22.再会の時
神殿の扉を軋ませて中へ足を踏み入れると、冷たい空気が肌にまとわりついてきた。
薄暗い内部には、かつて灯されていたであろう燭台の残骸が朽ち果てて転がり、天井から落ちた埃が静かに宙を舞っていた。
その奥、神殿の中心に佇むのはひときわ存在感を放つ石の柱――オベリスクだった。
かつて祀られていたその聖なる石碑も今はひび割れ、そこから染み出した黒ずんだ苔が傷口のように広がっていた。
表面には祈りの文様がかろうじて残っていたが、それも時間と無関心に侵食されもはや読むことは困難だった。
ネージュ、サヴィア、エレン、それぞれが静かに膝をつき、祈りの言葉を捧げる。
この地に残された聖性のかけらに、ほんのわずかでも光が戻るように――そう願いながら。
そのとき。
「……帰ってきたのか、レイラ」
バタン、と無遠慮に開け放たれた扉の音が神殿に反響する。
低くくぐもった声がその静寂を切り裂いた。
全員が振り向くよりも先に、レイラだけがその声に硬直した。
声の主は、年配の男だった。
整えられた髪と身なりにはかつての威厳が見え隠れするが、その目元には陰りがあった。
そしてその唇は懐かしさではなく、軽蔑と嘲りを刻むようにゆがんでいた。
「お父様……」
レイラの声がわずかに震える。
けれど、その眼差しは決して逸らさず、顔も俯けなかった。
彼女の肩は緊張に強張っていたが、その姿勢はまっすぐだった。
まるで、自らの過去と家族との確執と今この瞬間に向き合うために、背を正しているように。
男は神殿の内を一瞥し、オベリスクを鼻で笑うように見やった。
「そんな壊れた石に祈ったところで、何が変わる?」
その言葉に、神殿の空気が張りつめる。
ネージュが思わず立ち上がりかけたが、レイラがそっと手を上げてそれを制した。
「それでも私は、ここに祈ります。この地のために、かつて信じたもののために……」
その声はかすかに震えていたが、胸の奥底から絞り出されたものだった。
彼女の瞳の奥にあるのは怒りでも悲しみでもない、揺るぎない決意。
父と呼んだ男と向かい合うその姿に、ネージュはそっと手を胸にあて静かに見守る。
――壊れた神殿、裂けたオベリスク、そして断たれた家族の絆。
それでもレイラは、もう目を逸らさない。
彼女は立っていた。
過去と、今と、自分自身と共に――まっすぐに。
「精霊なんかに仕えているくらいなら、男を喜ばせる方がよほど役立つだろう。」
神殿に響いたその声は、石壁に反響しながら冷たい毒となって空気を染めた。
ひび割れたオベリスクの前に立ち尽くしていたレイラは、その場に釘付けになる。
「お前がここにいて何になる? その美貌を売って生きる方が、ずっと賢い選択だ。」
男――レイラの父の言葉は、まるで泥を塗りつけるかのようだった。
その目は娘を見るというより、忌々しい過去の亡霊を睨むように冷たく、憎しみに満ちていた。
レイラの顔がわずかに歪む。
過去の記憶が、波のように胸の奥から押し寄せてくる。
父の怒鳴り声、蔑みの目、少女だった頃に否定された数々の言葉たち。
彼女は歯を食いしばり、視線を逸らさずに立ち続けた。
だがその肩はわずかに震え、胸には怒りと悔しさが入り混じった痛みが渦巻いていた。
そのときだった。
ごう、と風もないのに神殿内の空気が揺れ、石の床に重々しい足音が響く。
レイラの背後から、大きな影がぬっと現れた。
「レイラを傷つけることは、許さない。」
岩の精霊――ガイだった。
その声は地の底から響くように低く、確かな力を湛えていた。
巨大な岩の腕がレイラの前に伸び、まるで砦のように彼女を守る。
レイラの父は、その異形の存在に一瞬たじろいだ。
瞳に驚愕が浮かび、数歩後ずさる。だが、すぐに怒りの炎がその目に宿る。
「……貴様、精霊だか何だか知らんが、俺の前で好き勝手を――!」
怒鳴りながら男は腰の剣を抜き放った。
その刃が、かつてこの街を治めていた者の誇りを象徴するかのように、鋭く銀に光った。
「邪魔をするなら容赦はしないぞ!」
その叫びとともに男が駆け出す――剣が精霊に向かって振り上げられたその瞬間。
神殿の扉が風を裂くようにして再び開いた。
差し込む光の中、一人の男が音もなく現れる。
銀の髪が淡く揺れ、黒衣の裾が静かに床を払う。
その歩みは無駄がなく、まるで舞台の上を進むように優雅で、どこか非現実的な気配をまとっていた。
「――皇太子使節の前で、罪を犯すつもりですか?」
その声は冷ややかで、しかし一点の曇りもなかった。
まるで凍てついた刃が喉元に突きつけられたかのように、父の動きが止まる。
レイラの父が振り向く。剣を持つ腕がわずかに震えた。
そこに立っていたのは、ノアだった。
皇太子ルシアンの側近であり、静かなる威圧を纏う青年。
その双眸はまっすぐに父を射抜いていた。
「ノア……様?」
レイラは呆然と呟いた。
その声に、ノアの視線が一瞬だけ彼女に向く。
しかしその顔に浮かんだのは、いつもの無表情ではなかった。
わずかに目を細め、彼女の無事を確認するような、安堵の色。
再び視線を父に戻したノアは、凍りついた空気の中、ただ一言、厳かに言った。
「剣を下ろしなさい。それ以上の無礼は、あなた自身を貶めることになる。」
神殿に沈黙が落ちた。
その中でレイラは、精霊の温もりを背に感じながら、静かに息を吸い、吐いた。
そしてもう一度、父の前に立った。
今度は、少女ではなく、聖女として――。




