私の出待ちをするナンパ君が外堀を埋めてとうとう家に乗り込んできた
「お待たせ」
仕事を終え、会社を出たところで私よりも年下の男の子に声をかけられた。
顔に見覚えはない。初対面なはずなのに、そもそも私は待ってなどいないのに、その男の子はたしかに私に向けて「お待たせ」と言った。
差し出された一本の薔薇は、間違いなく私に向いていた。
「えっと……? 人違いでは?」
周囲を見渡してもやっぱり私しかいなくて、差し出された薔薇はそのままに戸惑いながら男の子に答えた。
目鼻立ちのくっきりとした、もしかしたらハーフかもしれない整った顔がきょとんとした。
「違わないよ?」
「いえ、違うと思いますけど……」
「覚えがない?」
「? な、ないです」
男の子は私に差し出したままだった薔薇を引っ込め、自らの口元に当てた。
花の添えられた考える素振りは嫌味なく綺麗で、私はつい見惚れてしまった。
その視線に気づいた男の子が、小首を傾げて微笑む。
「……うん、まぁいいや。僕はあなたに一目惚れしたんだ。デートしよ?」
は? と、声に出そうになった。
ただの人違いなら綺麗な子に間違われてちょっとラッキーくらいに思えたのに、途端にその子が軽いナンパ野郎になってしまった。
仕事の疲れも瞬く間に思い出し、私は言葉尻を強くして「けっこうです」とお断りした。
付きまとわれて面倒になる前に、足早にその場を離れた。
――が。
「お疲れさま。僕と付き合ってよ。デートしよ?」
そのナンパ君は次の日も現れた。
薔薇は手軽なボリュームの花束になるくらいに増えていて、私は厄介な子に目をつけられたと顔を引き攣らせた。
「付き合いません。他を当たって」
きっぱり言い捨てると、ナンパ君は「そ? じゃあまた明日来るね」と帰っていく。
そして、宣言通りに次の日も薔薇を持って私を待ち伏せているのだ。
「お疲れさま。僕の最愛の人。デートしよ?」
「さようなら」
はは、と笑ってまたナンパ君はあっさり帰っていく。口説き文句が熱烈なだけにそのギャップがひどい。
しつこいのかさっぱりしているのかわからない子だ。
「お疲れさま。今日のあなたも完璧な美しさだね。デートしよ?」
「早く帰ったら?」
はーい、とナンパ君。
薔薇もいつも通りにそのまま持ち帰る。
「お疲れさま。あなたのことが一秒たりとも僕の中から消えないよ。デートしよ?」
「もっと他のことに頭を使ったら?」
それが無理なんだよ、とナンパ君は帰っていく。
熱烈さとは裏腹に、薔薇の花束が少し寂しく見えた。
「お疲れさま。今日はちょっと落ち込んでるんだ。励ましてほしいから、デートしよ?」
「寝たら忘れるわよ」
じゃあ夢で会えたらいいね、とナンパ君。
手に持つ薔薇の花束はやっぱり寂しい。
「お疲れさま。夢で会えたあなたも変わらず素敵だったよ。デートしよ?」
「いつまで寝ぼけてるの?」
寝ぼけて会うあなたも魅力的、とナンパ君は薔薇を持ち直した。花束には変わりない、寂しい花束を。
「お疲れさま。あなたの全てを知り尽くしたいんだ。デートしよ?」
「教えることは何もないけど」
些細なことだっていいんだよ、とナンパ君は笑顔を崩さない。
薔薇は、とうとう目視で数がわかるほどになった。
「お疲れさま。あなたに出会えたことが最高の奇跡だよ。デートしよ?」
「私にとっては不幸の始まりだわ」
僕が幸せにしてあげる、と会話が噛み合わないナンパ君。
貧相な花束だけど、それでも私に差し出し続ける。
「お疲れさま。僕の気持ちは永遠に変わることはないよ。デートしよ?」
「私の気持ちも変わることはないのよ」
それは困るなぁ、と少しも困る素振りを見せないナンパ君。
差し出された、四本になってしまった薔薇を、私は指差した。
「ねぇ、本当にもうやめて。薔薇って高いんでしょう? あなたがどこに勤めててどれほどのお給料を貰ってるかなんて知らないけど、これは無駄遣い。私の気持ちは本当に変わらないの」
私はナンパ君のことを、ナンパしてくる若い不思議な子という程度の認識でしかない。
これまでのやり取りで悪意だけはなさそうなのはわかったけれど、だからこそ受け取る気のない花を毎日差し出され続けるのは苦痛になってしまった。
私の中に元々ある良心が、健気なナンパ君に対して申し訳なさを訴えていた。
ナンパ君は私の言葉を聞いて引っ込めた薔薇を見つめ、少し間をおいて「うん」と頷いた。
「あなたの気持ちが変わらないことはわかった」
「よかった、じゃあ」
「やり方を変えよう」
……諦めてくれるんじゃないの?
