第8話 赤永寺は雨の中
アズーロの真っ赤なオープンカーに乗って、昨日は見なかった森の中を通り抜けていく。
こころは、流れる青い空に灰色の雲が点々と増えていく中で、すぐにでも降り始めるだろうと予想した。
それはすぐに的中し、車体にもこころ達にも空からの水滴が叩きつけられる。こういう場合の予想は的中しないから楽しいのであって当たると気分は降下する。
「アズーロ、ごめん。いや、マジで」
ヴィペろの情けなく段々と小さくなる謝罪の声は、こころ自身も責められているようで肩身が狭くなった。
オマエのせいだと、オマエが来たから濡れ鼠、いや濡れ狼になっているんだと。冷たい雨からもそう言われているような気がして。
助手席でずっとアズーロに話しかけていたヴィペラも静かになる大雨は珍しいらしく、アズーロも口数が少なくなる。
「別にいい。それより今日の天気予報見たか?」
雨から守る天井部分が無いせいで、ずぶ濡れになりながら、話しかけられながらも、運転を誤らないアズーロは流石の真面目気質である。
「見てない。当たらないしな」
「あの予報士、女子アナと不倫だってよ。あの野郎が悪いんだぜ。だから、テメェのせいじゃねェよ」
アズーロは悟すようにゆっくりと言った。
「そうか」
二人はそれ以上、この雨の中で話すことは無かった。
それは慣れない土地に連れてこられた子供に対する気遣いなのか、祖父の共犯者だった罪悪感なのか。
こころは知らない。
魔術か何かで自分達自身に水を防げばいいものを。
アズーロ自慢の車も泥だらけ、二人の荷物もビショビショ、もちろんこころ達もビショビショ。
荷物なんて持ってきていないこころはそこまで物理的被害は受けていないが大人二人はそれはそれは大変そうだった。
赤永寺と思われる建物の近くに車を停めて、こころ達は歩き出す。今度はきちんと防水の魔術をかけていた。
屋敷から十分程で到着したが、雨は強くなるばかりでやむ気配がない。
アズーロとヴィペラが杖を傘に変身させて、こころを入れてくれたからよかったがそれでもその分二人が濡れる。
「すいません。こんな雨の日に」
「いいんだよ。逆にオレ達の都合に付き合わせちゃってごめんね」
「っつーか、ガキが変に気ィ使うな。そっちのがオレらは迷惑だぜ」
こころはボナベラ以外の使用人を相手にすると心の中にぽうっと赤みが差す。
きっと同性だからと誤魔化しつつも、彼らはどうにも心の内に入り込んでくるのだ。
だからこそ彼らには母のようにいなくならないでほしい。
たった二日の付き合いだったとしても、そう思うだけの出会いだったのだ。
母を亡くしたこころには茜を騙っていた凛は信用したくはない。あの山ノ瀬にずっといたいと望んだ母をそのままにし、こころが話したいと望んでも出来なくなった。
そんな祖父母を信用できると思う人間がどれほどいるか。少なくともこころは信用できない。
最初はヴィペラとアズーロ。
次にモルテ。
最後の最後にボナベラ。
彼らならば信用と言わず、信頼できる。
ボナベラは異性で心底嫌いだけれど、捨て駒として考えると利用価値は充分ある。
(アイツなんざ死んだって関係無いがな)
「こころ君ってさ、バンボラのこと嫌いじゃない。はっきり言ってさ」
「え? どうして、急に?」
いきなりの質問に取り繕う暇もない。確かにボナベラのことは嫌いだが。
「オレの気のせいだったらいいんだけど──オレらのせいじゃないかって。君がバンボラのこと嫌いなの」
「い、いえ。嫌いではないです」
ヴィペラの鋭い目から孝えるに誤魔化せないだろう。
アズーロもただただ見守っているだけで口を出すことはない。
(まぁ、それだけでよかったと考えよう。本性がバレてないだけな。上手くやればアイツを僕の護衛から外させられるかもしれないしな)
こころもあの山ノ瀬で生まれてこの方生きてきた訳であって、腹の探り合いは得意中の得意だ。
(とりあえず呼び方はこの人らと統一した方が都合がいい。ボナベラ(あの女)をバンボラって呼ぶだけでいいだけだし、楽だ)
「けど、ヴィペラさんを髪で持ち上げていたあの怪人が怖くてどうしようもないんです。あとで、バンボラさんにアンダーラバーズという名前なんだと教えていただきましたけど……」
