ちょっと待った!
「ちょっと待った!」
とうとうこの日がやって来てしまった。
ここ一週間まともに寝ることが出来なかったが、本番当日になってしまえば、あとはやるだけである。
今日は、俺の幼なじみの結婚式。
小学生のときから好きだった幼なじみの結婚式である。
彼女の結婚相手は両親が勝手に決めたボンボン。本人も良い人ではあるけれど……と戸惑った表情で俺に結婚の報告をしにきていた。
普通は盛大に祝ってやるはずだが、そうは問屋が卸さない。
親御さんやお相手さんには申し訳ないが、誓いのキスがなされる前に会場へと突入し、彼女の手を取って、颯爽と逃げてしまおうという魂胆である。漫画やドラマでよく見る「ちょっと待った!」をしようというわけだ。
このままでは取り返しのつかないことになってしまう。絶対に後悔はしたくない。
自分の人権が失われるかもしれないが、彼女の未来が守れるのなら安いものだ。
俺は身にまとった白いスーツの襟を正し、ネクタイをギュッと締めた。
「ふう」
軽く息を吐いて緊張をほぐす。
イメージトレーニングは何回もやった。扉を開けて、彼女の元へと走って行き、手を取って逃げる。ただそれだけ。
俺はパチンと自分の顔を一回叩き、意を決して式場の扉へと手をかけようと、一歩前へと前進した。
扉を勢いよく開けようとしたその瞬間、何かが自分の肩に当たる感触がした。
何とか扉を開けてしまわないように踏みとどまり、感触がした方をチラッと見やる。
するとそこには、一人の女性が立っていた。
純白のドレスを着た花嫁が。
俺は困惑した。
もしこの女性が目的の幼なじみであれば、迷わず連れて逃げていたのだが、生憎そうではなく、自分の記憶を隅々まで洗っても、この女性の顔は出てこなかった。
どうやら俺と同じように扉に手をかけていて、式場内に入ろうとしているように見える。
どこかで式を挙げる花嫁さんだろうか。
そんなことをぐるぐる考えていると、先に質問が飛んできた。
「どうされたんですか?」
どうされたか。
当然の疑問だろう。
結婚式が行なわれている会場に、花婿宛らの服装で単身乗り込もうとしているのだから。
ただ俺も全く同じ疑問をあなたに抱いているのだが。
「少し、ここに用事がありまして」
なんとなく自分がやろうとしていることをばらしてはいけないような気がして、俺はやんわりと答えた。
女性の頭には疑問符が浮かんでいる。
「こっちからも少し聞いても良いですか?」
俺も聞きたいことがあったので聞かせてもらうことにする。
「はい?」
「会場、間違えてませんか?」
三百六十度どの角度から見ても花嫁であるこの女性は、おそらくどこか別の会場で式を挙げる予定だったのだろう。普通に考えればそうにしか見えない。
「……いや、ここであってます……」
しかし女性は、俺の質問を聞いても、若干キョドってはいたものの大きく取り乱すことなくそう答えた。
「でも、ここって久保優佳さんと多田宏太さんの結婚式会場ですよね?」
「はい、そうだと思います」
そうだと思う?
この人はここが自分の式場ではないことを自覚しているらしい。
だとすればなぜこんな格好で式場内に入ろうとしているのか。
こんな状況は、ちょっと待ったをしようとしている俺しか、当てはまらないはずなんだが。
ということはつまり……。
「もしかしてちょっと待ったしようとしてます?」
「えっ、ええ!?」
ここで女性は大きく取り乱した。
目が完全に泳いでいて驚きを隠せていない。
間違いない。この女性はちょっと待ったをしようとしている。
ちょっと待ったをするなんていう日本語が通じるのは、ちょっと待ったをしようとしている人間だけである。
「あ、あの、その、これは、何というか……」
「大丈夫ですよ。落ち着いてください。別に止めたりしませんから」
女性は焦った顔をしていたが、俺の言葉をゆっくりと理解すると、今度は怪訝な表情に変わった。
「あの、もしかしてあなたも……」
「はい。僕もちょっと待ったをしに来ました」
「……そんな事ってあるんだ……」
女性は引きつったような神妙な面持ちでそう零した。
全く同じ感想を俺も抱いている。
まさか新郎新婦両者に対して、ちょっと待ったが施されようとしているとは夢にも思わなかった。
「……」
「……」
まず経験することがないであろう状況に、更にあり得ない状況が重なり、俺たちの間には気まずい沈黙が落ちる。
「あの、もし良かったらお先にどうぞ?」
「お先に、と言うと?」
「いや、あなたのちょっと待ったが終わるまで外で待ってますから」
まさかのちょっと待った譲り。
ちょっと待ったって、誰かが執行中の場合は割り込んではいけない的なマナーがあるのか?
