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18.風の導き

そんなある日。

神殿の奥へと、雪を踏みしめる足音とともに、やつれた女が運び込まれてきた。

顔色は蝋のように青白く、荒い息遣いのたびに胸元がかすかに上下するだけ。

その傍らには、まだあどけなさの残る少年が寄り添い、泣き出しそうな顔を必死に堪えていた。

その手は細い母の手を握り締めたまま、震えを隠そうとするかのように固く唇を噛んでいる。


彼らは、街のはずれ――雪に飲まれかけた小さな家に暮らす親子だという。

母親は長く病を患っており、本来ならその地で採れる薬草で命を繋ぐはずだった。

だが、土地の枯渇でで薬草は絶えてしまい、冬の備えも底を尽きあとは神にすがるしかないという状況だった。


「……せめて、大聖女様に最後の祈りを……」


女についてきた老人――その父親だという男が、雪で汚れた膝をついて、かすれた声で請う。

その言葉に、神殿の空気は静かに重たく沈んだ。

けれど、その隣でずっと黙っていた少年が、ふと震える拳を強く握りしめた。

ぽろりと、頬を伝って涙が一粒だけこぼれる。

それに気づかれまいとしたのか、少年は顔を背けるようにして、勢いよく部屋を飛び出してしまった。


だが――少年の行く先から聞こえたのは、諦めの逃避ではなく、決意の足音だった。

それを、サヴィアだけが確かに感じ取った。

彼女は静かに立ち上がると、まるでその姿が見えているかのように少年の後を追った。


「……あんた、目の見えない聖女様なんじゃ?」


気配に気づき、驚いたように立ち止まる少年の声には、困惑と戸惑いが滲んでいた。


「きこえるから」


サヴィアの声はいつも通り、抑揚は少ない。


「でも、ついてきちゃだめだ……危ないから」


その瞬間、彼が袖で涙を拭った気配が、衣擦れの音となってサヴィアの耳に届く。


「……諦めてないんだよね。なにかあるの?」


押しつけがましさのないその言葉に、少年はしばらく黙ったまま立ち尽くしていた。

やがて、ぽつりと、まるで自分自身に言い聞かせるように呟く。


「あの崖の下はここより早くあったかくなるって前に、おばあちゃんが言ってた……。だから、ここより早く草が生えて花が咲くって。でも、誰も行っちゃだめって言うんだ。危ないって……」


