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天魔創生記

作者: もふもふる

(一)

 天正十年六月二日未明。

 甲斐武田氏を滅ぼした織田信長は上洛した後、従者百人余と共に本能寺で宿泊して居た。

 普段で在れば静寂に包まれる未明の刻。信長は鳥達が騒ぐ音で目を覚ました。

 信長はパンパンと手を叩いた。すると部屋の出入口、敷居の奥に控える近習の一人が障子越しに声を掛けた。

「坊丸に御座りまする。上様、何か御用でしょうか?」

「辺りが騒がしい様だ。少し見て参れ。其れと門は開けた儘にして置く様に」

「はっ」

 坊丸の気配が遠く為る。

 信長は体を起こすと、「蘭丸は居るか」と声を掛けた。

 すると「此処に居ります」と敷居の奥から声がした。

「甲冑を着る。手伝え」

「はっ」

 蘭丸は障子を開け、近習数人を従え部屋に入った。

 部屋の奥には信長が好んで着用して居る南蛮の甲冑が飾って在った。

 信長は本能寺に宿泊した後、備中国にて毛利攻めを繰り広げる羽柴秀吉の援軍に向かう予定で在った。この甲冑は毛利攻めへの出陣に備えて安土城から持って来た物だ。

 信長は椅子に腰掛けた。蘭丸達は慣れた手付きで信長を甲冑姿に着替えさせて行く。

 外に出て居た坊丸が戻って来た。

「御報告致します。本能寺の周囲を見廻りましたが、今の所特に変わった所は見当たりませんでした。念のため数人の者が周囲の警戒に当たって居ります」

「然うか、結構」

 坊丸は一礼し、再び敷居の奥に控えた。

「上様、何故甲冑に着替えるので?」

 蘭丸は信長に尋ねた。

「蘭丸、其方は余に意見すると申すのか?」

「いえ、滅相も御座りませぬ」

「其方は黙って余に従って居れば良い」

「心得て居ります」

 足の装甲の装着が完了し、信長は立ち上がった。

 蘭丸は信長に鎖帷子を着せると、上半身の鎧を着せて行く。

 南蛮の甲冑は着物の様に簡単に羽織れる物では無く、各部位毎に細かく分かれて居る。またその構造は日の本の甲冑とは大きく異なる。

 蘭丸達は左右に分かれ、決められた手順通りに甲冑を着用させて行く。全体の重量は三貫を超える中中の重さだ。

 とは謂え信長は南蛮の甲冑を着るのに慣れて居り、屁でも無いと謂った感じで堂々と着用して居た。

 信長は蘭丸を見た。蘭丸は慣れた手付きで信長に甲冑を着せて居たが、顰め面をして居り気が進まない様に見える。

「蘭丸、其方は何が不服か」

「……此の甲冑は南蛮人が上様に献上した品で御座りますな」

「うむ」

「南蛮人は斯うした珍品を献上して上様に近付き、日の本での影響力をじわじわと広げて居りまする。然し南蛮人は怪しい動きを見せる事も良く有り、信用に置けませぬ。上様、南蛮人にはお気を付け為さった方が宜しいかと」

 蘭丸は信長に然う忠告した。

「蘭丸、厚かましいぞ」

「失礼致しました。然し……」

「南蛮の者が信用に足る者で在るかは其方では無く余が決める。其方は余に従って居れば良い」

 蘭丸は逡巡した後、話し始めた。

「確かに南蛮人と付き合う事に利が有るのも分かりまする。長篠合戦の時の様に火縄銃は今までの戦の常識を大きく変えました。又、長らく本願寺や延暦寺と謂った寺社勢力と敵対して来た織田家にとっては南蛮商人を優遇し伴天連の者に地位を与える事で今までの武士と寺社の均衡を大きく変える必要が有るのも分かりまする。天主教を広める伴天連の者の地位が上がる事は相対的に本願寺や延暦寺と謂った寺社の者の権勢を弱める事に繋がりまする。九州では切支丹大名が南蛮人に領地の一部を差し出したと謂う噂も御座ります。然し、伴天連の者は日の本の外から来た者。日の本の常識が通じ無い事も多々有ると聞き及んで居ります。彼奴等が何を企んで居るか分からぬのに安易に近付けるのは如何なものかと」