「……少し止まってもらってもいいかな?」
こころとアズーロが足を止めると、「そうじゃないよ」とヴィペラが笑いながら訂正する。
「違う違う。アズーロ、いつもありがとう。オレはこころ君に話を一旦止めてもらえないかなァって言おうとしたんだけど……伝わらなかった?」
そうじゃないのならと歩き出す。この雨が更に強くなってきたのなら車の防水魔術が効かなくなるからだ。
「すいません。ヴィペラさんの意図が分かりませんでした」
「いや、オレが体力ないってだけだからさ」
たしかに、ヴィペラは手も女性のようにしなやかで、体格だってボナベラにすら劣る。けれど、あきらかに一般男性よりかはがっしりとしているはずだ。
ポカンと口を開けて、目を見開いているこころの隣の二人は笑う。
「コイツ、蛇みてェになってたろ? それを治す薬の副作用で疲れやすくなってたりするだけだ」
「そうじゃないって言ってるだろ! ……こころ君に言ったわけじゃないよ。突然大きい声出してゴメンね」
不安定になっていた、とモルテは言っていたが訂正してもらうしかない。不安定でしかないが正しいだろう。
こころは山ノ瀬の大人で慣れているから大丈夫だが、普通の子供だったら泣いてしまうほどの形相でアズーロに対してヒステリックに叫んでいた。
モルテから教えてもらった男性から女性へ、女性から男性へと変化してしまう人狼は相当大変らしい。買い出しに外へ出る時に女性のままだったら大勢の男に囲まれたとか、逆に男性になっている時のボナベラに近付くと女性になってしまうとか。
その中でも特に女性寄りなのがヴィペラとアズーロらしい。
モルテから聞かされた彼らが同期のボナベラに振り回されたエピソードも同じくボナベラに苦労させられているこころからしたら同情できる部分もあった。
「で、さっきの話なんだけど」
「まだ、続けるのかよ! 急がねーと……」
「行けなくなる、だろ? 着いてからでもいいが聞かせたら面倒な人がいるからな。赤永寺には」
「だったら、屋敷に帰ってからがいいんじゃねェか? あの人だって追っかけてくるほど暇じゃねェだろ」
赤永寺という名称から寺なのかとは判るが、面倒な人とは何だ。こころはおもわず狸を思い浮かべたが口には出さない。狸の住職の話を母から聞いたことがあったが、よく考えなくても現実的ではないからだ。
「すいませんが……急いだ方がいいのではないでしょうか? これ以上雨が強くなってきたら帰りが大変なのでは?」
「子供にまで言われてんぞ、ヴィペラ」
「あぁ、もう。判ったってば。じゃ、とっとと行ってとっとと帰ってこよう」
その後、冷たい沈黙が続いて何分程経過したのだろうか。
(気まずいッ! 僕が計画した訳じゃないが、気まずいッ!)
「テメェら何ちんたらしてんだ……柱さんキレてたぜ。何かあったのか?」
胸元までの男にしては長い髪と、鋭く尖った声の男がこころ達に気安く話しかける。もっとも、こころはこの男のこと知らないが。
こんな雨の日に場違いなサングラスによって感情が読み取りづらい。頭がとっくにイカれているのか、そういう病気なのかこころが知ったことではない。だが、どうにもこの男が気に食わなかった。
「貴方、どちら様で?」
こころの大人に対しての態度としてはかなり冷たい声。ボナベラ以外にこんな態度をとることはこれまで無かったはずだ。母親を一時的とはいえ失ったからだろうか。
「質問に質問で返すのは必ずしも“良い”とはいえないぜ。坊主。それ、テストでやったら0点だからな」
年は大体ヴィペラとアズーロと同じくらい。十代後半から二十代前半か。
その癖に妙に背伸びをしていて自分より年下のこころを見下していた。こころだって年齢にしては背が高い方だが男は大人で、どうしても見下すような形になっているのがどうも虫が好かない。
「教えてくださりありがとうございます。では、ぼくらは急いでいるのでこれで……」
「待て、坊主。本気で判らねェのか?」
「はい。申し訳ありませんが……」
男が深く息を吐いた後、この雨のせいなのかかなり冷たい指先がこころの頭を襲った。
ボナベラを彷彿とさせる額への強烈な痛みを感じた瞬間、目の前から色が消える。ボナベラと違うのは力がもっと強いということ。
(──!? ──!!!)