その崖の深さをサヴィアは目にしてはいない。

けれど、そこに流れる風の音から、その深さと危険を推し量ることができていた。

もし彼女の目が見えていたなら、それは“崖”というより“絶壁”と呼ぶべきものだと感じただろう。


「なら、私が一緒に行く。崖の手前まででいい。案内して」


少年ははっとして、サヴィアの顔を見つめる。

彼女の白い瞳は、その表情の変化を捉えていないはずなのに、まるで全てを見通しているようだった。


「……ほんとに? でも……」


少年の声は小さく揺れた。そこには不安もあったが、なにより、聖女を危険な場所へ導いてしまうことへのためらいがあった。


「だいじょうぶ」


サヴィアがそう言った瞬間――ふいに、風が強く吹き抜けた。

その中から、ひとつの影が現れる。

背の高い騎士のような姿をしたノトスが、いつの間にか彼女の傍らに立っていた。

何も語らず、ただ頷く。

少年は息を飲んだ。

大精霊を目の当たりにするのは、彼にとってこれが初めてだった。

けれど、不思議と恐怖はなかった。ただ、胸の奥に灯る希望のようなものが、そっと彼の背を押した。

少年はサヴィアの手を引き、誰にも見つからぬよう裏通りを走った。


風の強い青空の下、やがてふたりは崖の縁に立つ。

そこは、白銀の布が広がる中にぽっかりと開いた奈落のような裂け目だった。

足場も定かでなく、どこまでが地面で、どこからが空虚なのかすら曖昧な、危険な場所。


「ほんとうに……聖女様も行くのか?」


少年の声音は、今度は確かに震えていた。

だがそれは、自分の命ではなく、彼女を案じてのものだった。

サヴィアは何も答えず、小さく頷く。

ノトスはそれに応えるように静かに歩み出れば、左手にサヴィアを、右手に少年を抱え――

風と共に、鹿のように軽やかに跳ねるように崖の中へと舞い降りていく。


「……すげぇ……」


少年が小さく漏らした言葉に、ノトスがふっと微笑んだような気がした。


やがて辿り着いた崖の底。

そこは確かに山の上よりもいくぶんか温かく、肌を撫でる空気には春の気配が宿っていた。

岩壁の割れ目から射し込む一筋の光がサヴィアの頬をほのかに照らし、ひやりとした風の中に不思議なぬくもりをもたらしていた。


少年は迷うことなく膝をつき、凍てつく土を這うようにして薬草を探し始める。

その小さな手は、土に触れる指先にかすかな芽吹きの感触を求めて、ひたむきに動いていた。


そのとき――

サヴィアの耳に、かすかな気配が忍び込んだ。

風の流れに紛れ、とても遠く、深い場所から語りかけるような声がする。


【……許してくれ……】

【……我は……】


それは声とも言い難い。風に乗って届いた、怨嗟とも懺悔ともつかぬ、痛みと嘆きの入り混じった響きだった。

サヴィアは無意識に胸元を押さえる。

その声が、自分の内のどこか深くにまで触れてくるような錯覚があった。

だが、次の瞬間にはそれは風に溶けるように掻き消え、辺りにはただ静寂が戻っていた。


「……ノトス……いまのは……」


彼女がそっと名を呼ぶと、そばにいた風の精霊は一歩、彼女の傍ににじり寄る。

答えはない。

けれど、空気が静かにざわめき、風の流れがわずかに揺らいだ。

まるで、“まだ何かが眠っている”と、そう告げるかのように。


そのとき、少年の小さな声が響いた。


「……あった……!」


彼の指先が触れたのは、岩の隙間からわずかに芽を伸ばしていた若葉だった。

それは確かな命の力を内に秘め、凛とした緑の色を湛えていた。

少年はその芽を、壊さぬようにそっと摘み取る。

その動作には、母の命を預ける覚悟と祈りが込められていた。


「帰ろう」


サヴィアが頷くと、ノトスがふたたび風を巻き起こす。

三人を包むようにして浮かび上がる風の力は、先ほどよりもやさしく、温かかった。

まるでその芽吹きを讃え、守るかのように。


崖の上に戻ると、彼らは再び神殿へと駆けていく。

息を切らしながら駆け戻るその足音を聞きつけて、エレンが扉を開けた。


「どちらにいらしていたのですか!」

その声には、どこか問い詰めるような響きがあった。

けれど、次の瞬間、サヴィアが少年の手元を指さす。


「……これを。はやく」


言葉少なに告げたその声は、はっきりと焦りと希望を伝えていた。

それを見た老人が目を見開き、叫んだ。


「まさか、生えていたのですか――!」

「これがそうなのですね、ではすぐに煎じます」


エレンは事情を聴くよりも先にすぐに作業に入った。

彼女の手際は素早かった。

薬草を手に取ると、すぐさま湯を沸かし、煎じ始める。

やがて、白く柔らかな湯気が椀から立ちのぼり、その香りがふわりと神殿の空気を満たしていく。


老聖女が、丁寧にその椀を病の女の唇へと運ぶ。

女は苦しげに眉をひそめたが、少しずつ、けれど確かに息が整っていった。


母親の目が薄く開くと、息子の姿をみて安心したように口元をほころばせた。

その場にいた者たちが、誰ともなく小さく息をつく。

まだ安心はできない。けれど、確かに命の火は灯り続けていた。


サヴィアは、母の傍に座る少年の隣で静かに立っていた。

少年の小さな手は、母の手をしっかりと握ったまま離れない。

その手に、子どもとは思えないほどの決意と温もりが宿っていた。


「ありがとう……」

ぽつりと、少年が言った。

そこには、確かな感謝とひとすじの希望があった。


「……別に」


サヴィアは短く返した。

それはいつも通り、そっけない口調だった。

けれどその頬には、ほんのりと、冬の日差しのような照れくささが滲んで、サヴィアはそっと目を伏せる。

見えぬその目に、確かに映るものがあった。

小さな命が救われたその場所で、ひとつの希望の灯が、静かに、確かに燃えはじめていた。

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