「ふん、何かを企んで居るなら好きにさせれば良かろう。余に逆らう者が如何謂う目に遭うか彼奴等も知っておろう。然う簡単に逆らう事は有るまい」

「伴天連を甘く見ては行けませぬぞ」

「甘くは見て居らぬ。此の甲冑を見れば良く分かるわ。其れに火縄銃も元々は伴天連が日の本に持ち込んだ物。民の数も南蛮は日の本より遥かに多いと聞いて居る。南蛮の国々が多くの兵を率いて斯様な軍備で日の本に攻め込んで来れば日の本が如何為るか、態々考える必要も無かろう。日の本が彼奴等の戦乱に巻き込まれずに済んで居るのは日の本が彼奴等の国から遠く離れて居たから。然し彼奴等の船は到頭日の本にやって来た。此の儘彼奴等が日の本にやって来れば、やがては兵もやって来よう。其の前に余が日の本を一つに纏めねば為らんのだ。南蛮の者と誼を通じて居るのは南蛮の動向を把握する為でも在る。南蛮が日の本にとって危うい存在である事など承知の上よ」

「し、失礼致しました。流石上様、其処まで先見の明があったとは」

「余は其方を気に入って居る。常に余の側に居り、余の考え方を身を以って学ぶと良かろう」

「畏まって候」

 蘭丸は恭しく頭を垂れた。

 甲冑の着付けが進み、頭部を残すのみとなった。

 蘭丸は信長に南蛮の兜を被せた。頭部を包み込む南蛮の兜だ。顔以外の部分が装甲で覆われて居る。

 そして最後に顔を保護する面頬を下ろそうとしたが、信長は

「面頬は下げずとも良い。視野が狭く為る」

 と謂って断った。

 蘭丸は「承知」と答えた。

 甲冑を着終わり、信長は縁側に出た。

 部屋の出入口に控える近習数人が静かに頭を垂れて居る。

 空が白み始めて居る。夜明けが近い。

 寺の外のあちこちから人の足音が聞こえて来る。

「此処は何時も此の様に騒がしいのか?」

 信長は蘭丸に尋ねた。

「京はやはり日の本の中心ですから此の程度の音は何時も通りではないかと。上様の勘の鋭さには恐れ入りますが、上様のようなお方が此の様な些事に囚われる事も無いかと」

「然うか」

「上様が何時も京で寝所にする妙覚寺に比べますと此の辺りは騒がしいのかもしれませぬ。下賤な輩が騒いで居るのかもしれませぬな」

「ふむ」

 信長は頷き、部屋に戻った。


(二)

 すると其処へ別の近習が慌てて入って来た。

 蘭丸は其の近習を一瞥し、

「力丸。お主、礼を心得よ。部屋に入る前に上様に許可を得るべきであろう」

 と冷たく謂い放った。

 力丸は恭しく頭を垂れた。

「失礼は承知の上で御座りまする。上様にお話が」

 信長は「ふむ」と頷いた。

「構わん、話せ」

「はっ」

 力丸は頭を垂れながら、

「南蛮の宣教師が上様に御目通りを願い出て居ります。至急の用との事で」

 と信長に報告した。

 信長の眼光が鋭さを増した。

「直ぐに呼べ」

「はっ」

 力丸は外に向かい合図すると、敷居の奥に控えて居た宣教師が入って来た。

 宣教師は恭しく頭を垂れ、

「御目通りが叶い光栄に御座りまする」

 と南蛮人にも関わらず慣れた日本語で、日の本の礼儀作法に則って挨拶した。

「御託は良い。要件だけ話せ」

「分かりまして御座りまする。信長様、貴方の命運は絶たれました」

 と宣教師は話し、柔かに微笑んだ。

「お主、上様を愚弄するか! 刀の錆にしてくれるわ!」

 蘭丸が熱り立ち、脇差に手を掛けた。

 信長は怪訝な顔をした。

「お主、余を愚弄する為に態々夜明け前に訪れた訳では在るまい。先を話せ」

 宣教師は頭を下げ、

「分かりまして御座りまする。我が教会に出入りする天主教の信者が京に進駐する軍勢を見たとの事で教会に駆け込んで参りました。間も無く京は戦場に為りまする」

 と話した。

 蘭丸は宣教師を見下した目で見詰めながら、

「は? 京周辺は織田家の領国。攻め込んで来る軍勢など有る筈無かろう。恐らく毛利攻めをして居る羽柴殿の支援に向かう軍勢であろう」

 と、然も当たり前の事で在るかの様に話した。

 然うした蘭丸の威圧めいた言葉にも宣教師は物怖じせず、

「ですが、其の者曰く、其の軍勢は摂津方面ではなく京に向かったとの事。そして其の軍勢を怪しい目で見て居た近隣の農民が数十人、其の軍勢の兵に依って斬られたと。恐らくは口封じの為に」

