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26.仮面の奥

湿った石畳を馬車の車輪が滑るように進み、細い路地を抜けた先に紅海香料の店舗が現れた。

街の喧騒から少し離れた一角に建つその建物は外装こそ控えめなものの、重厚な扉と赤銅の飾り金具で、ただの香料商ではない気配を漂わせていた。


扉を押し開けた瞬間、ふわりと甘く濃厚な香りが鼻腔をくすぐる。

薔薇、沈香、麝香、そして異国の果実のような、名の知らぬ芳香――

そこはもう、街の一角ではなく、秘された“別世界”の空気を持っていた。


天井からは多面カットのガラス灯がいくつも吊るされ、棚の香油瓶や布巻きの染料を淡く照らしていた。

艶やかな黒檀の棚には、深紅、瑠璃、琥珀色の小瓶が整然と並び、それらは香りというより、魔術の道具にも似た風格を放っていた。


レイラはゆっくりと歩を進めた。

深い葡萄色のドレスに、絹糸のような金の髪。

顔の下半分を覆うのは、アヴァリアの王宮で編まれた試作品のレース――まだこの地では見たこともない、繊細で異国の雰囲気を纏った布地だ。

赤と黒の妖艶なレースの網目から覗く肌はその白さをひときわ引き立て、赤く彩られた唇と、アイスブルーの瞳が絶妙な対比となり、普段の彼女とはまるで異なる神秘的な魅力を醸している。

レースでも隠しきれない美貌は、手練れの商人さえも束の間言葉を失うものだった。


商人たちは一目で、その異質な気配を察していた。そのレースが“まだ世に出ていないもの”であること。

それを自然に使いこなすこの女が、間違いなく“外”の者で――そして“金を持っている”者であることを。


「……どれも悪くはないけれど、似たようなものばかりね」


レイラは香油瓶のひとつを細い手袋越しに軽く弾いた。

その仕草は無邪気でいて冷淡、退屈を隠そうともしない高慢さを滲ませている。


「もっと誰も持っていないものがいいわ」


店主がわずかに顔色を変えたその瞬間、レイラはふと、視線を棚の奥へと滑らせた。


「ねぇ、あれも持って帰れるのかしら?」


彼女が指さしたのは、売り物のようには見えない棚の上――異国の金属細工に草花を象った装飾が施された香炉だった。

誰が見ても“飾り”とわかるそれを、彼女はまるで何の躊躇もなく指し示したのだ。


後ろに控えていたノアが、何も言わず一歩前に出る。

そして、厚手の外套の内側から取り出したのは、革張りの大ぶりな財布。

留め具を外せば、中には金貨の縁がぎっしりと詰まっているのが見えた。


「お嬢様のお気に召すものがあれば、お望みのままに」


落ち着いた口調に裏付けられた確かな自信と、金銭の力。

その一言で、商人たちの目が露骨に変わった。


「それは……飾り物でございますが。……しかし、貴女のようなお方にこそ、ご覧いただきたい品がございます」


店主が一礼し、奥へと引っ込んだ。

しばらくして戻ってきた彼の手には、黒い布で覆われた小箱がある。


布を外すと、中から現れたのは青みを帯びた水晶にも似た、透き通った結晶を削り出した宝飾品だった。

金と魔力封じの銀線が繊細に巻かれ、魔力の気配を漂わせる――それは王国で輸出を禁じられている“蒼晶石”の細工だった。


「こちら……王国北部では輸出を禁じられている“蒼晶石”を用いたものでして。極めて限られたルートのみで取引されております」

「あら……なかなか珍しいわね」


レイラの声には、興味と侮りの入り混じった響きがあった。

まるで“高くて珍しいものなら買ってやる”という、貴族特有の思考であると示すように。


「ええ、お嬢様の瞳にきっとよく映えますよ」


美しくカットされた石が、赤みを帯びたランプの灯を反射して怪しげにきらめいた。



その頃――


外の高所に潜むサヴィアは、風の流れを使って会話の断片を拾っていた。

その耳に届いた情報を、彼女は淡々と記憶し、風を通してエレンのもとへと送る。


エレンは手元の水晶に指をすべらせ、流れてきた言葉を魔力で封じる。

商会の違法取引。禁制品の流通経路。そして、それを自然と引き出したレイラの見事な“演技”。


(これで、ひとつ確かな証が取れたわ)


――扉をくぐって出てきたレイラとノア。

外の空気に触れた瞬間、風が二人の頬を優しく撫でる。


それはまるで、サヴィアからの「聞いたわ」とのささやきのようだった。


雨脚はまだ緩やかだった。

けれど、この街に潜む闇を暴くために、聖女たちは静かに歩みを進めていた。

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