14.エレンの過去
「じゃあ、どうするんだ?」
沈黙を破るように、ルシアン皇太子が険しい表情で問いかけた。
「グラーケン王国に直接、交渉するのか?」
「それができるならいいけれど……」
エレンが悔しげに眉を寄せる。
その表情には、ただの政治的障壁ではない、もっと深い苦悩がにじんでいた。
「私たちだけでは、国同士の問題には踏み込めないわ」
「なら――まずは確かめるしかないな」
皇太子の瞳に、強い決意が宿る。
「このまま、グラーケン王国に向かおう」
その言葉に、場の空気が一瞬揺れた。誰もが顔を見合わせ、思いを巡らす。
本当に行くのか――敵か味方かも分からない国へ。だが、放っておくことはできなかった。
「……私も行きます」
ネージュが小さく、しかしはっきりと声をあげた。
魔力が奪われているのなら、それを止めなければならない。
精霊たちを、この国を救うために――と。
だが、そのとき。
エレンが静かに、けれどはっきりと首を振った。
「……それはできません」
その声には、強い拒絶と、深い悲しみが混じっていた。予想外の言葉に、空気が一気に張り詰める。
全員が戸惑いの視線を向ける中で、エレンはそっと目を伏せた。
そして、長い沈黙のあと、静かに語り始める。
「私は……かつて、グラーケン王国の王女、エレーナでした」
その一言が、まるで氷の刃のように場を貫いた。
「七人兄弟の末っ子で、唯一の女。けれど、私はどの兄よりも優秀だった」
淡々とした口調だったが、その裏には噛み締めるような痛みがあった。
「それが、どれほど疎まれたか……お前たちには想像できる?」
その声はかすかに震えていた。
実の兄たち、そして腹違いの兄弟の母たち――
誰ひとりとして、幼いエレンを守る者はいなかった。
「私は命を狙われた。何度も、数え切れないほど」
重く沈む言葉に、皆が言葉を失う。
「父王は私の才能を利用しようとしただけ。私を道具として見てはいたけれど、守ろうとはしなかった。だから私は――逃げたのです」
しわだらけの手が、知らず震える拳を作る。言葉では抑えきれない感情が滲み出ていた。
「国を捨て、亡命をはかった。その道中で――」
彼女の視線がそっと、水の大精霊へと向けられる。
「……マーレと出会った」
マーレは何も言わず、ただエレンの背に寄り添い、その身体をやさしく包み込んでいた。
まるで、彼女の痛みを一言も語らず受け止めるかのように。
「グラーケン王国は、女の言葉を聞く国ではないわ。男尊女卑が根深く染みついた国。もし私が今さら戻れば……争いの火種にしかならない」
その唇が、苦しげに噛みしめられる。
「なぜ……今になっても、あの国は私を苦しめるの?」
問いかけは誰に向けられたものでもなかった。
それでも、その声の震えが、どれだけ深く傷ついてきたかを物語っていた。
マーレがそっと、エレンの肩に水のヴェールを重ねる。それは優しく、静かに、彼女を包み込む。
誰も言葉を発せなかった。
ただその背中を、影ひとつ落とさぬように――見守ることしかできなかった。
「ならば、あの国との戦を考えるしかない」
ルシアンの言葉にエレンが床に膝まづいた。
「エレン様、おやめください!」
あわてて周りの人間が彼女の身を冷たい石の床から起こす。
「我儘な事は百も承知です。けれど、私がグラーケンの王族に恨みを抱いていたとしても……国の人々には、何の罪もない。私は彼らを苦しめたくないのです」
その声は静かだったが、宿る熱は凛としていた。彼女は悔しげに拳を握りしめながら、言葉を継ぐ。
「私がこの国に逃げてきた頃、グラーケンにはまだ活気があった。魔力に頼らずとも、職人たちは手作業で美しい工芸品を生み出していました。細工物の精密さはどの国よりも優れていた。誇れる文化でした」