 と謂った。

「何だと、其れは真か」

 蘭丸は目を丸くした。

「其の軍勢が何処から来たのか分かるか?」

「さあ、其処までは分かりませぬ。ですが織田家の軍勢なら無駄に領民に手を掛ける理由は在りませぬ」

「では一揆の類か?」

「一揆では御座りませぬ。其の軍勢は甲冑を身に付け、規則正しく進軍して居たとの事。一揆ならば軍勢の多くを占めるのは農民ですから、高価な軍装など整えられませぬ。怒りに任せて我を忘れ、鍬や槍などを片手に軽装で集まった者共ばかりで、統率も其れ程良いとは言えますまい」

「成程な。良い観察眼だ」

 信長は然う謂うと静かに頷いた。

「旗差は見たか?」

「見て居ない様です。そもそも旗差物を付けて居なかったとか」

「では、旗差物の無い何処の者か分からぬ軍勢が京に迫って居ると謂う事で間違い無いか」

「間違い御座りませぬ」

「ふむ」信長は頷いた。

 蘭丸は慌て始めた。

「此れは恐らく謀叛に御座ります。何処の軍勢か分からぬと謂うのは自らの正体を明かしたがらないが故。織田家の軍勢なら旗差しでどの軍勢かを証明する筈で御座りまする。例えば柴田殿なら丸に二つ雁金紋。羽柴殿なら桐紋、其れに金色の千成瓢箪が馬印に御座りまするな。戦で勲功を残したいなら目立たねば為らぬのは武士にとって常識。余程の事情が無ければ旗差を隠す筈在りますまい」

 信長は無言で頷いた。

 蘭丸は宣教師に

「して、其の軍勢の兵の数は?」

 と訊いた。

 宣教師は

「一万は下りますまい」

 と答え、満面の笑顔に成った。

「今京に残る兵では太刀打ち出来ますまい。信長様の命運は終わりで御座ります」

 蘭丸は顔面蒼白に成った。

 然し、信長は慌てる事無く静かに何かを考えて居た。

 蘭丸は恐る恐る信長に尋ねた。

「あの、上様……何をお考えで?」

 信長は静かに口を開いた。

「此の状況、あの時と似ていると思ってな」

「あの時?」

「桶狭間で今川義元の軍勢を討ち払った時の状況とな。あの時も織田家が滅ぶ瀬戸際であったが、辛うじて生き延びた。其の時の今川の軍勢は二万余だ。其の時と比べたら今本能寺に迫る軍勢の数は少ない筈。何か勝機は有るかもしれん」

「無理です。今すぐ逃げましょう。今ならまだ間に合います。安土に戻り籠城の構えを取り、陣容を立て直せば、美濃からの援軍が来れば敵を迎え撃てます。金ヶ崎での羽柴殿の様に、今回は拙者が殿軍を務めましょう。さ、上様、下知を」

「いや、撤退はせぬ」

「然し、本能寺の我が軍の手勢は女衆を入れても百人余。其の様な人数で一万人余の軍勢に勝てる筈御座りませぬ。桶狭間の時は油断した相手の隙を突き奇襲に成功したから寡兵でも勝てたのです。然し此度は我が軍の居場所が敵に筒抜けになって居ります。奇襲策は使えませぬ。其の様な状況での正面からの戦いは態々自ら負けに行く様な物。良策では御座りませぬ。撤退して命を繋ぐのが最善策に御座りまする」

 蘭丸は懸命に信長に訴えた。

 其の様子を宣教師は柔かに笑いながら見詰めて居た。

 信長は疑問に感じ、

「其方は此の様な状況で如何してそんなに平静で居られるのか」

 と訊いた。

 宣教師はニヤリと笑い、

「信長様に提案が御座ります。桶狭間合戦の様な奇跡を再び起こす奇跡に御座りまする」

 と謂った。

「其方は何が望みか」

 信長は宣教師に訊いた。

「もし此度の戦に勝てましたら、私を信長様の軍師にして頂きたいのです」

 蘭丸は

「出しゃばるな南蛮人風情が!」

 と息巻き、宣教師を罵った。

 然うした蘭丸の罵声にも宣教師には馬耳東風とばかりに柔かに笑って居る。

「ふむ、其方には何か策が在ると見える。申してみい」

「承知に御座りまする。其の前に一言。信長様は自分の命は惜しみますかな?」

 宣教師は不敵に微笑んだ。

「余は日の本を統一する為なら命を惜しむつもりは毛頭無い」

「然う仰ると思って居りました」

 宣教師は微笑んだ。


(三)

