2.終わりゆく日々
暴力的なシーンがあります
図書室の片隅、日の刺さない書架の影で静かに閉じられた本、ため息が一つ。
その息が、静寂に溶けていくかのようだ。物語の中には、必ず幸せな結末が待っている。
しかし、彼女は知っていた。自分には、そんな結末など訪れないことを。
(これは夢物語なんだから)と、心の中で呟けば、すぐに現実が押し寄せてくる。
彼女の生活には、意地悪な義母も義姉妹も、婚約破棄を突きつけてくる婚約者もいない。
ただ、何より彼女にはこの見た目がのしかかる。
フロスティア王国では、淡い色のストレートヘアに真っ白な肌、細く切れ長の瞳、そして薄く華奢な体が美しいとされる。まるで雪の彫刻のような、繊細で儚げな美しさが最良であるのだと。しかし、彼女はといえば。
真っ赤な髪はいくら引っ詰めても膨らんで、まるで異国人のように大きなウエーブを描く。細かいそばかすが、顔を無駄に目立たせ、濃いグレーの瞳はその大きさですぐに人々の目についてしまう。
顔を隠そうと髪を下ろせばその色とウェーブを笑われてしまう。
下品な胸だと指さされて以来、胸はきつく締めあげても顔は隠しようもない。
そんな彼女——ブランデール侯爵の一人娘であるネージュは、醜く陰気な存在だ。
家の中でさえも俯いていることが多い。陰口が止むことはなく、どこに居ても窮屈で。
だからこそ、日々図書室の片隅で現実から逃げることを選んでいた。
ランチなど持たせてくれるはずのない使用人と、食堂に向かう勇気がない自分自身。
お腹が鳴らないことを祈りながら、書架の隙間で身を隠すよう本のページをめくる。
それが彼女の日常だった。
とはいえ、家を出る勇気なんてない。食べていける力もない。結婚して婿を取ることだけが彼女に取れる唯一の選択肢だ。
もし、あの家を出ることがあっても、諦めしかない人生こそが死ぬまで変わることのない運命なのだろう。
だから、ネージュは物語の中だけでも、幸福な時間を味わいたいと願うのだ。
帰宅時刻を告げる鐘が耳に届く。その音は彼女を現実に引き戻す合図だった。
音を立てないように静かに本を戻し、彼女は深いため息をもう一度ついた。
静かな息が、ゆっくりと空気に溶けていく。
ネージュが帰宅すれば、いつもの無表情なメイド長がやってきて冷たく告げる。
「お嬢様、アーサー様が客間においでです」
帰宅の挨拶がないことなど、もはや日常茶飯事だった。
家の者たちは彼女がいなくてもあまり気にかけていないようで、彼女自身もそれに何かを感じることもなくなった。なくなったと信じようと心を押し殺し続けて手に入れた平穏だった。
将来的には、アーサー・グランド子爵令息が彼女の夫になる事は決まっている。それを受け入れる覚悟は、全てを諦める覚悟よりはずっと楽な物だとネージュはただ頷き続けてきた。
だが、メイド長がわざわざ彼女を呼びに来るということは、何か波乱があるのだろう。
まさか、婚約破棄を突きつけに来たのだろうか?それなら、それでありがたい。修道院に行く口実ができる、とネージュはどこか浮き立つような気持ちを無表情の下に押し込めた。
「アーサー様、お待たせいたしました」
「入れ」
ブランデール家の客間ではあるが、アーサーの言動は、まるでそこが自分のものだと言わんばかりだ。重い扉を開けると、予想以上に衝撃的な光景が広がっていた。
彼は見知らぬ令嬢を片手で抱き寄せ、ソファに腰掛けてくつろいでいた。
ドレスの襟元ははだけ、その隙間から見える雪のように白い肌がネージュの目に映る。
乱れたドレスの彼女は、アーサーと何も気にすることなく戯れている。
「アーサー様、そちらの方は…?」
ネージュの頭の中では、様々な思考が渦を巻いていた。何を言えば良いのか、どう反応すれば良いのか。ただ、口から出た言葉は、それだけだった。
「相変わらず陰気な無表情だな、ネージュ。不細工な上に陰気な女に社交が務まるとは思えんな」
アーサーが言い放つその言葉の冷たさが胸に刺さる。彼は、まるでこれが日常のように、平然と続けた。
「彼女はロートン準男爵令嬢ロザリー。第二夫人になる」
アーサーは、ロザリーの腰を引き寄せ、微笑みながらそう告げた。淡い金色の髪と、透き通るような白い肌がまぶしく、彼女の存在感は圧倒的だった。
見るからに、ネージュとは格が違うと感じさせるその美貌。
ロザリーはネージュを見下すように微笑んでいた。同じ人間とは思えないほどに美しい令嬢の笑みはしかし底意地の悪い物に思えてならない。
そしてアーサーは、当たり前のように言った。
「表向きのことは、すべて彼女が取り仕切るから、お前は人目につかないようにしているだけでいい。ま、今と同じだろう?」
「それなら、私ではなく、そちらの方と結婚なさるべきではございませんか?」
アーサーは、わずかに目を細めてネージュを見つめ、口元に冷ややかな笑みを浮かべる。
