15.聖女の天啓
深夜、星は高く、窓の外に沈黙が降りていた。
それでもエレンとネージュは話し合いをやめなかった。蝋燭の灯が、ふたりの横顔を静かに照らしている。
異なる文化、異なる時代。
だが、ネージュの前世の記憶は、この荒れ果てた国を再び立たせるかもしれない。
エレンは自らの記憶と照らし合わせながら、ネージュの言葉を一つひとつ確かめるように受け取っていった。
「あの国には、確かにかつて豊かさがあった。けれど、あまりに多くを魔力に頼りすぎた……」
繰り返される問いと応答。
ふたりの声だけが、深まる夜に小さく溶けていく。
やがて夜明けが近づき、窓の外に薄い光が差し始めたころ、ようやくふたりは一つの結論に至る。
「いくつかの知識を――明かしましょう」
ただし、それが“前世の記憶”だとは明かせない。あまりに突飛で、受け入れられない可能性がある。
「これは……聖女が受けた“天啓”ということにしておきましょう」
エレンの声は静かだったが、迷いはなかった。
その言葉にネージュが目を伏せると、ふたりの間に言葉以上の理解が静かに生まれていた。
翌朝、会議室には昨日とは違う空気が流れていた。
夜通し話し合ったふたりの眼差しは鋭く、だがどこか希望を帯びている。
「……希少価値のあるものを作るんです」
ネージュの言葉に、その場の空気が一瞬止まる。
ノアが椅子に寄りかかりながら、目を細めた。
「なるほど。魔力風車に依存しない方向を模索するわけか」
「でも、それには時間がかかるわ」
レイラが不安げにに呟いた。
「ええ、だからこそ、まずは“被害を抑える手段”が必要なのです」
エレンが言い、ゆっくりと視線をシュウに向けた。
「土地の魔力を制御できるかしら?」
問いかけに、シュウは悔しげに唇を噛む。
「いまは無理だ。風車の術が強すぎて、あの国の魔力の流れを完全に遮断するか、吸い取られるかのどちらかしか……。緩やかに流れを調整する手段がないんだ」
「でも、あの風車を放棄させることができるなら…」
その可能性を、ルシアンがまっすぐに見据えたまま言葉にした。
その場に短い沈黙が落ちる。だが、ネージュは構わず言葉を続けた。
「それと、産業について具体的な提案があります。一つは……保存食の製造技術。缶詰です。金属製の容器に食品を密封して加熱することで、長期保存が可能になります」
皆が息を飲む。
「今ある瓶詰よりも軽く、壊れにくく、流通にも適しています。グラーケンの優れた鍛冶職人なら容器や器具の製作も可能でしょう。そして彼らの雇用にもつながる」
エレンがネージュの言葉に続けた。
ノアが思わず口を挟む。
「いったい、そんな知識をどこで……?」
「……大聖女は、ときに天啓のように、時も地も越えた幻を目にするのです」
エレンの声音は変わらず穏やかだったが、その言葉には確かな重みがあった。
感嘆と尊敬の混ざった空気が、会議室を包む。
「ただ、私が見たのは“完成された姿”だけでした。製法そのものは不明です」
「ならば、研究者に伝えて研究を始めればいい。十分に価値のある情報だ」
ルシアンの目が、興奮を抑えたように輝いていた。
ネージュは頷き、紙を取り出した。
「それと、服飾分野にも提案があります。これはすぐにでも取り掛かれます。港で殿下が流行の服について語っておられましたが――より繊細で美しい装飾を加えることで、大きな価値が生まれます」
「たとえば?」
「レースという飾りです。糸を極細のかぎ針で編んで模様を作ります。綿でも麻でも絹でも構いません。魔力が不要なので、どんな場所でも製作できます」
話しながらネージュが紙に描いていく模様は、まるで雪の結晶のように美しかった。
細やかで、複雑で、けれどどこか優しい。
「材料が少なくても高値がつく。年配の方でも取り組める。女性の収入源として普及すれば、男尊女卑の意識にも揺らぎが生じるかもしれません」
エレンの声には、確かな熱がこもっていた。