彼女のまなざしは遠く、けれど確かな愛情をたたえていた。
その言葉に、ネージュは目を伏せた。確かに、風車を壊せばこの国の魔力の供給は安定するかもしれない。
しかし、代償としてグラーケンの民は仕事を失い、飢えに苦しむことになるだろう。
レイラは、小さくうなずいた。
「……エレン様のおっしゃる通りです。ですが、現状を放っておけば、私たちの国がもたないのも事実ではありませんか。このままでは、どちらの国も共倒れになりかねませんわ」
誰もが口をつぐむ中、ネージュは考え込んでいた。
どうすれば、魔力に頼らずにグラーケンの人々が生きていけるのか。
どうすれば、この問題を「壊す」ことでなく、「救う」ことで解決できるのか。
――ふと、記憶の底に眠る何かが、静かに浮かび上がってきた。
前世の記憶。
魔力など存在しなかった世界でも、人々は暮らしていた。
そして、魔法を使わなくても、職人たちは美しい品々を作っていた。
そういったもので、高く価値のあるものを生み出せるなら……。
なかでもネージュの脳裏に強くよみがえったのは、かつて年上の女性に教えてもらった、繊細で美しい――レース編み。
(あれなら……あれなら、魔力に頼らずに価値を生み出せる)
複雑に絡み合う糸が、まるで芸術のように形を成していく。機械では真似できない、手作業ならではの美しさと温かさ。
この世界にはまだ存在しない技術だ。伝えることができれば、グラーケンの細工職人たちに新たな道を示せるかもしれない。
しかし、どうやってそれを「思い出した」と言えばいいのだろう?
前世の記憶があるなどと口にすれば、頭がおかしいと一蹴されることだろう。
けれど、可能性があるのならそれを伝えないことは誤りだとネージュは考えこんでいた。
迷いを抱えたまま、夜更け――
ネージュは一人、エレンのもとを訪れた。
静まり返った神殿の一室。月光が差し込む中、エレンは窓辺で静かに祈りを捧げていた。
ネージュの足音に気づくと、ふり返り、微笑む。
「眠れなかったのね、ネージュ」
「はい……少し、話したいことがあって」
ネージュは小さな声でそう答えた。
しばらく迷った末、彼女は意を決して口を開いた。
「私……前世の記憶があるんです。別の人生で見た、美しい布細工のことを思い出して……それが、今のグラーケンの助けになるかもしれないって。でも、どう言えばいいのかわからなくて……」
言葉が途切れる。エレンは目を見開き、やがて、静かにうなずいた。
「そう……あなたも、思い出していたのね」
「え?」
「私も別の人生の記憶を持っているの。私は先ほど兄たちの誰よりも優秀だった、そう語ったわね。あれは幼いころから別の人生の記憶があったが故です。女騎士として戦い続け、兵を率いた人生の記憶。女だからこそ誰よりも優秀でなければ生き延びられなかった日々の記憶が今度は私を命の危機にさらした、というわけです」
エレンは静かに視線を遠くへ向けた。
「大聖女とはね、そういう存在なのよ。前世でも何かに抗い、何かに打ちのめされ、それでも生まれ変わるほどの未練を残した者たち。だからこそ、精霊にすがり、力を得てこの世に戻ってくる」
その声は、まるで彼女自身に語りかけているようだった。
「……私たちは、前世でも虐げられた記憶を持つことが多いの。だからこそ、他者の痛みに寄り添うことができる。そして、また道を選ぶのよ。今度こそ、誰かを救い、そして自身を救うために。教えて。どんな些細な事でもヒントになるかもしれないのだから」
ネージュは、目を見開いてエレンを見つめた。
静かに、胸の奥に灯がともる。
夜風が、神殿の窓をかすかに揺らした。
二人の大聖女――それぞれの前世に抱えた傷が、ゆっくりと重なり合い、ひとつの祈りへと変わっていくようだった。




