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21.森の街タルソス

「次は……タルソスだね」


ネージュが静かに口にしたその名に、レイラはふと目を伏せた。

その肩が、風に震える葉のようにわずかに揺れる。


タルソス――それは森に抱かれた街。

豊かな大地に深く根ざした緑の香りと、木洩れ日が踊る静かな光に満ちた美しい地。

けれどレイラにとっては、心の奥底にまで届く痛みの記憶が刻まれた、逃れようのない故郷だった。


彼女の家族は、かつては領主を務めた誇り高き家だった。

だが「聖女を虐げた者」とされ、貴族の籍を剥奪の上で、名も地位もすべてを失った。

それでも彼らは、今もタルソスの地に住んでいた。

元領主としての影響力は簡単には消せるものではなく、今なお影での力を保ったままだとレイラは聞いていた。


旅は幾日にもわたり、季節は春の終わりを迎えつつあった。

一行は山を越え、谷を下り、やがて深く茂る森へと足を踏み入れていく。

草木の匂いが風に乗って鼻をかすめ、鳥のさえずりが絶え間なく耳に届いた。


途中、小さな村に立ち寄ると、子どもたちがネージュに手を振り、

サヴィアの奏でる風に歓声を上げて追いかける。

レイラはその輪の中で微笑んでいたが、その目にはどこか遠くを見ているような影が差していた。


ネージュは何度か声をかけようとした。

けれど、レイラの唇がきつく結ばれ、まるで言葉を封じるように微笑むたび、

ネージュは紡ぐべき言葉を見失って口をつぐんだ。


レイラは明るく振る舞い、冗談さえ飛ばす。

だがその声の奥には、どこか緊張を孕んだ響きがあった。

その目には、誰も触れてはならない深い傷が見え隠れしていた。


夜になると、焚き火を囲むひとときにも、レイラは静かに目を閉じていた。

夢の中で、声にならない叫びに追われるように、眉をひそめ、小さく呻くことがあった。


そんなとき、岩の精霊――ガイが、そっと彼女のもとに姿を現す。

その大きくごつごつとした手で、額の汗を優しく拭い、黙って寄り添った。

彼の存在は、まるで静かな岩陰のように、レイラの心を少しずつ、確かに温めていった。


旅の仲間たちは何度も声をかけた。

「無理しなくてもいいんだよ」とネージュが言い、

エレンも「今は私たちが代わりに動けばいい」と繰り返す。


けれどレイラは、必ず首を振った。


「私は、聖女としてこの地を訪れます。どんなに苦しくても、この地を癒やすことが、私の使命であり……贖いでもあるのです」


その声は、穏やかでありながら刃のような鋭さを帯びていた。

彼女の中にある決意が、誰よりも強く、揺らぎのないものだとわかる声だった。

だからこそ、誰もそれを止めることはできなかった。


森の気配が濃くなってくる。

背の高い木々が行く手を包み、陽光は葉の合間から薄く差し込むようになる。

遠くで鳥の鳴き声が響き、風が葉を揺らす音が耳をくすぐる。


タルソスが近づくにつれ、レイラの足取りには微かな迷いが見えはじめた。

時折立ち止まり、深く息を吐いては目を閉じる。そしてそのたび、彼女の中で遠い記憶がよみがえる。

まだ10にも満たない時に、13歳になったら王都の老人に嫁いで遺産を全て持って帰れ。

その次はねあの老人にだ。そう笑う父の顔。

逃げ出せないように格子の嵌った窓越しから見上げた空。

父がまるで品評会にでも出す様に、まだ幼いレイラを社交の場に連れていた時に投げかけられた下卑た視線たち。

そのひとつひとつが、今も彼女に突き刺さり続けている。


だが、そのたびに。


「大丈夫」


ガイがそっと彼女の背に触れ、揺れる心を静かに支える。


「レイラ、あなたがどんなに辛い場所にいても、私たちは一緒だから」


ネージュがそっと手を差し伸べる。


その手を取ることはできなくても、レイラは確かに、彼女たちの想いを感じ取っていた。

そして、次第に、ほんの少しずつ――歩幅が戻っていく。


タルソスの森が目前に迫る。

遠くからは鳥の鳴き声と、柔らかな木々のざわめきが聞こえてくる。

その光景はどこまでも穏やかで美しかったが、レイラの表情には緊張が浮かんでいた。


張り詰めた空気の中彼女は立ち止まり、ひとつ深く息を吸い、そして吐いた。


「向かいます。私は……あの場所を乗り越えるために来たのですから」


その言葉は、どこか祈りにも似た、静かで揺るぎない強さを秘めていた。


ネージュとサヴィアは、レイラの背をそっと見守りながら静かにうなずく。

この道は、彼女ひとりで歩くものではない。

誰かと共に進むことで、過去も未来も、ほんの少しずつ変えていける。



タルソスの街にたどり着いたとき、霧雨が静かに石畳を濡らしていた。

鬱蒼とした森を抜けた先に現れたその街は、かつての面影をわずかに残しながらもどこか沈んだ空気に包まれていた。


最初に目に入ったのは、街の中央に佇む神殿だった。

その姿はまるで長い時の中で息を潜めていたかのように朽ちかけていた。

かつては聖なる光に満ちていたはずの白い石壁には深いひびが刻まれ、ところどころ崩れた屋根の隙間からは雨水がぽたり、ぽたりと音を立てて落ちていた。

風が吹き抜けるたび、軋む扉の音が寂しげに響く。

かつてこの地に祈りを捧げた人々の声はもうなく、そこにはただ忘れ去られた信仰の残り香と、崩れかけた神性だけが佇んでいた。


レイラはその光景を前に立ち止まり、ぎゅっと唇をかみしめた。

目を伏せ、深く息を吸う。だが肺に満ちるのは、苔むした石の匂いと、湿った埃の気配だった。

何度も呼吸を整えようとしたが、胸の奥に重く沈む記憶が、それを許してくれなかった。

それでも彼女は顔を上げず、ただ足を動かし続けた。


街の人々の視線が、静かに、だが確実に注がれていた。

レイラの姿を見て、その歩みに気づいた者たちは、小さくざわめき道端で立ち止まった。

その目には、アーフェンで感じたような敬意ではなく――ただ、興味と欲望が滲んでいた。


「……っ」


美しいその容姿は、今や神聖な象徴ではなかった。人々の中には、彼女の体つきを露骨に眺める者もいた。

レイラの目の奥にある決意や疲労、心の傷には誰も気づこうとしなかった。

ただその肌や髪、聖女ではなく「女」として、彼らの視線は彼女を消費していく。


レイラはフードを深くかぶり、顔を隠すようにして歩を速めた。

背筋をまっすぐに保っているようでいて、その歩幅は不自然に固く、肩はこわばっていた。

足元の石畳が、水を含んで足音を吸い込む中、レイラの呼吸だけがやけに耳に残る。


心の中には、幼き日々の記憶が次々に浮かんでは沈んでいった。

見られるためだけに着飾らせられた。

自分のためには何一つ選べなかった、できなかった。

閉じ込められて、空だけを見上げて。

ガイに出会うまでの、短いけれど長すぎた日々。

――その痛みが今もなお、心の奥に残っていた。


記憶と、今の街の現実とが重なり、レイラの胸を容赦なく締めつける。


「レイラ……」


ネージュが静かに名を呼んだが、その声は雨音と混じって届かなかった。

レイラは振り向かず、ただ前を向いたまま、薄暗い神殿の影へと歩みを進める。


彼女の背は小さく揺れていたが、その足取りには確かな意志が宿っていた。

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