「さて、信長様は自らの事を第六天魔王と称して居るとか。第六天魔王とは仏敵の最上位に位置する魔の存在。信長様は本願寺や延暦寺と敵対して仏敵となり、彼等から天魔と罵られましたな。信長様は其れを汚名と感じる所か寧ろ自ら進んで第六天魔王と名乗った。要は唯の捻くれ者ですな。嘗て父親の葬儀に抹香を投げ付けて尾張の大うつけと呼ばれて居た頃と同様、昔から変わっちゃいない」

 宣教師の言葉に蘭丸は激昂し、

「お主、上様を愚弄するか!」

 と叫んだ。

「此れは失敬」

 宣教師はニヤリと微笑んだ。全く反省の色は見えない。

 信長は顔色一つ変えず、宣教師の話を静かに聞いて居る。

「とは謂え今の信長様の第六天魔王と謂う呼称は所詮自称に過ぎませぬ。本当の魔王では御座りませぬ故。信長様の第六天魔王と謂う呼称は謂わば唯のハッタリですな」

 宣教師はケラケラと笑う。

「時にはハッタリも必要だ」

 信長は静かに答えた。

「確かに。では、其の第六天魔王と謂う名が自称の物では無く本物の、正真正銘の第六天魔王に成ったとしたら、如何されますかな?」

「如何謂う意味だ?」

「言葉の通りに御座りまする。こちらをご覧ください」

 宣教師は懐から古い本を抜き出した。

「其の書物は?」

「西洋の魔術書に御座りまする。此処には召喚魔術の方法について記されて居りましてな。此の手順に従って悪魔召喚を行う事で、悪霊を此の地へと降霊させる事が出来まする。悪霊の力は強大で、其の力を使えば例え万の兵を相手にしようと物ともせず討ち倒す事が出来ましょう。ですが此の強大な力を手に入れるには大きな代償が必要でしてな」

 宣教師は柔かに微笑んだ。

「ふむ。先を続けよ」

 信長は先を促した。

「其の代償と謂うのが実は……人の命なので御座りまする」

「ふむ」信長は頷いた。

 蘭丸は言葉を失って居る。

「其の命と謂うのは、他人の命を代わりにする事は出来ず、自分自身の命を触媒として捧げる必要があるので御座ります。自分の命を触媒にして悪霊を此の地に降霊させ、依代となった者の身体に悪霊が取り憑き、強大な力を得るので御座りまする」

「随分眉唾な話だな」

 蘭丸は宣教師を冷たく罵った。

「眉唾かどうかは実際に試してみると宜しいでしょう。蘭丸様がお試しに為りますか?」

「い、いや、拙者は……」

「尻込みで御座りますか。美青年との呼び声が高い森蘭丸の名が泣きますな」

「くっ……」

 蘭丸は臍を噛んだ。

「其の悪霊と謂うのは一体何が出来るのか」

 信長は冷静に尋ねた。

「魔王に相応しい力で御座ります。悪霊の力を得た者は身体が屈強な巨体と成り、鋼のような肉体で、甲冑を付けずとも刀や槍や矢弾の攻撃を弾きまする。腕を振るうのは鋼の棍棒を振り回すのと同じ事に為り、人間のようなか弱き存在は簡単に薙ぎ払われまする。身長は十尺を優に超え、体重は三十貫を超えまする。正に鋼の巨人で御座りますな。魔王と呼ぶに相応しい姿形と存じまする」

「ふむ」

「信長様は敦盛を好んで居るとか。彼の桶狭間合戦の際にも舞って居たそうに御座りますな。所で『人間五十年』と謂う敦盛の有名な言葉が御座ります。敦盛には化天、若しくは下天と謂う言葉が出て来ます。『下天のうちを比ぶれば』に出て来る下天とは六欲天の世界の事。六欲天には六つの天が在り、其の内の最上位の第六天が第六天魔王の住処ですな。信長様が第六天魔王を名乗る切っ掛けには此の敦盛の存在があったのかも知れませぬな」

 信長は無言で頷いた。

「人の命には限りが御座ります。其の事は信長様も良くご存知の事と存じます。信長様の齢は五十に近付きつつ在りますな。信長様は……此の儘何も起こらずとも自らの命が尽きようとしている事を分かって居るのでは無いですかな。其れを考えて、病により静かに息を引き取るよりは、大きな戦いを引き起こして華々しく散って見せ、自分の命を依代にして世界を変革する大きな材料にしようとして居るのではないですかな。ですから……本当は、信長様は謀叛が起きて自らが殺されようとして居る事を予め分かって居たのでは無いですか。寧ろ謀叛の引き金を引いたのは信長様なのでは無いですか?」

