3.記憶の先に
「幸、目を覚ました?」
柔らかな声が部屋に響く。髪を撫でる手。
シュウは現実にはいないはずなのに、どうしてここにいるのだろうか。
ネージュが目覚めて最初に思ったのはこれが夢か、自分の頭がおかしくなったのかのどちらかに違いないという事だった。
「頭は正常だよ、詳しくは後で説明するけど」
シュウが足元に目をやればそこには、縛り上げられたアーサーの姿があった。
彼は血走ったような目でネージュをにらみつけながら吠えた。
「ネージュ、貴様聖女になったのか…!」
「違うわ!」
ネージュは震えながらアーサーの言葉を否定したが、シュウは楽しげに語りながら言った。
「いや、幸…ネージュは正真正銘の大聖女になった。アーサー、君のおかげだ。
"魂に精霊を住まわせる乙女が虐げられるとき、乙女を守るため精霊は顕現し、聖女となる"。
知っているだろう?」
シュウは楽しげに、まるで歌うように言葉を紡いだ。
聖女という存在は、この国において特別な力を持ち、精霊に愛される存在として崇められている。
そして、聖女はその人生で苦しみぬいたがゆえに精霊に守られた者だとも伝えられている。
アーサーの暴力と無慈悲な言動が、彼女を聖女にしたのだろうか。
その考えに至ったネージュは、冷たい水をかけられたように小さく震えた。
聖女は尊い。
そして、聖女を輩出した家は……聖女を虐げた家として罰を受けるのだ。
その考えに言ったネージュは気持ちを切り替えるように小さく頭を振ってからシュウに問いかける。
「シュウ、あの、さっきまでいた女性は?」
「幸は相変わらず話が飛ぶね……。お帰りいただいたよ、流石に女性に暴力を振るう趣味はないからね」
シュウは微笑みながら答える。その冷静さが、私をさらに不安にさせた。
「窓から放り出したやつの言うことか!」
「ここは1階だ、怪我はしないよ。」
彼はアーサーの怒号に動じることなく、静かに言った。
シュウがソファに腰を下ろすとその座面は確かに沈み込む。彼には存在があると示す様に。
ネージュはその様子を黙って見ていた。
イマジナリーフレンド、空想の中の友達。幸が心を許せたたった一人の相手。
けれど、それが幻想であることは誰よりも彼女自身が理解していた、なのにここにシュウは確かに存在している。
そして今ただ一つ確かなことは、シュウだけは味方だという信頼だけだった。
シュウはアーサーに向かって微笑む。
「婚約からたった三年で婚約者を聖女にするほど追い詰める男、かぁ。ネージュが神殿に上がったら、その後の縁談は見込みなさそうだね。」
「神殿に上がるなんて許さない!婚約は継続に決まっているだろう!」
アーサーが必死に叫ぶ。
シュウは冷徹に返した。
「アーサー、君は現実が見えているのかい?」
その言葉に、アーサーは床に唾を吐く。
「わかっちゃいないのはそっちだ。魔導の名門ブランデール家の恥を晒したら、公爵様はさぞやお困りだろう。俺のせい?ふざけるな。この家の使用人たちもみんなネージュで憂さ晴らししていたじゃないか。つまりは、この家自体がネージュを見捨ててた。俺は最後のきっかけなだけだ。」
アーサーは床に転がされたままでもふてぶてしい口調で、彼女を見下すようにして続ける。
「ネージュ。君の大好きなお父様が魔道騎士団長の座を追われていいのかい?君は神殿で大切にされるけど、お父様は石牢だ。平気なのかな、恩知らずそうな顔してるもんな。」
アーサーはネージュの最も深い傷を狙っていた。
「精霊が俺に手出ししたら、俺はその分ネージュを殴る。ああ、手だけじゃない。悪評をばらまいてどこ出られないようにもする。精霊が俺を殺せば、ネージュは晴れて殺人者だ!さあ、どうする。ネージュならどう答えたらいいか、わかるよな」
強制ではない、自身が選んだと言わせるために追い詰める。アーサーはいつもそうだった。
ネージュは震えながら口を開こうとしたが、その瞬間、アーサーが急に体を大きく反らせて動かなくなった。
「死んだ……の?」
ネージュは震えながらシュウを見やるが、彼は首を横に振った。
「いや、しばらく黙ってもらっただけだ。ネージュ、少し待てるかい?この部屋には使用人は入れないようにしたし、アーサーは僕が戻るまでは目を覚まさないから。ここから絶対に出ないで。」
シュウの真剣な表情を見て、彼女はただ頷いた。
「絶対に悪いようにしないから。まってて。」
彼の姿が一瞬で消えると、ネージュはその言葉が本当であることを願いながら、静かな部屋で待つことにした。
シュウが戻るまで、アーサーの言葉を考える。
アーサーはいつもそうだった。何もかもが彼の手のひらの上で回るように彼女を押さえつけ、それでも彼女は一度も彼に逆らったことはなかった。
しかし今。
シュウという存在がネージュの心の中から現実に現れたことで、何かが変わろうとしている。
もう、アーサーに屈するわけにはいかない。
ネージュは初めてそう思ったのだ。