25.穢れた街
翌朝のタルソスは、重たく沈んだ雲に覆われていた。
夜のうちに降った雨は石畳に艶を与え、まだところどころに水たまりが残っている。街の空気はひんやりと湿り気を帯び、時折吹き抜ける風が、薄手の衣の裾をそっと揺らした。
そんな中、ネージュたちは神殿にそびえるオベリスクの前に静かに立っていた。
鋭く天を指すその石は、どれほどの時を超えてこの地に在るのだろうか。塔の足元に刻まれた古い文字を読める者は今やほとんどおらず、けれどこの地の人々は、変わらずそれに祈りを捧げていた。
祈ることですべてが変わるわけではない。それでも聖女たちは、祈るのだ。
ネージュは両手を胸元で組み、そっと目を閉じる。雨に濡れた街のざらついた空気が肌の奥にまで沁みてくるようだった。
初日に目にした、あの不自然なほどくっきりと並列された富と貧の風景――
それは今も、胸の奥で棘のように疼いていた。
祈りを終えた帰り道、石畳を踏む足音のなかで、ふいにレイラが低くつぶやいた。
「……やはり、この街はおかしいと思うのです」
その声は並んで歩くネージュにだけ聞かせるように囁かれた。
ずっと胸の底に溜めていたものをようやく言葉にしたかのような、そんな声音だった。
彼女の視線は街の方へと向けられていた。
「私がここにいた頃にも不正はありました。けれど、それは影の中に隠されていました。少なくとも、表向きには……でも、今は……」
濡れた屋根には、この厚い雲の下ですらきらびやかに光る素材が使われている。
一方で、下層区画には手製の薬草を売る子どもたち。その傍らに、高価な輸入酒の空き瓶が転がっていた。
その全てが街の輪郭を歪めていた。
宿に戻ると、ノアは机に地図を広げ、レイラはそれを指でなぞりながら言った。
「父が貴族の地位を失ってなお、タルソスに固執していた理由。それは――“ここでしか得られない物”があるからです」
彼女の言葉に、ノアが静かに頷く。
黒い旅鞄から取り出したのは、昨日の街歩きで調べたらしき手書きのメモだった。
「資金の流れは見えない。でも、街の動きを見れば、“帳簿に載らない金”が動いているのがわかります」
ノアの指先が、神殿から北へと延びる一本の通りをなぞった。
「ここ。住宅街を抜けるこの通り、物流の中心が本来は休む時間――深夜にだけ動いてる。そして、いくつかの物資が途中で消えてる。魔力触媒、希少鉱石に、武器。全部、王令で制限された品ばかりです」
エレンがそのメモを見てから顔を上げる。
「この立地の領地ならおそらく、闇取引の相手は隣国の可能性がある。そう言う事ですよね?」
「ええ、しかもそれを取り締まるはずの人間が関わっている可能性もある」
ノアは短くうなずいた。
「そんなことが、こんなに堂々と?」
ネージュが目を見開いた。
「“見せる貧しさ”と“囲う富”。あれは舞台装置です。手を出せばどうなるか――あの路地で、私たちも見せつけられましたよね」
ノアの声は静かだったが、その奥底には確かな怒りが込められていた。
「私は……ここで、私自身の痛みも、この街の痛みも、終わらせたい」
レイラの声は、雨に濡れた窓の外を見つめながら静かに続いた。
「父がどれほどのものを隠していようと、私はもう目を背けない。今の私は、ただの娘ではありません。――聖女としてこの街に立つのなら、向き合うべき責任がある」
その決意のこもった言葉に、ネージュは静かに頷いた。
その肩には、少女としての痛みと、聖女としての強さが同時に寄り添っていた。
「調べましょう。証拠はそう簡単には見つかりませんが……必ず、何かが残っているはずです」
ノアの言葉に、サヴィアが口を開いた。
「……わたしも、やる」
ぽつぽつとした口調の中にも、確かな意志が感じられる。
エレンも静かに頷き、その横顔にかつての誇り高き王族の気配が宿る。
「聖女様たちは、明日も祈りを続けるでしょう。下調べは、私の得意分野ですからね。任せてください」
そう言ってノアは黒い外套を羽織り、腰の剣にそっと手を添える。
表情には笑みが浮かんでいたが、その瞳の奥には、揺るぎない覚悟がにじんでいた。
そして、翌日。
聖女たちはいつものように、神殿に祈りを捧げた。
だが、その心には昨日までとは違う決意があった。沈黙の街に向けた、祈りという名の問いかけ。
祈りを終えると、彼女たちは人目を避けるように足早に宿へと戻った。
薄暗い室内。ランタン灯りが、書き込みの増えた地図と帳簿の影を揺らしていた。
机の上に広げられたその地図には、裏通りや商会の名前、物資の流れ、時刻と品目の記録――いびつな線が幾重にも引かれている。まるでこの街の裏側を暴こうとする血管のように。
その上に、レイラの指がすっと触れた。
冷たく白い指先が止まったのは、商会の名のひとつだった。
「私は装飾品でした。高価な宝石と同じように、いつか高く売る為に……そのためにドレスを着せられて、宝石を飾られて。笑うように言われて、頷くように仕込まれた」
その言葉は冷たく乾いていた。けれど、その奥に潜む苦しみは、痛いほど伝わってきた。
「でも、そのおかげで彼が誰と繋がっていたのか、全部見ているんです。……“あの国のお方”そう呼ばれる人たちに幼いころから酌をしながら、耳に入ってしまったんです。……魔力鉱、武具、回復薬までも密売していました」
ノアが目を細める。
「該当しそうな国といえば……カリアス連邦」
「やはりそうですか。……ここは商売としては“紅海香料”という名前で貴族向けの香油や染料を扱っています。染料はカリアスの特産品です」
ノアがうなずく。皇太子の側近である彼の手には、王都の記録と照らし合わせた帳簿の写しがあった。
エレンがその調査結果を補足する。彼女もまた、元王族としての知識と感覚を頼りに、商会の動きを読み取っていた。
「買い手として接触します。レイラ様……その表の顔をしていただけますか。危険は有る、けれどこの剣に誓ってあなたを守ります」
「ええ」
レイラは髪に試作品のレースをとめた。掌より少し大きいそれは、編み目の隙間からほのかに光を受け、彼女の存在に柔らかな輪郭を与えていた。
目立つ美貌を隠し、しかし完全には消さない。これは、自分が過去を断ち切るための仮面だ。
「……じゃあ、私は風になる」
サヴィアがぽつりと言い、エレンが頷く。
二人は離れた場所に潜み、風の音を通して会話を聞き取り、証拠を記録する役目を担う。
「私は屋敷跡に行くわ」
ネージュが静かに言った。その声に、レイラが振り返る。
「危ないですわ。旧市街のあの辺り、今はもう……誰が出入りしてるかもわかりませんもの」
「でも、シュウがいるから」
ネージュは微笑む。彼女の横では――大精霊シュウが心配はいらないとでもいうような穏やかな笑みを浮かべた。
「無理はしないって、約束する」
「ああ、地面がある限り俺がネージュを守れないことは決してない」
それぞれが、過去と現在の狭間で向き合おうとしていた。
雨脚が少し強くなった。
けれど、その雨音にかき消されることなく、彼らの意志は静かに街へと歩き出す。