安堵しかけた私を見て、ナンパ君は不敵に笑ってみせた。その悪い笑顔にきゅんとしてしまう女の子はきっと少なくないだろう。
私はあっさり帰っていくナンパ君のしつこさにゾッとして、計り知れない企み事に戦々恐々としながら翌日を迎えることになった。
けれど、ナンパ君が現れることはなかった。
❇︎
あの日以降、ナンパ君は現れない。
「やり方を変えよう」とか言っていたけど、姿を見なくなってすでに一週間経っていた。忘れるには短く、気になってしまっては長い一週間だった。
その間に変わったことなんて特になく、仕事はいつも通りで会社もいつも通り。
住んでいる実家も何の変わりもなく、ただちょっとご近所のおばあちゃん界隈が賑わっているというだけで、本当に何もなかった。
ご近所のおばあちゃん界隈を賑わせているのがナンパして歩く若い男の子だなんて、働いている私が知る由もなかった。
休日の私はだいたい好きな時間まで寝て過ごす。
だけどこの日は昔の夢を見てしまい、懐かしくもありほろ苦い思い出に瞼を閉じても二度寝はできなかった。
学生時代の失恋の夢なんて、なんで今さら見たんだろう。
そういえばあの時の失恋、いつの間にかご近所に知れ渡っててすごく恥ずかしい思いをしたんだっけ。
集まったおばあちゃん達に「大丈夫よぉ」と優しく言われ、枯れていた涙がまた溢れ出して。
悲しさと恥ずかしさが入り混じって、けれど大先輩の女性たちに話を聞いてもらい、すっきりしたのも私の中では前を向くきっかけになった。
「大丈夫」と力強く押すのではなく、包み込んでくれる優しさに「大丈夫なんだ」と安心できた。
「薔薇を持って迎えにくる」なんて、そんな王子様みたいな励ましまで。
「……薔薇?」
ふと、浸っていた思考から抜け出す。なんで薔薇?
ここ最近で目にすることは多かったけれど、今思い出すには突飛で関連性がよくわからない。夢と現実が混ざってしまったんだろうか。
まだ寝ぼけてるのかなと、冷たいお茶を飲みたくなってようやく私はベッドから抜け出した。
階下はお昼前だというのに、リビングから賑わいの声が聞こえてきた。
共に暮らしている祖母がご近所の茶飲み友達を誘って歓談中らしい。
「――ねぇ、きよちゃんは……」
「……きよったら――」
「きよちゃんらしいわ――……」
きよちゃんとは、清香である私の愛称だ。おばあちゃん達ってば、一体なんの話をしてるの。
階段はリビングに直結しているため、仕方なしに私はそのまま降りていった。
昔から付き合いのあるご近所さんなので、簡単に挨拶だけして通り過ぎるつもりだった。
けれど――。
「…………なんでいるの?」
一週間見なくなった、見慣れてしまった姿がそこにあり私は呆然とした。
私に気づいた一人のご近所さんが「きよちゃん、おはよう」と声を掛けたのを皮切りに次々と視線が集まる。
もちろん、後ろ姿だったナンパ君の視線も。
「おはよう。久しぶりだね、清香さん」
いや、なんでうちにいるの?
