20.竜の飛翔
風が山の稜線をなぞるように吹き抜ける。
その中に、竜の長い尾がゆるやかに揺れていた。
その仕草は背に乗ることを促す物のように見えた。
「……アーフェンまで乗せてもらえるの?」
ネージュの問いかけに、ドラゴンはゆっくりと大きな翼を広げた。
骨のように痩せていたが、それでも一たび空を掴めば、風は味方をするはずだ。
「我を信じるか?」
「ええ、もちろん」
そう言ってネージュは、レイラ、そしてサヴィアとともに背に乗った。
龍の背は骨ばり鱗の色はくすんでいたが、不思議と安心できる温もりがあった。
「では……行こう。我らが帰るべき場所へ」
翼が大きく風をとらえ、雪の舞う崖の上からその身体をふわりと宙へ浮かび上がらせた。
岩肌をなめるように滑空し、やがて高く高く、山の尾根を越えて飛翔する。
谷の風が流れを変え、彼を押し上げていく。
荒々しく吹きつけていた風は今、まるで帰還を祝福するように、その背をやさしく後押ししていた。
そして、白銀の山の向こうに——アーフェンの街が見えてきた。
小さな屋根が肩を寄せ合い、雪に沈むように並ぶその町並みに、陽が射していた。
その一角、広場の外れにぽつりと広がる石畳の空間へと、ドラゴンはゆるやかに旋回し、静かに降り立った。
地面に大きな爪が触れるたび、雪が舞い、細かな氷片が光を受けて煌めいた。
その巨体を見て、遠くから人々のざわめきが起こる。
驚き、恐れ、戸惑い——さまざまな感情が混ざった声があがるが、誰ひとり逃げる者はいなかった。
なぜなら、それよりも先に——神殿から杖を手に急ぎ足で向かってくるひとりの老人の姿があったからだ。
白髪を風に翻しながら、老聖女は迷いなく、まっすぐにドラゴンのもとへと向かう。
その瞳に宿るのは、恐れではなく、長年積もらせてきた祈りの炎だった。
竜の目が彼女をとらえる。
「……お会いしたかったです」
老聖女の声は小さく、けれどはっきりと響いた。
「済まなかった……あのとき我は、力を抑えきれなかった……」
竜の顔がほんのわずかに俯く。
その声には、静かな苦しみと後悔が滲んでいた。
だが老聖女は首を振る。
「母から言われておりました。もし、あなたに再び会えたら、伝えてほしいことがあると」
空気が静かになる。
広場を取り囲んでいた人々も、声をひそめ、耳を傾けていた。
「『本当に感謝しています』と。……街を救ってくれたことに。けれど何より——友となってくれたことに、と」
言葉を噛みしめるようにして、老聖女は続ける。
「『ずっと私たちは、友達です』、そう伝えてほしいと」
その瞬間、風が音を失ったかのように感じられた。
竜の大きな瞳から、静かに、しずくがひと粒こぼれた。
それは雪の上に落ち、音もなく消えた。
「……あの聖女は、あんな目に遭っても……我を“友”と呼んだのか……」
風が吹く。
もう一度、そっと、サヴィアの髪を揺らしていく。
その風は確かに、かつてドラゴンがこの街に捧げた温もりと、今ここに戻ってきた優しさを含んでいた。
やがて、竜は大きな頭を深く垂れた。
「……アーフェンよ、帰ってきたぞ」
その恭しいとさえいえる姿に誰もが言葉を失い、ただその場に立ち尽くしていた。
しかし、やがて……一歩、また一歩と、人々の中から前に進み出る影があった。
最初は、ひとりの老婆だった。
以前に広場でネージュと編み物の話をしていた女性。
彼女は杖をつきながらもまっすぐにドラゴンへと歩み寄り、その鱗の一部に手を触れた。
「……ほんとに、あんたが来てくれたのかい」
その手は、恐怖ではなく懐かしいものを愛でるようだった。
「昔、おばあちゃんに話してもらったよ。街が大雪に覆われた時、山から風を吹かせて雲を追い払ってくれたって。風邪で動けない母さんを籠に乗せて山を越えてくれたって」
その言葉に、またひとり、またひとりと人々が動き出す。
「本当に……伝説だったんじゃなかったのね」
「父ちゃんが言ってたよ。子どもの頃、竜の背に手を振ったって……」
「怖い姿だけど、目が優しい」
最初は警戒していた子どもたちも、母親のスカートの裾からそっと顔を覗かせ、
やがて小さな手でドラゴンの尾にそっと触れる。
それに応えるように、ドラゴンはゆっくりと尾を揺らし、優しく地面を撫でた。
まるで、「ここにいるよ」と伝えるかのように。
サヴィアはその様子を静かに見つめていた。
顔に吹く風が、どこまでも柔らかく、あたたかかった。
「……こわい風じゃない」
ぽつりと、彼女が呟いた。
ネージュはそっと隣に立ち、サヴィアの肩に手を添える。
サヴィアはもう震えてはいなかった。
レイラは胸元で指を絡め、目を閉じて祈りの言葉を紡ぐ。
「神に感謝を。再び繋がれた魂たちに祝福を……」
その祈りの声に合わせるように、広場に風が渦を巻いた。
竜が再び顔を上げる。
その目は、かつての後悔さえ染め上げるほどの慈愛に満ちていた。
「アーフェンよ。我は、そなたらのために再びこの空を翔けよう。
風が必要とされる限り……我が翼は、そなたらの友として在ろう」
その言葉に、広場から歓声は上がらなかった。
ただ静かにそして深く、ひとりひとりが頭を垂れ竜とこの瞬間を心に刻んでいた。
それは、言葉ではなく、祈りに近い何かだった。
遠くの空には、春の兆しを孕んだ薄い雲がたなびいていた。
風がそれをつつむように舞い上がる。
その風はもう、街を閉ざすものではない。
——再び、この地を守るものとして吹き始めたのだ。
竜の翼が静かにたたまれ、広場に一瞬の静寂が落ちる。
老聖女がその足元に歩み寄り、膝を折って礼を示すと、竜はゆっくりと頭を下げて応じた。
「我が翼はもう逃げるためには使わぬ。ここアーフェンの地を、そしてこのオベリスクを共に守ろう」
そう言った竜の声は、風に乗って街じゅうに届いた。
重く、深く、しかしどこか春の芽吹きを感じさせる優しさに満ちていた。
老聖女は静かにうなずき、目を細めて言った。
「……ようやく、母とあなたの願いが重なりましたね。これからも、この街をお願いします」
その背後では、人々が少しずつ広場に集まり、かつて語られていた“風の竜”の存在を今、自分たちの目で見つめていた。
彼らの胸の奥に宿る「希望」が静かに再び息を吹き返していた。
それは、春を迎える草の芽のように。
そして――。
ドラゴンとアーフェンの人々の再会を見届けたネージュたちは、新たな目的地へと向かう準備を始めていた。