 信長は何も答えず、静かに宣教師の話を聞いて居る。

「然し、悪霊を召喚し、真の第六天魔王に生まれ変わる事で、人としての寿命では無く天界住人の寿命が適用される事になりまする。然うすれば、信長様は今此処で死ぬ必要は無くなりまする。信長様は人の命が尽きようとして居るから謀叛の引き金を引いて死のうとした。然し命が未だ尽きないのであれば、今此処で死ぬ必要は無く為りまする。悪魔召喚は信長様の命を援ける事に繋がるのです」

 信長は何も答えない。

 蘭丸は唖然として、

「だから上様は気配を敏感に感じ、甲冑の着用を望まれたのか。予め謀叛が起こる事を知って居たから……」

 と呟いた。

 宣教師は柔かに笑い、

「信長様の命運は尽きました。然し第六天魔王としての命運は此れから始まるのです」

 と謂った。


(四)

「上様、事の真相をお話し頂けますか?」

 蘭丸は信長に向かい、静かに謂った。

「此の者の話した通りだ。今回謀叛を起こしたのは惟任日向である。そして、余と惟任日向は事が起こる前から繋がっておったのよ」

「惟任日向とは明智殿の事に御座りますな」

「うむ。所で其方は三国志は知って居るか」

「甲相駿三国同盟の事に御座りますか?」

「いや違う。確かに甲信の武田、関東の北条、東海の今川による東国の覇権を巡る三国関係も有名では在るが……今や武田信玄も今川義元も亡き者と為り、甲信は織田の物に、駿河は家康の物に為った。如何に栄華を誇ろうともたった数十年で其の関係が大きく変わってしまう事も在るわけで、然う謂う意味では織田にとっても決して他人事とは言えまい。だが余が言おうとして居たのは然う謂う事では無く、後漢の三国志の事よ」

「昔の明の事ですな」

「左様。後漢末期の時代、各地の群雄が覇権を巡り相争って居た。やがて曹操が華北を支配して江南へと兵を差し向けた。そして曹操と孫権・劉備連合軍が争う赤壁の戦いが起こった。曹操の軍勢は十万余とも二十万余とも謂われる大軍で在った。孫権・劉備連合軍の数倍もの規模だ。此の戦いに於いて其方はどちらが勝ったか分かるか?」

「存じて居ります。兵力差に圧倒的な差が在れば普通は大軍の方が勝つ筈ですが、然うは為らなかった」

「では、何故其の大軍が負けたか分かるか? 華北を席巻した曹操の軍勢が弱小な筈無かろう」

「いくら華北を席巻したと謂えども曹操の軍勢は長江での戦いの経験に乏しく、其の弱点を突かれた計略に乗せられてしまったと聞き及んで居ります」

「うむ。孫権・劉備連合軍は複数の計略により敵を陥れる連関計で曹操の大軍を見事に討ち払ったのだ」

「計略に因り予め鎖で繋がれて居た曹操の大船団は火攻めに遭って大きく燃え上がった。其の巨大な炎は正に赤き壁の様だった」

「戦に携わる者として勉強になる題材で御座りますな」

「其の連関計に携わった者として知られるのが龐統と黄蓋だ。龐統は容姿に恵まれないせいで中中認められずに苦労したが、其の才能は諸葛孔明に並ぶと言われる程の天才軍師だ。容姿だけで人を判断するのが如何に愚かな事か良く分かるが、容姿で人を選びたくなってしまうのが人の性なのかもしれぬな。容姿に恵まれた美青年の其方とは大違いだな」

 信長は優しい目で蘭丸を見詰めた。

 蘭丸は静かに頷いた。

「又、黄蓋は孫権軍の宿将で在った。黄蓋は曹操軍に偽りの内応をし、曹操軍に潜り込んで火を点けた。曹操軍に黄蓋の寝返りを信じ込ませる為、孫権軍は黄蓋を偽りの棒叩きの刑に処した。其の刑罰は徹底的に行われたと謂う。黄蓋は怒りに震え、復讐の為に曹操軍へ寝返る、と謂う筋書よな。然う言えば織田家中でも最近余に悉く罰せられ怒りに震える者が居たと思うが、三国志の黄蓋と余りにも似て居るとは思わんか?」

