかな、でも確かな触れ合い。

広場を渡る風が、ふたりの間を優しく通り抜けていった。


世界はまだ不安定で、冷たい。

けれど、今だけは。

ふたりだけの、小さな温もりがそこにあった。

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