「本当にできるなら貴族たちが競い合って買い付けることは間違いない」
「これなら、すぐにでも王宮の裁縫師に試作させられるだろう」
ノアが興奮の声をあげ、ルシアンがネージュの描いた紙を手に取る。
その指先が、まるで宝物に触れるかのように、慎重に模様をなぞった。
「私たちが持つ知識やグラーケンの民の技術を生かせば、魔力に頼らずとも未来は拓けます」
エレンが静かに言ったとき、そこにいた誰もがもはやそれをただの理想とは思わなかった。
「ならばこれを、すぐに国に持ち帰ろう。そして、グラーケンとの交渉の道を切り開くんだ」
ルシアンの言葉は決意に満ちていた。
「絶対に、無駄にはしない」
そう言って彼は、ネージュの描いたレースの紙を胸元に大切そうに収めた。
その日、ルシアンは決意を固めた。
グラーケンとの交渉の道を拓くために、一度、自国へ戻る。
ネージュとしばらく離れるのが寂しくとも、それ以上に――今、自分がすべきことを果たすべきだと彼は強く思ったから。
彼女が差し出した希望を、確かな現実に変える。それがネージュの力になるのだと、そう信じての決断だった。
旅立ちを翌朝に控えた夕刻、ルシアンはネージュを神殿の庭に誘った。
「ありがとう、昨夜はずいぶん遅くまで缶詰とレース編みについて書いてくれたんだよね。この資料で、きっと作って見せる」
「私にできる事はそのくらいですから」
石畳に落ちる木洩れ陽は柔らかく、どこか別れを惜しむかのようにふたりの足元に影を揺らしていた。
小さな噴水の前に立つと、ルシアンは懐から小さな箱を取り出した。
「これを君に受け取ってほしい」
箱の中には、ルビーの飾りがあしらわれた金のネックレスが入っていた。陽の光を受けて、深紅の宝石が炎のようにきらめく。
ネージュは驚きに目を見開き、首を振った。
「こんな高価なもの、受け取れません……!」
その声には戸惑いと、どこか切なさが混ざっていた。
けれどルシアンは、優しい眼差しのまま、決して譲らなかった。
「これは礼だ。君から受け取った知識の価値は、それ以上だ。対価を払わないという無礼は、私にはできない」
静かな声だったが、決意のこもったその言葉に、ネージュは返す言葉を失った。
彼女は一瞬だけ視線を落とし、それから小さく頷いた。
「……ありがとうございます。大切にします」
ルシアンの指が、そっとネックレスを取り出し、ネージュの首にかけた。赤いルビーが、彼女の波打つ赤い髪と共鳴するように煌めく。
その様子を見つめていたルシアンが、ふと小さく笑った。
「君は、『綺麗だ』と言われるのが、あまり好きではないんだろう?」
ネージュは目を見開いたあと、少しだけ眉をひそめて、恥ずかしそうに目をそらす。
「ええ……」
「でも、それでも言わせてほしい」
彼はまっすぐにネージュを見つめた。
「君にこのルビーは、驚くほどよく似合っている。赤い髪に溶け合って……本当に、美しいよ」
その言葉は飾り気がなく、そしてどこまでも真っ直ぐだった。ネージュは一瞬言葉を失い、頬を僅かに赤く染めた。
何かを言いかけて、けれど結局何も言えず、ただ小さくうつむく。
ルシアンはそんな彼女の様子に気づきながら、声の調子を少しだけ和らげた。
「気に障ったなら謝る。でも、どうしても伝えたかったんだ」
ネージュが黙って首を横に振れば、揺れる赤髪の間で、ルビーが夕陽を受けてひときわ美しく輝いた。
「……ありがとうございます、殿下」
その声はかすかに震えていたが、しっかりと感謝が込められていた。
「必ず、もう一度戻ってくる。君が教えてくれた希望をこの手で形にして……もう一度君に会うために」
ネージュはその言葉に、胸の奥が温かくなるのを感じた。
いままで気づかぬふりをしていた思いが、静かに浮かび上がってくる。
――もう一度会いたい、そう感じていることを。
言葉にできない想いを抱えながらも、彼女はそっと微笑んだ。
「お待ちしています、ルシアン殿下」
夕暮れの光が、ふたりの姿を金色に染めていた。