私の警戒心を含んだ疑問は、口から出ることなくおばあちゃん達の黄色い声に埋もれてしまった。
「きよちゃんったら隅に置けないわねぇ」とか「お相手がいないから心配してたのよ〜」とか「やっとねぇ」とか。
妙齢の私にはぐさりと刺さることも容赦なしに言う。
私はその攻撃をかわしながらナンパ君に近寄った。
「何してるの? なんでうちにいるわけ?」
「寝起きの顔もかわいいね、清香さん」
「じゃなくてっ。君、なんなの?」
「誘われたんだよ」
「誘われた? 誰に?」
きゃあきゃあ騒ぎ続けるおばあちゃん達の一人が「私よ」と笑う。笑い事じゃない。
おばあちゃん達の話題はどんどん横に広がり、飛び交う話題に私は意味がわからなくなる。
「まさかこの歳でこんな綺麗な子にナンパされるなんて」
「いやねぇ、私もよ」
「私なんて喫茶店でお茶したのよ〜」
「まさかユウちゃんだったなんて」
「誰かと思ったわよねぇ」
「懐かしいわー」
「だから連れてきちゃったのよ」
連れてきちゃったのよ、じゃないのよ。
私はナンパ君に「ユウちゃん?」と尋ねると「僕、ユウちゃん」と返ってきた。
「ユウちゃんたら、本当に戻ってくるなんてね」
「おばあちゃん達びっくりよ〜」
「きよちゃんよかったわねぇ」
「立派な王子様になっちゃって」
「これが運命ってやつかしらね〜」
黄色い声は次第に落ち着き、しみじみほのぼのとあたたかな眼差しを送られる。
その送られる眼差しが私だけでなくナンパ君、もといユウちゃんも含まれていることに、私は若干焦りを覚えた。
こいつ、おばあちゃん達に何を吹き込んだ?
お願いだから誰か一から説明してほしい。
困り果てた私の視線に気づいた正真正銘の私のおばあちゃん、祖母がそこでようやく笑いを収めて首を傾げた。
「きよったら、変な顔して」
「全っ然、理解が追いついてないんだけど!」
「まぁ」
祖母は驚いた、とゆったりとした動作で目を丸くした。
隣のナンパ君は呑気にお茶を啜った。
「ユウちゃん、覚えてないの?」
「覚えてるってなに、いつの話なの?」
「いつって、きよが学生の時だから、えぇと……」
「十年くらい前かしらねぇ?」と、近所のおばあちゃん達が口々に言う。「そんなに経ったのね」「あの頃の私は……」とまた横に広がっていきそうな話を遮って、祖母は続きを口にした。
「一年くらいの短い間だったけど、近くに綺麗な白人さんが住んでたのも覚えてない? 旦那さんは日本の方で、その時はユウちゃんが小学生で」
「えぇ……白人さんて、外国の人もこの辺りじゃ珍しくないからなぁ……」
「そんなことじゃないわよ。ユウちゃんのお母さんが日本語がまったくダメで、ユウちゃんと一緒にうちに通ってたのよ」
「私達が日本語教えてあげたのよねぇ」「ユウちゃんのお母さん元気?」「えぇ、元気です。皆さんに会いたいって言ってましたよ」「生きてるうちに遊びにきてって伝えておいてね〜」
逸れつつある会話から必要な部分だけを聞き取った私は、なんだか呆れつつある祖母の顔を見ながら必死に思い出そうとしていた。
外人さんが我が家に通ってたらさすがに覚えてるはずじゃない? むしろ忘れるわけがなくない?? そもそも認識がない時点でおかしくない???
「確かにうちに来てたわよ。ユウリ君よ。本当に覚えてないの?」
ユ、ユウリ君?
自分の記憶を片隅までひっくり返して思い出そうとしてるのに、まるで見つからないことにまた違う意味で焦りを覚える。
わ、私の頭、大丈夫……?
冷や汗が垂れそうなくらいに困惑して隣をちらりと見ると、湯呑みを片手に持ったナンパ君、本名はユウリ君がにこっとして祖母に向いた。
「まぁ、あの時の清香さんは忙しそうでしたし」
「確かにあの頃のきよは部活にバイトに彼氏にって忙しなかったけれど、でも、まさかねぇ」
「ちゃんと挨拶をしたこともなかったですし、最後の一回くらいかな? 顔を合わせたの」
「あら、そうだったかしら?」
「それも忘れられてますけどねー」
「ごめんなさいねぇユウちゃん」
悪意なく笑う二人の朗らかな雰囲気と、事情を察したおばあちゃん達の「そうだったの?」「きよちゃんたら」という言葉がぐさぐさと突き刺さる。
何これ、私が悪いの?