「成程。赤壁の戦いに於ける孫権と黄蓋の関係が、上様と明智殿と言う事に御座りますな」

「左様。長年織田家に多大な貢献をして来た惟任をあえて見せしめに罰するのがどう謂う意味を持って居るのか……普通なら見せしめの恐怖政治と思われるだろうな。余に逆らう者は此の様な無様な醜態を晒す事に為ると織田家中に広く知らしめ、余に逆らう者が出ないようにする為のな。然し本来であれば惟任程の優秀な者が余に逆らい次々と過ちを犯す筈も無かろう。比叡山の焼討で一番徹底的に攻撃して勲功を上げたのは惟任ぞ。織田家中で最も余に忠実なのは惟任で間違い無い。其の惟任が態々明け透けに余に逆らう筈も無かろう。其の惟任が何故明け透けに余に逆らう真似をするのか、そして余に罰せられるのか、黒田官兵衛辺りの勘の良い者なら直ぐに察しが付くであろう」

「流石兵法に長けた上様や明智殿に御座りますな。お見事な策に御座りまする」

「惟任日向は高齢に付き、命が永く無いのは分かって居た。だから余と惟任とで一芝居打ち、共に自らの命を依代にして時代を変えようとした。日の本を大きく変革する為に一番邪魔な物は、其方は分かるか?」

 信長は蘭丸に尋ねた。

「いえ、拙者には分かり兼ねまする」

「答えはな、織田家其の物よ」

 信長は呟いた。

「えっ……」

 蘭丸は絶句した。

 信長は話を続ける。

「織田家は日の本に蔓延る旧態依然とした悪癖を次々に破壊して行った。然し其のせいで本願寺の様に多くの敵を作った。其れは日の本を変革するには仕方の無い代償で在ったが、此の儘織田家が天下を統一すれば、織田を仇と見做す者達は決して納得するまい。そこでだ。惟任の謀叛により織田家が分裂し、新興勢力が織田家中を纏め、日の本を統一する。然うすれば織田を仇と見做す者達も我等に協力してくれる様に成るだろう。北陸の上杉や中国の毛利とも誼を通じる事が出来る様に為るかもしれぬ。我等日の本の者達は何時か南蛮の国々と戦を繰り広げる事に成る。日の本が何時迄も内輪揉めを繰り返してばかり居ては、強大な南蛮に勝つ事は難しいだろう。南蛮との戦いに備える為にも、今の織田家は日の本を纏める為には邪魔な存在と成ったのだ」

 南蛮を将来的な仮想敵国と見做す信長の言葉を聞かされても宣教師は柔かに微笑んで居た。結局、信長にとっても南蛮人にとってもお互い承知の上での関係と謂う事なのだ。

 蘭丸は信長に、

「其れでは……此れから如何されますか? 此の度の謀叛が実は信長様主導による物なのだとしたら、此のまま本能寺に籠り、明智殿に殺されますか? 自ら定めた運命に従う予定調和な人生も良いでしょう。其れとも表向きは本能寺で死んだ事にして密かに生き延びますか? 女の姿に化けて逃げれば、良識ある明智殿なら逃げる女は助ける様兵に命じて居る筈ですから、問題なく見逃して貰えるでしょう。其れとも、此の者の言葉を信じ、真の第六天魔王として生まれ変わりますか?」

 と尋ねた。

 信長は大声で笑った。

「真の第六天魔王か、面白いではないか。余は本日死ぬ筈で在ったが、自らの命運を変えてみるのも面白い。良いだろう、余は第六天魔王になってやろうではないか」

「然う仰ると思って居りました」

 宣教師は微笑んだ。

 蘭丸は宣教師に

「悪霊の降霊とは具体的に如何するのだ?」

 と訊いた。

「魔術書の内容に基づき、庭に魔法円を描きます。そして円の中心部で悪魔の召喚儀式を行う事で悪霊を現世に降霊します。召喚魔術は私が行いますから、信長様や蘭丸様は其処の縁側に腰掛けて見守って頂ければ結構。儀式が終わると信長様の身体は第六天魔王に生まれ変わって居ります」

 と、宣教師は柔かに笑いながら答えた。

「ふむ……南蛮は悪霊まで自らの味方にするのだな」

 蘭丸は静かに呟いた。


(五)