声にもならない叫びがこころの心の中でこだまする。
ヴィペラとアズーロは地面をのた打ちまわるこころを無視して男と交渉を始める。
「……柱さんにもう少し待ってくれるように伝えてくれないか?」
「駄目だ。これ以上待たせたら茜さんにも迷惑がかかんだろ」
「そこまでか?」
「そこまでだ。アタシはアンタらをすぐに連れてこいって言われてっからよォー……これ以上待たせらんねェ」
よっぽど『柱さん』とやらは様々な面で凄まじい人らしい。
(それにしても……“アタシ”? ……いや、そういうヤツもいるか)
ふっと違和感が湧いたが今はそれどころではない。アホのように痛い額はヤツのせいだ。
高く積まれた石の塔は古びているように見せかけようとして完全に失敗しているように見受けられる。雨が降り注いで、石は滑らかに水を通す。姿だけならば滝のように見えなくはないが、住宅街の中にあったのならば違和感しかなかっただろう。
「お~い、坊主。大丈夫か?」
「ホンット! ろくなことしねェなァ! オメェーはよォーッッ!!」
「大丈夫か? じゃないだろ。オマエのバカみたい強い魔力の中に引きずり込まれて、転移にも巻き込まれて……そりゃそうなる」
現在、アズーロの怒声とヴィペラの呆えた声を聞きながらこころは地面に倒れ伏していた。強烈な吐き気と共に。
(正気じゃないッ! この男、何をやったんだ!?)
男が指を振ったら、平成後期の古臭い町並みから文明開化前にタイムスリップしてしまったようだ。例えではあるがそうとしか考えられない。それにそこまで考えたくはない。
現代とは思えない程に鬱蒼として自殺者の死体が二、三十体探せば見つかりそうな林の中でわざわざ無縁仏の墓参りに来るくらい呑気してる暇もない。
そんなことを口に出そうものなら本当に出したいものとは違うものが出てしまう可能性があるのでしない。流石に美しい宝石のアズーロとヴィペラの瞳にはそんなもの写してはならないだろう。
「こころ君、ごめんね。悪いヤツじゃないんだけど……ね」
ヴィペラが助けを求めるような視線をアズーロヘ寄越す。
「アァ? 悪いヤツだろ。オレら全員に──」
「おい、やめろ。子供の前だぞ」
男は冷たく唸るようにアズーロを抑えた。モルテとは違って怯むような様子はない。
「いいのか。急がなくて?」
「オメェらがくだらねェ話ばっかしてるからだろうがよ」
ヴィペラが少し焦りながら話題を逸らしたのだからこころの目の前でする話ではないのだろう。男も苛立ちを隠そうともしていない。
「さっさと行くぞ。立てるか、坊主」
男はこころを掴み上げようとして、やめた。こころの顔色が男が少しでも触れると急激に青ざめ、冷たくなったから。
「お、おい……」
「触わんじゃない! オマエの魔力で酔ったんだろ! 学院出身じゃなくてもわかるはずだ!」
ヴィペラの突然の大声は本当に怒っているのかと疑間がある。たったの二日でそこまで他人を思いやれる人間がいる筈がない。少なくとも山ノ瀬にはそんな人間はいなかった。
(そんなことってあるのか…………?)
