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19.紡がれる物語

広場の隅。商店の前に並べられた木椅子に、日向ぼっこをする老婆たちの姿があった。

編み棒を器用に動かしながら、彼女たちはのんびりとおしゃべりをしている。


ネージュはそのそばに歩み寄り、ふと編みかけのセーターに目を留めた。


「……セーターですか?」

「そうだよ。孫に着せるのさ、ほら、あのやんちゃ坊主」


笑いながら差し出されたセーターは、どれも丁寧な目で編まれていた。きちんと揃った編み目に、手慣れた技術が滲む。


けれど——


「……この土地の冬には、ちょっと薄いかもしれませんね」


ネージュがそう言うと、老婆たちは互いに目を見合わせてから、苦笑いを浮かべた。


「まあ、ないよりはマシじゃろうて。厚着して、その上に重ねるんさ」


ネージュは少しだけ考え込んだ。

若い頃、友人に頼まれて、彼氏に贈るためのセーターを編んだことがあった。

高価な糸をふんだんに使い、模様もこだわって……けれど完成したそれはやたらと重くて、着るにはちょっとした覚悟がいる代物だった。


(カウチンセーター……そうだ、あれだ)

(――お礼に欲しかった本を買ってもらって、喜んでいたよな)


脳裏には、一緒に思い出を懐かしんで笑うシュウの声が響く。


カウチンセーターは、二色以上の糸を使い、裏で糸を編みくるむことで厚みと保温性を出す編み方。

カナダの寒地にルーツを持つその編み方は、この厳しいアーフェンの冬にこそ向いている気がした。


「分厚くなるんですけど、すごくあったかいんです。模様も作れるんですよ」


ネージュは老婆たちから色の異なる糸を二玉と編み棒を借りて、手早く編み始めた。

すると、たちまち興味を引かれたように周囲の視線が集まってくる。老婆たちだけでなく、買い物帰りの子連れのおかみさんたちまで足を止めていた。


「こりゃあ風も通さなさそうだわい」

「へえ……模様になるのかい? 裏で渡す糸を使って?」

「うまいこと考えるもんだねえ。昔っからあったのかい?」

「ちょっと遠い土地で……教わったことがあるんです」


ネージュは微笑む。カウチン糸ほどの太い糸の方が、むしろこの土地では自然に紡がれている。細く丁寧に撚るより、ふんわりとしたまま使う方が、彼女たちにとっても楽なはずだった。


「この辺りの冬って、オベリスクの力が弱くなってから厳しくなったんですか?」


編み物の手を止めずに、ふとネージュが問いかけると一人の老婆が首を振る。


「いいや、昔っからこの辺りはね、洗濯物が凍っちまうほど寒いんだよ。オベリスクがあってもなくても、ここの風と雪は変わらないよ」

「……じゃあ、昔の人たちは寒さをしのぐ工夫をいっぱいしてたんですね」


ネージュが感心したように言うと、老婆の一人が懐かしげに語り出す。


「そうさねぇ……あたしの母親の、そのまた子供のころの話だけど、アーフェンには、それはそれは優しいドラゴンが住んでいたんだって言うんだよ」

「そんなのおとぎ話だろ」


近くにいた少年が、親に手を引かれながら茶々を入れるように声を上げた。

だが老婆は、真剣な顔で首を横に振った。


「いやいや、本当の話さね。昔はそのドラゴンが、この街を大雪から守ってくれていたそうだ。病で動けない人がいれば、籠に乗せてふもとまで運んでくれたってね。でも、あるとき……別のドラゴンと争いになって、それから姿を見せなくなったって話さ」

