16.峻嶺のアーフェン
聖女一行は、切り立った峰々に囲まれた山岳地帯をゆっくりと進んでいた。
雪解けの季節。山肌をつたう冷たい水が小さな流れとなって谷を刻み、その音が静けさを彩る。風は頬を切るように冷たく、言葉を交わす声すら吹き消していく。
足元は大小の石がごろごろと転がり、わずかな油断が命取りになるような急勾配。だが、それでも誰一人として足を止めなかった。
エレンは白髪を揺らしながらも、しっかりと前を見据え一歩一歩を確かに踏みしめる。その背には齢を重ねてもなお消えぬ聖女としての誇りが滲んでいた。
盲目のサヴィアはノトスに手を取られ、時にそっと背負われながらも、泣き言一つもらさず歩き続けていた。あの小さな身体が、何よりも強く、真っ直ぐに見えた。
この旅路の先にまだ知らぬ祈りの地がある。誰かが待っている。その思いだけが、前へ前へとに彼女たちを導いていた。
レイラはフードを深く被り、口数少なく歩を進めていたが、時折小さな声で仲間に気を配る。その声に応えるようにネージュも歩調を合わせ、シュウは護衛の者たちと共に絶えず周囲を見渡し、仲間を守る構えを崩さなかった。
「……この旅が修行だと思えば、少しは気も紛れますわ」
冗談めかしたレイラの言葉に、誰かが微かに笑った。
「神様は結構、厳しいのね」
ネージュの声は、風の中でやわらかく響いた。たとえそれが一瞬のものだったとしても、その笑いは確かにこの空気にぬくもりを与えていた。
頼りにしていたラマたちは岩場でも静かに足を進め、旅の道連れとして無言の励ましをくれた。重い荷を背にしながらも、その瞳には一度も弱音が映らない。
斜面の片隅に咲く小さな花、岩陰にひっそりとたたずむ青紫の花弁。高山に生きるその強さと健気さに、ネージュはふと足を止めて見入った。
眼下に広がる雲海は、まるでこの世の果てのように白くたなびき、太陽の光を浴びた雪の稜線が天に手を伸ばすかのように輝いていた。
風が木々の隙間をすり抜け、谷底からは微かに鳥のさえずりが届く。足元は過酷でありながら、目に映る景色は言葉を失うほどに美しい。そんな、矛盾する自然の荘厳さに満ちた道だった。
老いたエレンを気遣いながら、仲間たちは互いに手を差し伸べ合った。ときに肩を貸し、ときに水を分け合い、疲れを癒す言葉をかけあう姿は、まるでひとつの家族のようだった。
普段はほとんど口を開かないサヴィアもまた、ノトスの導きにより一歩ずつ歩を進めていた。その足取りは静かで、まるで風と語らうようだった。誰よりも山に馴染み、山の気配に耳を澄ませているようにさえ見えた。
そして、標高が上がり、息が白くなり始めたころ――
サヴィアが、ふいに手をかざした。彼女のまわりの空気がかすかに揺れ、風がそっと吹いた。
その風は一行のまわりにやわらかく流れ、息苦しさを薄らげていく。
それがサヴィアの意思によるものだと、皆が気づいていた。
風の精霊ノトスと彼女自身が、少しずつこの旅の中で心をひらいていっている――その優しさに、胸を打たれずにはいられなかった。
「ありがとう、サヴィア、ノトス」
「……別に」
小さく呟くサヴィアはどこか照れているようにも見えた。
そしてようやく──。
目の前に、山の上に築かれたアーフェンの街が姿を現した。
断崖の上、雲の影を背負うようにしてひっそりと佇む街。
山肌に張りつくように建てられた家々は岩と木で組まれた堅牢な造り。風雪に耐えるため、どの屋根にも分厚い雪よけがかけられ、王都のきらびやかな装飾とは対照的に、ここには華やかさも、柔らかな賑わいもなかった。
「……思ったよりも、静かな街ね」
ネージュの言葉に、エレンがわずかに頷いた。
「ここの人々は、自然と神に祈りを捧げて生きてきたの。派手さはなくても、深く根を張っているのよ」
街の入り口には堅牢な石造りの検問所が構えられていた。外からの訪れを拒むかのようにその門はどこか威圧的で、無言のまま外界を遮っていた。
聖女たちの御幸という事で手続きは簡略だったが、それでも門をくぐる瞬間には誰もが言いようのない圧を感じた。
門の内側に広がる道もまた沈黙に包まれていた。
市場のざわめきも、子どもの声もない。まるで時間そのものが、この街だけを避けて通り過ぎているかのようだった。
だが――町の中心の広場。深い静寂の中に大勢の人々がいた。
広場に集ったアーフェンの住民たちは、声をあげることも、手を振ることもなかった。彼らはただ、ひとつの動作だけを捧げていた。
膝をつき、額を石畳につけ、深く、深く祈る姿。
風が一瞬、静止する。
聖女たちの足音だけが厳かな空気の中、古い石畳に響いた。
「……これが、アーフェンの信仰」
レイラが呟いたその声すら、祈りに吸い込まれていくようだった。
それは、飾りや儀礼のための信仰ではなかった。