顔合わせたの一回だけって言ったよ?
しかも結局どういうことなの?
そろそろ息切れしそうな私はナンパ君の腕をすがるように掴み、現状味方がいないことに諦めを捨てきれずに「で、つまり……?」と答えを求めた。
「結論から言うと、その最後に顔を合わせた時に僕が清香さんに告白をしたんだけど」
「えっ!? 告白!?」
「うん。僕、ちゃんと迎えに来るって言ったよ?」
「はっきりと言ってたわ〜!」「カッコよかったわよねぇ、おばあちゃんキュンとしちゃった」「やっと想いを伝えたのにねぇ」
ナンパ君擁護の圧を私は手で払って押しのける。
「待って待って、それが初対面だったんでしょ? なのに告白ってなによ!?」
「いや、清香さんが僕を知らなかっただけで、僕は知ってたから」
「わ、私はたしかに君を知らなかったけど……!」
「一目惚れだったんだ。だから告白したんだよ?」
一目惚れ……!!
途端に顔に熱が集まった。ううん、体中が熱いけど、特に顔が。
にやにやと見ているおばあちゃん達のせいで、より一層恥ずかしい。
言葉にできず口をはくはくとさせる私に祖母はため息を吐き、ようやく事の真相をまとめてくれた。
おばあちゃん達の合いの手は一旦置いておいて、つまりこういうことらしい。
「うちに通い始めて、私を見かけて一目惚れ……?」
「そうだよ。可愛いお姉さんだなぁって見惚れちゃった」
「おばあちゃん達に私のことを教えてもらってた……?」
「その時の清香さんは忙しかったし、僕も日本語はあまり喋れなくて。彼氏がいたのはショックだったなぁ」
「私が失恋したあの日に、君もいたの……?」
「いたんだよ。おばあちゃん達に聞いてもらってた話、僕も聞いてた」
「そこで私に告白したの……?」
「『薔薇を持って迎えにくる』って、一世一代の告白だったんだけどな」
「そ、それ、夢じゃなかったんだ……!」
閃いた私だけど、いやむしろ、なんで覚えてないの? と。
優しいナンパ君は言葉にはしなかったけれど、私も自らに思うし外野が大変に突っ込んできてうるさい。
それに素直に答えるなら「失恋してそれどころじゃなかった」以外にはないわけだけど。
当時少年だったナンパ君に、それを今まさに遂行してくれたユウリ君に、私は頭が上がらなくなってしまった。
再会の折に掛けられた「お待たせ」という言葉は、何も間違えていなかった。
「覚えてなくてごめんなさい…………」
深々と頭を下げると、軽く「いいんだよ」と許される。「言葉は覚えててくれたんだ」と。
私の頭を上げさせて、ナンパ君は嬉しそうに目を細めた。
「僕への警戒は解けたよね?」
「はいもう、しっかりと……」
「じゃあ、そろそろ受け取ってくれる?」
差し出された三本の薔薇。
どこに隠してあったのか、私が気づかなかっただけか。
息を潜めるおばあちゃん達の視線が集まる中で、私は「これはもう断れない……」と腹を括ってそっと手を出した。
「あの、でも、友達から……」
なんて甘い戯れ事は、歓声の中にかき消された。
頬に柔らかな熱をのせたナンパ君が幸せそうに微笑んで、私を引き寄せる。
まって、ともだち……! と絞り出そうとした私の耳元で、イタズラを笑うように囁かれる。
「――薔薇の本数に花言葉があるなんて、知らなくて当然だよね。受け取ったからには容赦しないよ?」
頬にキスを落とされ、ナンパ君は体を離した。
すでに容赦ないスキンシップに私の頭は真っ白になり、茹った体からは湯気が出ていた気がする。
その後ナンパ君がどう私の連絡先を手に入れたのか、拍手喝采していたおばあちゃん達はいつ解散したのか、私は何も知らない。何も記憶になかった。
花瓶に添えられた薔薇を目にしては花言葉を思い出し、ナンパ君の勝ち誇った笑みに顔を熱くした。