そこでこころの意識は途切れた。
今のこころは人形のようにも石のようにも、………例えようとしても生物を挙げることはどうしても出来ない。四肢もぶらりと身体にくっついている付属品としか言えない。何よりも、こころの指も腕も足も、人の形をした紛い物になっていっているのだから生きているとはとても言い難い。
「オレは柱さんに伝えて、魔術薬貰ってくる!」
「あぁ、頼んだぞ! アズーロ!」
「アタシは何をすれば!?」
「「大人しくしてろ! 何もするな!!」」
男はすごすごと引き下がり、今までが嘘のように大人しくなった。そんなすぐに黙らせられるのならさっさとやってほしい。それもこころの意識がある内に。
○●○●○
「こころ君、これは気休め程度だけど……しないよりはマシだから……」
氷のように冷たくなったこころの小さな手に触れると何の傷も無く母親に守られて育てられたと一目でわかる。どんなに周囲の環境が悪くても母親が本当の敵から守っていたんだと。
ヴィペラは嫉妬している。少なくともこころを殺してしまいたいほどに。
母代わりの師はいるけれど母として接することが出来るほどに甘い人では無い。同僚で幼なじみのバンボラにしたって母にするには年が近すぎる。彼女本人はさして気にすることは無いだろうがこちらが気にする。
バンボラは母というよりも友人でいたい。だが、頭の奧の奥の方でその関係で在り続ける事を拒む。本当はバンボラと呼ぶのではなくてあの長ったらしい名前を自分が呼んで笑って「なんだ?」と返事をしてほしい。けれど、頭の奧の奥の方にやっぱりバンボラと呼べと命令される。
ヴィペラは生まれてからずっと日本にいるはずの日本人なのに幼い頃からずっとバンボラだ。先祖がイタリア人だとは知っているがイタリアに行ったことも無い。
それなのに昔からBambola……イタリア語で人形と呼び続けていることはあっていいのか。ヴィペラも彼女のことをBONABELLAと呼びたい。
(毒でも盛ってやりたいが、そんなことしたらバンボラに嫌われる……あぁ、ホンットに憎たらしいな。このガキ)
バンボラはモルテと組まされているだけあって案外他人には冷酷だ。けれど、懐に入れた人間にはかなり甘い。それが子供であれば尚更だ。ヴィペラもそれだけだったのならば特に何も思うことは無い。
昨日、母親が死んだと凜から聞かされたこころを哀む心は人狼であっても持ち合わせている。
何もしていない一般人の子供が突然母親の奇妙な死を聞かされたのだ。
こころの母親を観たヴィペラ、アズーロ、アメティスタ、シガレッタでも目を覆ってしまいたくなる程の現場だったのだから、彼女と向き合って治療しようとしたモルテとバンボラの心中ばかりは理解出来ないだろう。
だがしかし、バンボラがこころの護衛を任せられたのなら話は別だ。
こころに魅了の呪いをかけてしまうメスのヴィペラ達ではなくオスのバンボラがこころの護衛をするのは特に可笑しい話ではないのだが、バンボラの近くにいることになるのはこころになるというだけで胸がキツく締め付けられる。
我ながら子供相手に……とヴィペラは自嘲するがそれでも長い間、バンボラの隣にいたのはヴィペラのはずだ。今はヴィペラはアズーロ、バンボラはモルテと組んでいる。
だからといって、プライベートでもそれという訳ではなくプライベートで遊びに行く時はいつもヴィペラとアズーロ、それからバンボラの三人だった。その時々でヴィペラはガールフレンドも連れていったが直後に相手から別れを切り出された。
それこそ、ぽっと出の小僧に居場所を奪われて喜んで去る程に男としてのプライドがメスだからといってヴィペラに無いという訳でも無く。
「ヴィペラ、専門外のアタシが言うのはアレだけどよォ~……」
「いったい、なんだって言うんだ。こっちは今オマエの魔力を吐かせるので忙しい」
「いや、これってアタシの魔力のせいじゃねェんじゃねェかってな」
「は? ふざけるな。オマエが移動魔術を使った後からこうなったんじゃないか」
神樹茜の使用人としての証、黒いトレンチコートを着たこの男は信用出来る男であることは知っていた。専門外と男がはっきり言っている通り魔力操作はヴィペラよりも数段劣る。
「まぁ、こんな時だからよォ。少しの可能性でも考えた方がいい」
「黙ってろよ。オマエには関係無いコトだろ」
「関係無いってまぁ、別にいーけどよ。けど、処置間違ったらコイツ、死ぬぞ」
「………とりあえずオマエの意見も聞いてはおこう」
この男が軽く言うのはヤバい。大概がおちゃらけたジョークなんだが結構重要な事をこんな風に軽く話す。今回に関しては事が事なのでジョークではないはずだ。
「呪いってカンジはしねェか? なんか、こう……」
「この子も山ノ瀬出身らしいからな。可能性としてはある」
「だよな。コイツの魔力回路全体が血生臭ぇっつーか、ドロッドロしてるよ。今にもゲロっちまいそうだぜ……」
「そうか? オレにはオマエの魔力が全体に広がってるように見える」
ただ、たまたま視えるモノが違うのか。いや偶然だったにしても魔力回路の視え方に違いなどあるはずもない。
だったら、男の呪いという予想は正しいのか? いままでだって、ジョークが七割を超えているのに?