この街の人々にとって祈りとは、寒さに耐えるための焚き火であり、凍った土を耕すための力だった。
生活のすべてに染み込んだ祈り。声高に掲げるのではなく、静かに、しかし激しく――神にすがるしかないこの地だからこそ生まれた、血のように熱い信仰心だった。
その光景に、ネージュは思わず言葉を失う。
ただ胸の奥に、静かな熱が灯るのを感じた。それはまだ名もない想い。けれど確かに、彼女の歩みに火を灯すものだった。
やがて一行は、祈りに包まれた空気の中を抜けて、街の中心に聳える古い神殿の門へ向かった。
神殿の門をくぐった瞬間、空気が一段とひんやりと澄み、風の音すらも遠くなる。
静寂の中、石造りの階段の上に、ひとりの老聖女が立っていた。エレンよりもさらに年嵩の、腰の曲がった女性だった。
けれど、そのまなざしには長い年月を越えてきた者だけが持つ、深く静かな光が宿っていた。顔には無数の皺が刻まれていたが、それらはすべてが「祈り」の歳月を物語っていた。
そしてその目元には、厳しい地に生きる者だけが持つ、温かく包むような優しさがにじんでいた。
「お待ちしておりました。お疲れでございましょう」
その声は細くも穏やかで、冷えた空気の中にやわらかく溶けていく。
「どうぞ、まずはお身体を温めてくださいな。温かいものをご用意いたしましたから」
まるで、ようやく帰ってきた孫を迎えるようなそんな深い愛情を感じさせた。
案内された神殿の一室に、ほのかに漂う甘い香り。
石造りの重厚な室内にもかかわらず、その空間だけが不思議とほっとする温もりを持っている。
卓上には湯気の立つホットミルクと、ふかふかとした蒸しパンが並べられていた。
「……いただきます」
ネージュがそのひとつを手に取って口に運ぶと、素朴な甘さが冷えた身体にじんわりと染み渡る。
ささやかなもてなしの中に、この地の人々の真心が込められていた。
老聖女はゆっくりと座し、やがて語り始めた。
その声は時折、途切れるように小さくなるが、一言一言が胸に残る。
「この地の聖女は……ずっと、私ひとりでした」
彼女の目が、どこか遠くを見るように細められる。
「まさか、大聖女様がこのような奥地まで来てくださる日がこようとは……。母がまだ生きていれば、涙を流して喜んだことでしょう」
老聖女の声ににじむのは、感動よりもむしろ切実な思いだった。
「ですが、オベリスクの枯渇が、あまりにも早く進んでしまって。もう、この街にはほとんど魔力が届かないのです」
ふぅ、と深いため息が静かに吐き出される。
「もう今年の冬は、越せぬかもしれない。そう思うほどに、状況は厳しくなっております。この街を諦め山を下りるかどうかの決断を下すなら夏まででしょうか。
けれど私も含め、それでもこのアーフェンから離れたくないと……この街と生涯を共にしたいと願うものがいるのです」
その言葉に、ネージュは息を詰まらせた。
この厳しい地で、信仰と共に静かに生きる人々。
その命が、風のように消えようとしている――その現実が、胸に重くのしかかる。
「……私たちは」
ネージュがそっと口を開いた。その瞳には、揺るがぬ決意が灯っている。
「オベリスクに魔力を注ぎ、この街が少しでも長く冬を越えられるよう、力を尽くします」
エレンが穏やかに頷く。レイラも、そっと手を胸元にあてて眼差しを強めた。
サヴィアも無言でうなずき、その背後でノトスの風が静かに吹いた。
彼女たちの想いは、ひとつに結ばれていた。
「魔力を注ぐといっても、簡単なことではないわ」
エレンが慎重に言葉を続ける。
「オベリスクを再び目覚めさせるには、私たちの力だけでは届かないかもしれない」
「それでもやってみます」
ネージュの声はまっすぐだった。
「少しでも……少しでも、できる方法を探します。魔力を注ぎ、そして、魔力に頼らない道も見つけたい。命を繋ぐ道を、ここで見つけたいんです」
老聖女の目が、ふと潤んだように見えた。
やがて、静かに頷き、微笑む。
「……そう言ってくださるだけで、ありがたい。この地に届く魔力が途絶えても、人々の祈りは尽きておりません。どうか、希望を……」
彼女は静かに深々と頭を垂れた。
「オベリスクは、この地の命そのもの。あなた方が命を繋ぐ術を見出そうとするのなら……私もできるかぎりの事をするまでです」
その言葉に、ネージュたちは目を見合わせた。
この閉ざされた地で、まだ絶えることなく燃えている灯火のような信仰。
それを守り、未来に繋げるために――彼女たちはここに来たのだ。
彼女たちはしばらくアーフェンで滞在することに決めた。冬が越せる程の魔力を貯められるのか、それとも別の道を探すのかそれを見出すために。
氷のような風の中で、仲間と知恵を出し合い、試し、動き、祈る日々が始まる。




