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24.壁の向こう

神殿から宿へ向かう石畳の道を一行は静かに歩いていた。

だが、その目に映る街の風景はどこか歪に思えた。


左手には、光沢を放つ深緑の屋根に金装飾の窓枠、豪奢な門まで備えた、いかにも裕福な貴族の邸宅が整然と並んでいる。白い敷石がちりばめられた庭には花が咲き、召使いの少年が濡れた石段を丹念に拭いていた。


だがその道の向かい側には、まるで別の世界が広がっていた。


黒ずんだ木の板で組まれた掘っ立て小屋、屋根には端材と麻布を重ねただけの雨よけ。歪んだ建材の隙間からは、湿気に濡れた衣類や、痩せ細った子どもたちの顔が覗いていた。


「……この距離で?」


ネージュがつぶやいた声には、戸惑いがにじむ。


二つの風景の間には石壁があった。

壁には繊細な透かし彫りが施されているが、それは壁を美しく見せるためというより、あえてその向こうを見せるための意図を感じさせるものだった。

そしてその壁の角ごとに、漆黒の鎧に身を包んだ私設兵が立っている。

彼らは誰とも目を合わせず、ただ冷たい視線を辺りに向けていた。


「これは……」


レイラが言葉を失った。

彼女はこの地に生まれながらも、長く閉ざされた屋敷での生活を余儀なくされていた。

この街の空気を肌で感じるのは初めてに等しい。だがそれでも、どこかおかしいと本能が告げている。


「もともとは別々の区域だったのでしょう」


ノアが低く言った。


「それがいつからか、再編された。高位の者たちが神殿通りを“演出”の場に選んだのです」

「貴族の目には、貧しささえも己の優越を彩る舞台装置……そう映るのかもしれませんね」


エレンは唇を引き結びながら、塀の向こうで雨に打たれながら薪を拾う子どもを見ていた。


「風の通りも、光の差し方も、全部が歪んでる……」


サヴィアが小さくつぶやく。

重く、張り詰めた空気が一行を包んだ。


だがその時、ふいに雨の中から明るい声が響いた。


「せいじょさま!」


高く澄んだその声に、一行が振り返る。

雨に濡れながらも、少女の頬には笑顔が浮かんでいた。だが、それに先んじて動いたのは、塀際にいた私設兵だった。


「立ち入りは禁止だ!」


鋭く叫び、少女の前に回り込むようにして手を伸ばす。

次の瞬間、鋼の手甲が少女の肩を掴もうとした――


「待って!」


それを制したのは、ネージュだった。とっさに一歩踏み出し、雨に濡れたフードを払って兵の前に立ちはだかる。


「彼女は、何もしていません」


灰色の大きな瞳がまっすぐ兵士を見上げていた。その声は柔らかく、それでいて揺るぎのない強さを帯びていた。

私設兵は戸惑いを見せた。彼女が聖女の一人であることに気づいたのだ。


「この子は、私たちを歓迎しようとしてくれているんです。それだけです」


しばらくの沈黙の後、兵は眉をしかめたまま腕を下ろし、ぶつぶつと何かを呟きながら、少女から数歩引いた。


「ありがとう、せいじょさま……」


少女はネージュを見上げ、雨粒に濡れた顔でほっと微笑んだ。

レイラがフードを下ろし、その場にしゃがみ込むと、少女はその姿に目を輝かせて、胸に抱えていた小さな花束を差し出した。


「タルソスに来てくださって、ありがとうございます!」


まっすぐな感謝の言葉と、そっと差し出される小さな野の花。

それは貧しい暮らしの中で少女が懸命に集めたものなのだろう。


そのあと、少女は順々に、サヴィア、ネージュ、そしてエレンへと、手作りの花束を差し出してゆく。


「何よりも尊い花束をありがとう」


そのエレンの言葉に、少女の顔がぱっと明るくなる。

嬉しそうに頷いたその瞬間、冷たい雨さえも祝福のしずくに思えた。


そして――その様子を、少し離れた場所から見守っていたノアは、穏やかな笑みを浮かべていた。



宿に戻る頃には、雨脚は少しばかり穏やかになっていた。けれど、濡れた外套から滴る水滴と、重く湿った空気が彼女たちの身を冷やしきっていた。


石造りで、質素だが清潔な宿の一室では、暖炉にくべられた薪がじわりと温もりを広げている。

外の寒さがまだ体に残っている彼女たちにとって、そのぬくもりは何よりの慰めだった。

その質素な宿の隣の部屋をノアは当たり前のようにとった。

口に出されずとも、それは聖女たちを守るためなのだと理解できた。


ノアは先に身支度を整えたようで、きちんと整った様子で椅子に腰を下ろしていた。

テーブルには温かなハーブティー。

乾いた衣服に着換えたネージュたちはノアの言葉を待つように真っ直ぐに視線を向けていた。


「レースの再現は見本を持ってきました」


その一言に、ネージュはほんの少し目を見開く。

彼女が前世の記憶から引き出し、グラーケン再建の手がかりとして託した、魔力を使わない繊細な工芸。

それが、ついに形になったのだ。


「おかげで、王宮裁縫師たちの間でもかなりの話題になっています。技法も文献だけでなく、図解のおかげで再現が早かったと。ネージュ様、この作品に問題点はありませんか?」


ノアは鞄から試作品の布片を取り出し、テーブルにそっと置いた。

掌よりも僅かに大きなそれはまだ試作段階の時点でフロスティアに戻るノアに託されたものだという。

赤と黒の糸で編まれた、それはまるで異国の蝶の羽のような妖艶な美しさを湛えている。

そして、その作品はもうすで(みゆき)でも再現できないほどの精密さで編まれていた。

力強く、そしてどこか妖しく――グラーケンの空気にはこれが相応しいのだろう艶めかしさ。

けれど、それもまた確かに美しかったのだ。


「もう、私でもこれほどのレースは編めません。私が教えていただきたいほどです」

「良かった、その返事を持って帰れば王宮裁縫師も報われます。新たな技法ようと皆必死でしたから」


ほっとしたようにそう言った後、ノアは少し表情を曇らせながらも、誠実に続けた。


「それと、缶詰の件ですが……保存性の実証にはやはり年単位の経過観察が必要です。ただ、保存環境のテストや衛生管理の基準づくりはすでに始めています。商品化はまだ先ですが、開発そのものは進行中です」

「一歩ずつですね」


レイラが穏やかに言い、皆がその言葉に静かに頷いた。

その中で、ネージュだけが黙ってカップを見つめていた。

指先でルビーのネックレスに触れて、押し殺したようなため息をついた。


だが、ネージュはその想いをぐっと奥に押し込み、何もなかったように小さく微笑んで見せる。

その笑みの儚さに、ノアが一瞬だけ、目を細めた。


彼は何も言わず、ただ静かに立ち上がり、もう一杯ネージュのカップに茶を注いだ。

その仕草は、まるで「焦らずともいい」と伝えるような、さりげない優しさを含んでいた。

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