10.旅立ち
ネージュの部屋は、夜の静寂に包まれていた。
柔らかな灯火が揺れる中、彼女は静かにベッドに腰掛け、今日の出来事を振り返る。
——あんなに楽しい一日を過ごしたのは、多分物心ついてからはじめてに近かった。
屋台の香ばしい匂い、活気に満ちた街の喧騒、レイラと並んで笑ったひととき。そして……
「綺麗だ」
ふいに脳裏に蘇った言葉に、ネージュはぎゅっと膝を抱えた。
——どうして、あんなことを言ったの?
ルシアン皇太子は、王族だ。嘘やお世辞を言うようには見えない。
けれど、自分の容姿が「醜い」ものであることは、彼女が一番よく知っている。
幼い頃から言われ続けてきた。赤い髪は下品だ、不吉な色のぎょろぎょろとした目だ、そばかすが汚らわしい、と。
「……戯れに決まってるわ」
かすれた声でつぶやく。
あの人が、自分のような女を「綺麗だ」と本心で思うはずがない。ましてや、レイラのような完璧な美を目の当たりにした後で——。
「ネージュ」
ふわり、と心を撫でるような優しい風が吹いた。
彼女が顔を上げるとそこにはシュウの姿があった。淡い光をまとわせた指先で、ネージュの髪を優しく梳いた。
彼の優しい夜のような髪、その眼差しの穏やかな琥珀色。
その全てがネージュの心を落ち着かせる。
「シュウ……」
精霊は彼女の隣に腰かけると、そっと額をつついた。
「また悪い方に考えているね」
「……だって、信じられないもの」
ネージュは俯く。
「私はこんなに醜いのに、綺麗なんて言葉……どう受け取ればいいのか、わからないの」
「わからないなら、そのまま受け取ればいいのに」
シュウは小さく笑った。
「言葉は、そのままの意味で信じた方が楽だよ。君は、ルシアンの言葉を疑いたいの?」
ネージュはすぐに答えられなかった。
疑いたいわけではない。ただ、信じることが怖い。もしも期待してしまって、また裏切られたら——
「……でもね、ネージュ」
シュウはそっと彼女の手を取り、小さく囁いた。
「たとえ、もしも悲しいことがあったとしても。僕がそばにいるよ。いつだって、ずっと」
ネージュの指にぬくもりが伝わる。
「だから、少しだけ勇気を出してみたらどうかな? 信じてみることも、悪くないよ」
「……シュウ」
ネージュはそっと目を閉じた。
——信じても、いいのかな。
今日、確かにあの人は言った。「綺麗だ」と。
それが嘘か本当か、今の彼女にはわからない。けれど——
「……うん、少しだけ」
小さく呟いた彼女の唇に、わずかな笑みが浮かぶ。
それを見て、シュウは満足そうに頷いた。
外では、静かな夜風がそっとカーテンを揺らしている。
ネージュはゆっくりと布団に入り、目を閉じた。胸の奥に、ほんの少しだけ温かな光を抱いて——。
翌朝。空気はひんやりとしていた。
夜明け前に鳴り響いた鐘の音は、聖女たちを呼び出すものだった。
ネージュは急ぎ身支度を整え、レイラとともに神殿へと向かう。すでに大聖女エレンとサヴィア、数名の神官たちが集まっていた。
中央に立つ大司祭エヴァンの表情はどこか険しい。
「皆、揃いましたね」
低く響く声に、場の空気が引き締まる。
「……最近、オベリスクの魔力の巡りが悪くなっているのは気づいていましたか?」
エレンの低く落ち着いた声が、神殿の奥にある小さな集会室に響いた。
エレンは長年水の大精霊と共に生きてきた大先輩であり、私たち聖女を導く存在でもある。
「魔力の巡りが……?」
レイラが静かに問い返す。
エレンはゆっくりと頷き、手元の石板に記された記録を指し示した。
「ここ数週間、オベリスクへの祈りを捧げても魔力が広がる気配がなく、むしろ、吸いこまれるような状態になっていました。そして今朝、この神殿のオベリスクにひびが入りました」
「そんな……。」
オベリスクは、大地から魔力を汲み上げ、聖女の祈りによって精霊たちへと循環させる神殿の要とも言える存在。
しかし、その魔力が巡らなければ、精霊たちの力も衰え、やがては彼らの存在自体が弱まってしまう。
「水の大精霊も、少しずつ弱っていると感じているらしい。だからこそ、精霊たちの調子が悪くなる前に何とかしなくてはなりません」
「でも、どうして……? オベリスクは今までずっと変わらずに魔力を巡らせていたのに」
ネージュは思わず呟いた。
「……ネージュさんとレイラさんは魔力が豊富だからこそ、気づきずらかったのかもしれませんね」
「確かに、ネージュたち以外の祈りでは妖精が現れることは稀になっていたな」
シュウが呟き、部屋の中に緊張が走る。
聖女の務めは、祈りを捧げ、精霊たちと共に人々の助けとなること。
けれど、その祈りが届かなくなったとしたら——?
「……どうすればいいのでしょうか。」
レイラが問いかけると、エレンは私たち一人ひとりを見渡し、静かに言った。
「まずは、この異変がどこまで広がっているのかを確かめる必要があります。オベリスクはこの神殿だけでなく、各地に存在しますから。そのすべてが影響を受けているのかどうか……調べなくてはなりません」
「私たちに、それを?」
「ええ。調査も勿論ですが枯渇したオベリスクに一時的でも魔力を注がなければ事態は悪化することは目に見えています」
次いでエヴァンの声が響く。
「そこで、大聖女であるエレン様、サヴィア様、ネージュ様。そして聖女の中でも特に魔力の強いレイラ様に、オベリスク調査の旅へ出ていただくことになります」
「旅に……?」
「ですが、私とレイラは皇太子一行の案内役も務めております。それを放棄することに……」
「案内役は既に一通りの任務を終えておりますし、何より今はオベリスクの異変を解決することが優先です」
エヴァンは静かに、しかし力強く言葉を続けた。
「聖女である皆さまには、何よりも世界の均衡を守る使命があります。よろしいですね?」
問われ、ネージュは短く息をのむ。
自分の役目——それを考えれば、迷う理由などない。
「……はい。お受けいたします」
「私も、同行いたします」
レイラも即座に答えた。その目には、迷いはない。
サヴィアは不安げだったが、そっと風の大精霊が彼女の手を包み込む。
「……わたしも、行きます」
エレンが静かに微笑む。
「それでは、出発の準備を整えましょう。早ければ二日後には旅立ちとなります。」
エヴァンの言葉に、ネージュはそっと拳を握った。
オベリスクの異変。それを探る旅が今始まろうとしている。