「ドラゴン、死んじゃったの?」


少年が心配そうに尋ねると、老婆はゆっくりと首をかしげた。


「どうかねえ。死んだとは聞いとらんが、帰ってきたって話もないね」



その夜、神殿に戻ったネージュは、広場で聞いた話を皆に語った。

すると老聖女は、遠い記憶を呼び起こすように目を細めて言った。


「……それは、真実です。私の母がかつて大きな怪我を負ったことがあったとお話しましたね。あれは……そのドラゴンの戦いに巻き込まれたせいだったと聞いています」


彼女は声を落とし、ひととき沈黙する。


「母は……“あのドラゴンはきっと負けるはずはない”と、そう言っていました。でも、自分が戻らなければ心配するだろうと……それを悔いていたのです」


聖女の言葉に、サヴィアが小さく顔を上げた。


「……何ドラゴン?」

「風の竜……ウィンドドラゴンだったと、聞いています」


その名を聞いた瞬間、サヴィアは目を細め、しばらく沈黙したあとで、ぽつりと呟いた。


「……ドラゴン。たぶん、生きてる」


その声は、風のようにかすかで、それでいて確かな響きを持っていた。


「……崖の下で、声を聞いた」


皆の視線が集まる。


「風に混じっていた。……たぶん、ドラゴンの声」


そしてサヴィアは、少し間を置いて最後にもう一言を加えた。


「……あの声は、後悔してる」


その言葉に、老聖女がゆっくりと立ち上がった。

震える指先を杖に添えながら、けれど目には強い光が宿っている。


「私が……行かねば。あの方に、言葉を……」

「危険すぎます。あの崖は急峻で、雪も積もっていて……それに、神殿を守る聖女が不在になるわけには」


エレンがそっと彼女の腕を取る。老聖女は悔しげに眉をひそめたが、しばらくして静かにうなずいた。


「——ネージュ、レイラ、そしてサヴィア。あなたたちに託します」


こうして、三人はドラゴンの眠る岩山へ向かうこととなった。



荒れた尾根を越え、風が泣くように吹きすさぶ中、三人は氷と岩の裂け目にようやく洞窟を見つけた。

奥からは重く、深く、うめくような呼吸音が響いている。


「……帰れ。ここに来るな。……我は、朽ちるのを選んだのだ」


洞窟の奥から低く響いた声に、三人は立ち止まった。

それでもネージュが一歩、足を踏み出す。


「でも、あなたのことを……ずっと待っていた人がいます。ドラゴンに傷を負わされたあの聖女は、あなたが勝つと信じて、戻ってくるのを願っていた。心配させたことを気に病みながら、ずっと山を見上げていたそうです」


その声は、静かでありながら確かな温度を持っていた。


「その娘である老聖女が、今もその願いを受け継いでアーフェンに残っているんです。あなたが戻ることを信じて」


少しの間、沈黙が流れた。


「……我の力は、あの聖女を傷つけた。街をも傷つけた。許されるものではない」


「でも、あなたは今でも“優しいドラゴン”として語られているんです。おとぎ話みたいに。……怪我をした聖女でさえ、あなたを心配こそすれ、恨んでなんていなかった」


ネージュの言葉に続けて、レイラが両手を胸の前で組み、祈るように言った。


「会いに行って差し上げてください。……アーフェンの街で、ずっと待っていらっしゃいますから」


それでも、洞窟の奥からは応えがない。

ただ、風のうなりが続くだけだった。


やがて、サヴィアが小さく前に出た。


「……こわいと、おもう」


その声に、ネージュとレイラが振り向く。


「……わたしも。風で、家族を殺した。火から助けようと思って……でも、火をあおいで……全部、燃えて」


その声は震えていない。けれど、その言葉の奥には凍てつく痛みがあった。


「だから……すこし、気持ちはわかる。こわい。ちからなんて、いらない。……でも」


サヴィアは、ゆっくりと指先を握りしめた。


「誰かを助けたのも、風のちからだった。いま、アーフェンの人たちは……みんな困ってる。……だから、出てきてほしい。あなたの風で、守ってほしい」


静かで、けれど真剣な声。

サヴィアの言葉に、洞窟の奥の影が揺れた。


やがて、岩を擦るような音とともに、痩せた体の巨大なドラゴンが姿を現した。

鱗は剥がれかけ、翼は折れたように垂れている。

けれど、その瞳には確かに知性と……哀しみが宿っていた。


「人の子よ……サヴィアよ。……そなたも、風を恐れていたのだな」


サヴィアは顔を上げず、小さくうなずいた。


「……我も、恐ろしい。風がもたらす破壊が、再び誰かを傷つけるのではないかと……」


そのとき、ひとすじの風がサヴィアの頬を撫でた。

それはまるで、優しい手が触れたかのように。

ノトスの気配が、寄り添うように彼女を包む。


「……だが。我にしか救えぬものがあるというのならば。その恐れとともに、この力を使うしかあるまい。それが……我の、贖罪なのだ」

「……贖罪」


サヴィアがその言葉を繰り返すと、ドラゴンは目を細め、深く首を垂れた。


「いや、サヴィア。そなたが救った命は、すでに小さくない。その魂の輝きが、それを物語っておる。だが、どうしても心が晴れぬならば、救うがよい。恐れながら、それでも風を差し出すのだ。どこまでも、何度でも」


その言葉にサヴィアは確かに頷いた。


ひととき、風が山を越えて吹き抜けていく。


それはもう、サヴィアにとって“炎をあおぐ風”ではなかった。

命を救い、過ちを超えて、新しい何かへと向かう——祈りのような、静かな風だった。

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