 渡り廊下から近習の一人がやって来て、敷居の奥に控えて居る坊丸に何やら耳打ちした。

 坊丸は部屋に入り、

「申し上げます。本能寺の門の前で見張らせて居た者の報告に依りますと、本能寺の周囲を明智様の物と思われる軍勢が取り囲んで居ります」

 と報告した。

「うむ。御苦労」

 坊丸は頭を下げ、再び敷居の奥に控えた。

 蘭丸は外を見た。

「空も大分明るく成って参りました」

「うむ」信長も空を見、頷く。

「戦の下知を」

「取り敢えず門の前に何人かの者を配置せよ。惟任の軍勢は統率が取れて居るから下知が無ければ攻め込んでは来まい。門は開けた儘にするのだぞ」

「門を開けた儘とは……空城計で御座りますか? 諸葛孔明もこの計で敵を退けたと聞き及んで居ります。また徳川殿も三方ヶ原の戦での脱糞敗退の際に空城計を仕掛けた事で有名で御座りますな。武田方は徳川の空城計に怯んで逃げたのでは無く、本当は徳川の空城計など見抜いた上で徳川に情けを掛ける為に敢えて見逃したと謂う話も聞いて居ります」

「余は三方ヶ原の戦を直接見て居らぬから何が真の話かは分からぬがな。まあ三方ヶ原に於いて見事に大敗した家康が少しでも手柄を立てたいと謂う事で然うした話を捏ち上げた可能性も在るだろうな」

「今徳川殿は堺に居りますから徳川の間者に我等の話が聞かれて居るかも知れませぬな」

「ハハッ、捨て置け」

「然うですな、其れにしても徳川殿は真に愉快」

 信長達は笑い合った。

「因みに今回門を開けるのはな、明智方に対してこちらに敵意が無い事を示す合図の様な物よ」

「成程。心得ました。坊丸」

 蘭丸は坊丸を呼んだ。

 敷居の奥に控えて居た坊丸は頭を垂れた儘「はっ」と謂い、門に向かった。

「宣教師よ。悪魔召喚とやらの準備をせい」

「畏まりて御座りまする」

 宣教師は中庭に出ると、魔術書を片手に、木の棒で地面に紋様を描き始めた。

 信長と蘭丸は縁側に腰掛け、宣教師の様子を眺めて居た。

「此れが南蛮の家紋か?」蘭丸は尋ねた。

「家紋とは違う魔術の為の紋様に御座りまする。魔法円と謂う物です」

 宣教師は紋様を描きながら答えた。

「ふむ」信長は頷いた。

 宣教師は直径が十尺余の大きな円を描き、其の中に少し小さな円を描いて二重の円にした。そして円と円の隙間に南蛮の文字を書き込んで行く。

「此れは何と書いて居るのか」信長は尋ねた。

「召喚する悪霊の名前、依代となる信長様の名前、魔力効果を高める様々な言葉、其れらを組み込んだ呪文で御座りまする」

 宣教師は信長からの質問に答えつつ、更に紋様を描いて行く。二重円の隙間に文字を書き終えると、二重円の内側に様々な文字や記号、図形を描いて行った。円の中心を囲うように二つの三角形が上向きと下向きに描かれて居る。南蛮の文字で在る為信長達には何が書かれて居るか良く分からなかったが、魔法円が完成に近付くと共に魔法円から何やら異様な雰囲気が漂って来る。

「魔法円は此れにて完成に御座ります。此れから召喚の儀式に入りまする」

「うむ」

 宣教師は魔法円の内側に入り、魔術書を見ながら呪文を唱えて行く。

 気が付くと本能寺に居た近習だけでなく明智の手勢数人も中庭の外側で宣教師の様子をじっと眺めて居た。

 其の儘暫く眺めて居ると、宣教師の身体から何やら波動の様な物が発せられ、宣教師の髪が逆立って行く。其の尋常では無い気配に、周囲の者は固唾を飲み、じっと宣教師を見守って居た。

