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27.大地の記憶

小雨が上がりきらぬ空の下、ネージュは屋敷跡の近くで、重そうな荷物を運んでいる老婦人に気づいた。

腰をかばうように歩くその足取りはおぼつかず、今にもよろけそうになる。

ネージュは反射的にその腕を支えた。


「お手伝いします。濡れてしまいそうですし」

「あらまぁ……なんて気立てのいい娘さんだこと。ありがとよ、腰がもう言うこときかなくてねぇ」


ネージュは籠を軽々と抱え直し、老婦人と並んで歩き出す。荷を扱う手際のよさに、老婦人は目を細めてつぶやいた。


「見た目は華奢なのに、力があるんだねぇ。あたしだって、昔はこのぐらいの籠、軽々運んでたんだよ。あの屋敷――そう、あの」


老婦人はゆっくりと手を上げる。指さした先には、崩れかけた石造りの門があった。長年の風雨に晒され、苔むした屋敷跡。その奥には、今はもう誰も住んでいない静寂が広がっていた。


「あの屋敷中のシーツを、ひとりで干してたんだから」

「……すごいですね」


ネージュは頷きながら、足元のぬかるみに気を配って歩を進める。雨の匂いを含んだ空気が、二人の間をそっと通り過ぎた。


「洗濯婦だったのさ、ほんの短い間だったけどね。貴族さまの仕事場は、言っちゃ悪いが物静かすぎて不気味だったよ」


老婦人の声には、どこか遠い記憶をたぐるような響きがあった。


「夜になると、裏口に荷車が来てね……何度も運ばれてくる箱が、重くってね。中身が布じゃないのは、持てば分かる」

「なんだか怖いですね……」


ネージュの小さな声に老婦人は肩をすくめて、灰色の空を仰ぐ。


「そうさ。外国の客なんかもしょっちゅう来て、そんな時はあたしらみたいな下働きは離れに押し込められちまうのさ」

「ひどい」


思わずこぼれたネージュの言葉に、老婦人はくしゃっと顔をしわくちゃにして笑った。


「まぁ、その時はあたしらにとっちゃ一休みってわけさ。その客が帰ったら、神経質くらいに部屋の掃除をさせられて敵わなかったけどね。なにしろ、床にも荷物を引きずった跡が奥の方までついていたりするんだから」


その苦笑いの奥に張り詰めた何かがあることを、ネージュは感じ取っていた。


「そんなだったから、一年もたたずに辞めちまったけど……あのお嬢様が気になってたんだ。本当にきれいな人だったけど、いつも怯えててね。声をかけても目を合わせないし。こういっちゃあなんだけど、聖女様になられたって聞いて、よかったと思ったくらいさ……あんたもだろう?」

「……気づいていらしたんですか?」


驚きをにじませたネージュの問いに、老婦人は口元を押さえて笑った。


「さぁ、あたしは何にもわかっちゃいないさ。目が利かない年寄りなんでね」


そう言いつつも、その目は優しく、昔と今とを静かにつないでいた。


「さ、もうここまでで十分さ」


そう言ってネージュから籠を受け取ると、老婦人は少女のようにいたずらっぽい笑みを浮かべ、背を向けて去っていった。


老婦人の姿が見えなくなった頃、屋敷跡に再び静寂が戻る。

ネージュはふと顔を上げた。その瞳に映ったのは、かつてこの地に刻まれた何かの名残。そしてその高さは、ちょうど――シュウの目線。


すると、すぐ傍らの気配がふっと揺らいだ。

木々の葉がわずかにざわめき、低く穏やかな声が降りてくる。


「やはり、人に好かれるな。それは誇っていい」


シュウだった。

彼は気配だけで空気を変えるようにして現れ、いつものようにネージュの頭をそっと撫でる。その掌は、変わらず温かく、優しかった。


ネージュが照れたように俯くと、シュウは視線を崩れかけた建物へと移す。

かつての威厳をすっかり失った石造りの邸宅。今はただ蔦に覆われ、瓦礫の山と化したその姿が残るのみだった。


「奥の方、そう言ってたな」


そう呟くと、シュウはためらいなく歩を進める。足元の濡れた草がしなり、まるで彼に道を譲るかのように揺れた。ネージュもその後に続けば雨水を含んだ雑草が、ぱしゃりと音を立て、彼女のスカートの裾を濡らす。


屋敷の奥――そこには、かろうじて壁だけが残った一角があった。


シュウはその場で立ち止まり、ゆっくりと地面に手をつく。湿った土をなでるように触れたその表情が、ふいに曇った。


「……随分と、魔力の高い物を置いていたな。持ち去られてから間があったろうに、土の魔力がまだ歪んでいる」


その言葉に、ネージュの胸がざわめいた。


「……蒼晶石の気配だ」


その名を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走る。

フロスティアで厳しく禁じられた結晶。蒼く、妖しく輝くそれは、ただの資源ではない。強大な魔力を秘めた危険な代物――扱いを誤れば、大地さえ腐らせると言われている。


「とはいえ、ここにはもうない。だが――」


シュウは再び地に指を走らせる。すると、泥がゆっくりと沈み、半ば朽ちかけた木箱が顔を覗かせた。

箱には泥がこびりつき、長い年月が経っていることを静かに物語っている。


シュウが蓋を開けると、中には香料の瓶と、湿り気を帯びた帳簿の切れ端らしき紙片があった。綴じもされず、まるで誰かが記憶から切り離そうとしたかのように、無造作に押し込まれている。


「……誰かが、忘れようとした。でも、土が忘れなかったのね」


ネージュがそっと呟きながら、紙片に手を伸ばす。

それは、彼女自身の記憶――消したくても消せなかった過去と、どこか重なるものだった。

シュウは静かに頷き、崩れかけた屋敷の影を見上げた。


「この地は記憶している。人がどれほど目を背けても……土は、真実を埋めることはない」


風がまたひとしきり吹き抜けた。

雨に洗われた空気が、どこか澄んでいて――過去を浄め、未来へとつなげようとするかのようだった。

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