17.この街を愛する理由
魔力注入の儀は、三日にわたり行われた。
聖女たちの手から注がれた魔力がひび割れたオベリスクに届くと、しばらく何の反応もなかった石柱がふいに微かに空気を震えわせた。
ひび割れていた表面が、まるで再び息を吹き返すかのように光を帯び、やがて内側から淡く輝き始める。
山の静寂を破ることなく、ただ確かに──命の火が灯るような光。
その光に、老聖女は静かに手を合わせ、涙を拭った。
けれど、同時に彼女は言った。
「この輝きも、数か月が限度でしょう。けれど……この光が、人々に春を信じさせてくれるのです」
それでも十分だと、ネージュは思った。
絶望の中にひとすじの光があることは、息をする理由になる。生き抜こうとする力になるのだ。
それからというもの、祈りの合間に聖女たちは街を歩き、人々の中に身を置いた。
初めこそ、人々は遠巻きに彼女たちを見つめていた。
聖女たちの姿を目にした老若男女は、一様にひざまずき、まるで神像に祈るかのような視線を向けた。
声をかけることも、近づくことさえためらうように。
けれど、日を重ねるうちに──彼女たちが「祈りの対象」でなく、「ここで共に生きようとする者」であることが、少しずつ伝わっていった。
ある日。
市場の片隅で、ネージュは手を冷やしながら、年老いた女性の手元を見つめていた。
その手は素早く、迷いなく蔓を編んでゆく。指の動きは、まるで長年使い慣れた道具のようだった。
「……それ、どうしてこんなにしっかりしてるんですか?」
ネージュの問いに、編んでいた老婆がちらと目を上げた。
「手が覚えとるからじゃよ。あんた、やってみなさいな」
「えっ、いいんですか?」
「教えるよか、手ぇ動かした方が早い。ほれ、ここ持って」
おそるおそる蔓を手に取るネージュ。けれど、不器用に絡まるそれを見て、老婆はくすりと笑った。
「聖女様でも、不器用なもんじゃな」
「う……そう言わないでください。編み物はそこそこできるんですけど……」
「ほほ、ならそのうち籠も上手になる。続けなさい。笑わんから」
やがて、周囲の商人たちも会話に加わるようになり、いつしか笑い声が市場に響いていた。
一方、町はずれではレイラが、男たちとともに雪崩れで崩れた道を掘り起こしていた。
いつもの作業着である分厚い木綿のローブ姿に最初は戸惑った男たちだったが
レイラがその魔力で岩を動かし、埋もれた道の姿を露わにしていくと歓声を上げた。
「これなら今年は早くに荷籠を麓まで下ろせるぞ !」
「まさかこんな綺麗な聖女様が汚れ仕事をするなんてと思ったが、うちの若い衆の誰より力があるな !」
綺麗な聖女様、そう言われたレイラだったがその時の彼女はその言葉を気にすることはなかった。
岩を除けた先に見える麓の町を、共に働いた彼らと嬉しそうに眺めていた。
そんな風に街での時間を過ごしていたある夜のこと。
神殿の奥、暖炉の淡い火が揺れる静かな部屋で、ネージュたちは老聖女と肩を寄せ合うようにして言葉を交わしていた。
窓の外では風が木々の梢を優しく撫で、雪が音もなく降り積もっていく。火のはぜる音が、ぽん、と小さく響いた。
「こんなに不便で、なにもない所ですが……」
老聖女はカップ両手で包みながら、ぽつりと呟いた。
「それでも皆、この街を愛しているのです。寒さも、風も、すべて抱いて生きてきたのです」
「ええ。まだ数日しかいませんが……とても良い所だと思います」
ネージュも湯気の立つカップを手にしながら笑った。
「空気が澄んでいて、夜の静けさが心に沁みるようで」
「……そう言っていただけて、嬉しいです」
老聖女は目を細めて微笑んだ。その笑みには、懐かしさとほのかな誇りがにじんでいた。
「私の母は、若いころこの神殿で聖女をしておりました。でもある日、大けがを負ってしまって……山を下りることになり、戻ることは叶いませんでした。それでも母は、いつも言っていたのです。アーフェンの空と山が、どれほど恋しいかと。……冬の風の匂いさえ、懐かしいと」
「……その気持ち、わかる気がします」
レイラがぽつりと言葉を挟んだ。
「この空の下にいると、何もなくても、心が澄んでくるような気がして……」
エレンが静かに老聖女を見つめ、尋ねた。
「では、あなたは……その後、この地に戻られたのですか?」
老聖女はゆっくりと首を振った。
「いえ。私は麓の街で生まれました。母は、アーフェンの聖女でしたが……怪我で山に戻れないと知った時、自らその務めを降りたのです。そして、神に祈る日々を離れて、ひとりの女性として生きる道を選びました。結婚して……私を産んだのです」
「……それは、とても大きな決断だったのですね。聖女であることを辞めるなんて、簡単なことではなかったはずです」
ネージュが、そっと言葉を添えると、老聖女はゆるく頷いた。
「ええ。母もきっと苦しかったと思います。でも……私には、祈りを捨てたようには見えませんでした。むしろ、あの人の祈りは私に託されたのだと思うのです」
その言葉に、部屋の空気がふと静まり返る。
「母はそのときの古傷がもとで、若くしてこの世を去りました。残された私は……苦労の連続でしたけれど、なぜか自然と神を想う心は消えませんでした。そうして……気づけば私もまた、聖女の道を選んでいたのです」
「……それは、母上様の祈りの形だったのかもしれませんね」
エレンが、薪をくべながらそう呟く。
「ええ……だからこそ、私はアーフェンの神殿に勤めることを望んだのです。母が何よりも恋しがっていたこの街が、どんな場所だったのか……知りたくて。知って、触れて、見てみたかった」
満ち足りたように老聖女が目を伏せた。
「そして今では──この街こそが、私の故郷だと思っています。生まれ育った土地以上に、ここには母の面影と私の祈りが根づいている気がするのです」
老聖女の声は穏やかで、言葉のひとつひとつが焚き火のように胸をあたためた。
「……素敵だとおもう」
サヴィアがぽつんと、けれど確かに言った。
その目は相変わらず伏せられていたが、かすかに揺れる睫毛の奥には、何かが静かに震えていた。
焚き火の明かりに照らされた老聖女の横顔は、雪に覆われた山を見つめるように静かで、揺るぎなかった。
その瞳には、街そのものを慈しみ、まるでわが子を見守るような深い優しさが宿っていた。
誰もが言葉を忘れたまま、ただその眼差しに、胸の奥がじんわりと満たされていくのを感じていた。
そのとき、風が窓をかすかに叩いた。
まるで亡き母の記憶が、山の風とともに舞い戻ってきたかのように──。