「オマエの呪いってヤツ、どれか……とかってわかる?」
「アタシが呪ってんじゃねェし……」
「そんなのは今どうでもいい。それに、こういうヤツは得意だろ?」
「まあな。けど、コレを呪いって言うのは、マジモンの呪いに失礼ってレベルでショボいぜ。なにせ代償を支払ってないからよォ」
「なんだ。術者はただの素人か」
それならばヴィペラが術を解かなくても時間が解決してくれる。
「いや、違うぜ。でもコイツの手はまだ離すなよ。テメェが魔力流してるだけでも進行は遅いみてェだ」
「……生贄が後から来るかもってことか」
遅効性の呪いで、何人もの生贄によって完成するものもある。それのことを男は言っているのだろう。
「そういうこった。──退きなよ、アタシが解術する」
この男は呪術を専門にしていても自ら解術することは滅多に無い。この呪い、随分とたちが悪いようだ。
「オレも手伝おうか?」
「………………別にいいけどよォ……」
男はふてぶてしく呟いた。今回は余計な手出しをして欲しくはないらしい。
男は杖を仰向けに寝かせられたこころの腹に容赦なく突き刺す。普通ではありえない。だが、普通ではない。ヴィペラもこの男も。──こころも。
ちゃぷん、と水音を立てて杖の先端がこころの中へと沈む。魔力回路に干渉しているのに抵抗すらしないなんてやっぱり呪いだ。
「終わったぜ。後はコイツが目を覚ますのを待つだけだ」
「──速すぎないか?」
そんな真顔で。杖を拭う男は当たり前に出来ると言わんとばかりの真顔で。
「だから、言ったろ? ショボいって」
「ショボいにも程があるだろ。これって」
ヴィペラはあからさまに、ため息を吐いた。
「アンタが言ってたヤツ半分正解だからな」
「オレが言ってたヤツって何だ?」
「術者は素人か。ってヤツ。安心しな。呪い返しはしてねェ」
男は、拳を固く固く握り締める。こころを見つめる男の目には、こころを呪った犯人への怒りと嫌悪が入り混じっていた。
「まァ、素人だろうな。一般人。もっと正確に言うんなら、ガチモンの呪具を使った素人さんだ」
「本物……か。どうやって入手したのか調べる必要があるな」
ダークウェブで取引したのか、オークションで競り落としたのか、────誰かから譲り受けたか。
本どんな方法で入手したのだとしても、魔術師でもない一般人がそう簡単に手に入れられるような代物ではない。魔術師でも人一人の意識を奪うようなものは許可証が無ければ持てない。
「魔力過多の酔いに似た吐き気と、意識不明、全身の硬直……」
ヴィペラは、この症状が出る呪いに思い当たる節がない。
「自発的呼吸あり、体温の低下。……お、脈はあるな」
「呪具じゃなくて、個人の怨念が呪いとなった……とは考えられないか? それに、その……この子は山ノ瀬出身だし」
秩序など無いに等しいあの人工島は、怨念なんかそこら中に溢れているだろうに。
男は無言で首を振る。
「可能性はあるけど……。ま、あそこは治安クソだからなァ」
「だろう? だったら、この子1人だけで被害は治まりそうだな。この症状なら、感染はしなさそうだし」
生贄が無いからかもしれないが、人へと無差別に感染して広がるような強い怨念が元となっているのなら、症状がもう少しグロテスクでR18‐Gなはずだ。身内だけに広がるものでも、R指定は免れない。
幸いこころの症状は、感染を引き起こすような強い呪いの症状とは異なっていた。
「それじゃ、こんだけショボくはならねェよ。生贄無いったって、怨念が原因の呪いはこんなんにゃならないだろ。突然変異したかもしれないけどさ」