「馬鹿か。俺は三男、家は継げない。ロザリーは1代限りの準男爵だ。お前がいなきゃ、貴族の暮らしができないんだよ。だから、その顔を我慢して正妻として置いてやるって言ってるんだよ!」
その言葉が、彼女の胸を切り裂くように響いた。
アーサーがもともとネージュのことを醜いと嫌っていたことは、彼女自身が一番良く理解していた。
けれど、貴族の結婚というものは建前と名目に過ぎないと理解していたからこそ、夫婦としての形だけは保つ努力をするつもりでいた。
けれど、子が生まれないことが明らかになる前どころか結婚もしないうちに、第二夫人を持つなどという行動を取ろうものなら、それこそそんな形さえも保つことなどできはしない。
返事をしないネージュにしびれを切らせたのか、アーサーは怒鳴りながら立ち上がる。
ネージュに近づきながら蹴りつけたティーテーブルから食器が落ちて割れる音が響く、
その音が、ネージュの全身を凍らせた。
動けない。声を出すことすらできない。そんな異常だと感じるほどの恐怖心が彼女の中で突如として暴れ回っていた。
恐怖から目をギュッと閉じると、ネージュの脳裏にかつて受けた痛みが蘇る。髪を引き寄せられ、腹を蹴られる感覚。そんな過去の記憶が、まるで現在の出来事であるかのように鮮明に浮かんでくる。
けれど
アーサーや使用人たちでもネージュにそこまでの暴力を振るったことはなかった。しかし、恐怖が支配する中で、彼女の知らない傷が現実であるかのように彼女の心を縛る。
「怖い、怖い、怖い、怖い……」
その恐怖は、痛みへの恐怖、捨てられる恐怖、苦しみへの恐怖だった。
脳裏に浮かぶ幻覚があまりにも恐ろしすぎて、ネージュは目を必死に見開く。
すると、目の前には怒りを湛えたアーサーが手を振り上げるのが見えた。
その瞬間、ネージュの口から抑えきれない叫びが上がる。
「嫌あぁあ!!!」
その叫び声が響く中、ふと、ネージュは誰かの温かい腕に守られたような感覚を覚えた。その腕は、何とも言えない安心感を与えてくれるような、懐かしさを感じさせるものだった。
『大丈夫。もう怖くない』
その言葉が彼女の耳に届く。その声は、長い間聞いていなかった、懐かしい懐かしい声。その声を追い求めるようにネージュの目は閉じていった。
長い、長い夢を見ていた。夢の中で私は幸という名前の醜い女だった。
名前に反して、幸せとは無縁な日々が続いた。生家はギスギスしており、家族の間での温かさや愛情を感じたことはほとんどなかった。
そして、学校では子供の頃からずっといじめられ続けていた。そこから抜け出したかった。どうにかして、この惨めな生活を変えたかった。
その一歩が結婚だった。この日々から解放されるため、必死に結婚相手を探していた。
そんな日々の中で出会った一人の男が、私を受け入れてくれた。けれど、その後、彼の本性が明らかになった。
彼は仕事をまともにしなかった。だから、私が必死になって働かなければならなかった。
彼は貧しい料理に対して怒りを爆発させ、私を殴ることさえあった。だから、私は自分の食費を削り、自分を犠牲にしてでも彼を支えようとした。
それでも彼は変わらず賭け事で借金を作り、私はそれを支払うために寝る間も惜しんで別の仕事を掛け持ちした。
そんな日々の中、病が見つかったけれど治療するお金はなかった。
それよりも、自分が入院すれば彼は生活できなくなるだろうという現実に直面していた。
すべては、自分が醜いから仕方ないのだと思っていた。
耐え続けることができた理由はただ一つ。心の支えがあったから。物心ついた時から、ずっと私のそばにいた幻想の友達、イマジナリーフレンドのシュウがいた。
シュウは私を慰め、私の代わりに怒り、私を抱きしめて励ましてくれた。シュウの声に支えられて私は辛い日々を乗り越えた。
シュウは時には私に、「お前はいらない人間なんかじゃない、職場の人々からだって感謝されていたじゃないか」と教えてくれりもした。
シュウがいれば、どんなに辛くても前を向けた。
しかし、そんな結婚生活も終わるときが来た。彼の浮気がきっかけだった。あの日、派手な女を連れてきた彼は、私を辛気臭い顔だと罵り、楽しげに笑っていた。
私の心はその瞬間完全に壊れた。私は、生きている意味すら感じられなくなった。
病気で良かったと心から思った。病気が私をこの地獄から救ってくれるのだと本気で思った。
死ぬ前、シュウと交わした言葉を今でも覚えている。
『シュウ、私が死んでもそばにいてくれる?』
『幸の心があるかぎり、僕はずっとそばにいるよ』
その言葉に、私は確かに救われたのだ。
ネージュは冷たい涙で目を覚ました。夢はまるで現実のようだった。
ただ、本能的に理解したことがあった。説明できることではないけれど。
彼女の前世は幸だったと。
そして地獄からは逃げられなかったのだ、と。