ちょっと待ったを待つのか?
「別に二人で一気に突っ込めば良くないですか?」
もし俺であれば、ただでさえ勇気のいる行動なのに、新郎が連れ去られた後の、困惑で溢れかえった会場にちょっと待ったするのは心が折れそうで避けたい。
「そ、そうですよね。すみません……」
やはりちょっと待った界にそんなルールは無いらしく、女性は俺の提案えおすんなりと受け入れた。
まだこの状況にテンパっているのだろう。
無理もない。彼女も一世一代の決心でこの場に来ただろうに、こんな形で出鼻をくじかれるとは思わなかっただろう。
「あなたも諦めきれなかった感じですか?」
俺は自分も含めて女性の戸惑いを消すために、軽く雑談を始めた。
「はい、宏太とは小学校からの付き合いで」
「あ、僕も優佳とは小学生のときに出会いました」
「そうなんですか?」
女性の表情が少し和らぐ。
思っていたよりも俺と彼女との間には共通点が多いようだ。
「私、小学生の頃から宏太のこと好きだったんですけど、なかなか伝えられないままずるずると今日まで来ちゃって……」
「分かります。勝手にまだ大丈夫だって決めつけて、気づいたときにはもう遅くて……」
二人の間には再び沈黙が落ちる。
しかしこの沈黙は気まずさから来るものではなく、もう一度心に火を点し、意を決するためのものであった。
「まだ間に合いますよ、僕たち」
「はい、まだ私たちの手は届く」
俺は彼女の目を見て小さく頷く。
彼女もまた俺の目を見て、小さく頷いた。
「二人で一気に行きましょう。あなたとなら何とかなりそうな気がします」
「私もそう思います。絶対に成功させましょう」
俺とこの女性の間には、一種の仲間意識のようなものが芽生えていた。
この人がいてくれたおかげで、何だか吹っ切れたような気がする。
俺は優佳を。彼女は宏太さんを。
愛する人を返してもらうためのボーナスステージ。
後悔しないために、俺たちはこのチャンスを二人でものにする。
俺たちはアイコンタクトをとって、扉へともう一度手をかけ、力強く握りしめた。
二人同時に息を吐いた俺たちは、力を込め、ぶち壊す勢いで一気に扉を開けた。
「「ちょっと待っ……」」
思いがこもった全力のちょっと待ったを繰り出そうとした我々だが、目に入ってきた異様な光景に、途中で制止せざるを得なかった。
式場内の全員の注目を集めるはずの俺たちだったが、一つたりとも視線を感じない。
というのも、式場内はすっからかんで、人っ子一人いなかったのである。
「どういうことだ?」
俺の独り言が虚しく響き渡る。
女性の方を見ると、ポカンと口を開けて呆然としている。
「すいません、どうされました?」
すると後ろから、ここの従業員らしき人に声をかけられた。
「式場見学のお客様ですか? この時間は予約が入ってなかったはずなんですが……」
確かにこの服装を見れば、誰もが結婚式の体験に来た新婚夫婦に見えるだろう。
「いや、そういうわけではないんですけど。あの、すいません。一つ聞いてもいいですか?」
俺はとある考えが頭を過ぎりながら、その従業員の方に尋ねた。
「ここって、久保優佳さんと多田宏太さんの結婚式会場であってますよね?」
俺はまさかそんなことは無いだろうと頭では思いながらも、生唾をゴクリと飲み込む。
「いや、そちらの会場はB会場ですね。ここはD会場です」
驚きすぎて、二人の表情筋が一切動かなくなる。
ここが会場ではない。
確かに今思えば、扉の前に従業員や警備員の人が一人もいないのは不自然極まりない。
現実を受け入れられない我々であったが、従業員の一言が更に俺たちの体を貫いた。
「あと、開始は十二時からですよ? 今はもう十四時ですから、披露宴も終わりかけているかと……」
「……」
「……」
「お客様? 大丈夫ですか?」
俺と彼女の間に三度目の沈黙が落ちる。
目を数回パチクリした後、事態を把握した俺たちは、全力で外へと飛び出しながら、イメトレ通りの声量でこう言い放った。
「「ちょっと待った!」」