 明智の手勢が次々と中庭に入って来る。既に本能寺の境内には明智の手勢が数百は入って居た。

 信長と話して居た時の宣教師は柔かに話して居たが、呪文詠唱中の宣教師の姿は気魄の籠った真剣其の物で、呪文を呟く声にも気魄が有る。

 呪文の詠唱は四半刻程続いた。

「思って居たより長いですね」

 蘭丸が疲れたように謂った。

 信長は其れに答えず、静かに宣教師を見守って居る。

 宣教師は瞼を閉じ、手に持って居た魔術書を閉じた。

 宣教師の身体を包み込んで居た尋常では無い気配が消え、髪が元に戻った。

 宣教師は瞼を開け、信長を見た。

「此れにて悪魔召喚の儀式は終わりに御座りまする」

 宣教師は頭を下げた。

 蘭丸は信長を見、宣教師を一瞥し、

「何だ、何も変わって無いではないか。やはり眉唾で在ったか」

 と冷たく謂い放った。

 宣教師は信長の姿を見、

「確かに姿形は信長様の儘に御座ります。然う謂う事も有るので御座りますな。元々信長様の姿形が第六天魔王の姿形と然う変わらなかったからなのかもしれませぬ」

 と静かに謂った。

 側に控えて居た坊丸が口を開いた。

「上様は南蛮装束に身を包んで居りますから、南蛮の技法を用いても南蛮の見た目の儘変わら無かったと謂う事ではないかと」

 蘭丸は「成程な」と呟いた。

 宣教師は信長に微笑んだ。

「信長様。身体の内側から何か力を感じませんか?」

 信長は自分の姿を見、「はて……?」と首を傾げた。

「試してみるか」

 信長は明智の兵に向けて手を翳した。

「ふんっ!」

 信長が掌に力を籠めると、掌から眩い光の弾が発せられ、明智の手勢に向かって火縄銃の弾丸の様な速さで飛んで行った。明智の手勢数人が其の光弾に巻き込まれ、吹き飛んで行った。

 其れを見て居た他の明智の兵が震え上がった。

「成程な。此れが南蛮の真の力と謂う物か」

 と謂うと信長は大声で笑った。

 宣教師を除いた周りの者は光弾を放った信長を唖然と見詰めて居た。

 宣教師は柔かに微笑んで居る。

「上様は人の域を超えられたのだな……」

 蘭丸は静かに呟いた。

 信長は明智の手勢を見、

「惟任に伝えよ。謀叛の策は中止じゃ。余は真の天魔と成った。惟任は引き続き余の配下として励む様に」

 明智の手勢は慌てて門から外に出て行こうとし、門の辺りで混み合って団子状態となり、押したり引いたりして騒ぎ立てた。

「こらこらお前ら少しは冷静に成れ」

 蘭丸は彼等を見、クスクス笑いながら謂った。

 宣教師は柔かに笑いながら信長を見、

「此れにて今回の事件は一件落着。信長様の命運も無事に繋がれましたな」

 と謂った。

「さて、約束の軍師の件に御座りますが……」

 信長は首に手を当て、

「まだ天魔の力の使い方が良く分からぬ。其方には暫く余の側に居て貰う。軍師の話は其れからだ」

 と謂った。

 宣教師は不敵に笑い、

「畏まりて御座りまする」

 と謂って頭を垂れた。


(六)

 信長達は部屋の中に戻った。

 蘭丸が口を開いた。

「普通、謀叛と謂うと激しい戦を想像しますが、此の様な平和な謀叛も在るので御座りますな。農民は何人か犠牲に為った様で御座りますが」

 信長は頷いた。

「嘗て余の父である美濃の斎藤道三は息子に討たれた。甲斐武田信玄は謀叛により父を追放し、息子に謀叛を起こされ息子を追放した。そして織田に牙を剥いた松永久秀や荒木村重……戦国の世に謀叛は付き物で在る。余は然うした戦国の世を辛うじて生き延びて来たが……一番堪えたのはやはり、謀叛を起こした弟を手に掛けた事よの。あれで余も肝が据わった」

 信長は溜息を吐いた。

「赤の他人だけで無く血を分けた肉親同士ですら利権を巡り殺し合うとは、戦国の世は何と世知辛い物で在るか。其の様な肉親を殺さねば生きられない世の中を壊し、誰もが平和に生きられる世を作らねば為らぬ。其の為にも蘭丸、此れからも余に協力してくれるか」

「御意に御座りまする」

 蘭丸は信長を見詰めた。

 信長も蘭丸を優しく見詰める。

 二人の視線が絡み合う。

 敷居の奥に控える坊丸が障子越しにコホンと咳をした。

 蘭丸は慌てて目を逸らした。

 其の様子を見て居た宣教師がクスクス笑った。

 廊下越しに近習がやって来た。障子越しに、

「申し上げます。明智様の手勢が全て本能寺を後にしたとの事。此れから羽柴様の援軍として備中国に向かう様です」

 と報告した。

 信長は「うむ」と頷き、「大儀である」と告げた。

 近習は「ははっ」と頭を下げ、持ち場に戻って行った。

「上様は間も無く日の本を統一します。其の後の事はお考えで?」

 蘭丸は尋ねた。

「当たり前じゃ。余の夢はまだまだ終わらぬわ」

 信長は豪快に笑った。

(了)


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