第6話 僕は魔法使い
時は一時間前に遡る。
こころ達、三人はボナベラの部屋で倒れていたらしい。
らしい、というのは眠っていたからだ。
あの【ゴーストドリーマーズ】とやらの観せた夢の影響なのか随分と長く眠っていて、こころが最後に目覚めたのだという。あの後、使用人(一人は同僚)にそれぞれ連れられて別々の部屋へと通された。
こころが通された部屋には、瓶詰めの名前も知らない植物類からだろう穏やかな香りがする棚と輝かしい宝石類とともに何かの内臓やらがきちんと整頓され置かれている棚。そして、一際目立つのが様々な衣服を身にまとったマネキン人形と、塔のごとくそびえ立つ白い箱だった。
この部屋の全てに心が奪われるような気がした。二つの性質が見事に調和していた。
「はい。こころ君、腕上げててね」
「動くなよ。測れねェから」
(どうして僕は今、女に囲まれているんだ!?)
こころも美しい女性に囲まれること自体は悪い気はしない。ただし、その女性達に自分の身体の計測をされていなければの話なのだが。
穏やかに微笑んでいる金髪の女性はどことなくヴィペラに似ているが兄妹か何かだろう。声もそれほど高くはなくヴィペラと同じ服装をしていたら見分けることは難しい。
濃いグリーンの瞳が覗くピンクの縁の眼鏡はヴィペラにはきっと似合わない。
「動くなっつってんだろうがッッ!」
突然の怒鳴り声にびくりと肩を弾ませる。それに反応して彼女の目つきは鋭くなった。
金髪の女性はこころを慰めるように肩を叩いた。
「大丈夫。怖くないよ。真面目なだけだから」
「口動かす暇あんなら手ェ動かせッ!」
さっきから怒鳴り散らしているのは銀髪の女性だ。ポニーテールを揺らしながら淡々と作業を進めている。金髪の女性よりも背が低い分ちょこちょこと手を動かす。
別にこころが嫌いな訳ではなく仕事熱心なだけのようだ。
「次は下半身を測りたいんだけど脱いでもらえる? ズボンとパンツ」
「……無理に測りはしないがな……」
銀髪の女性は少し抵抗があるようだが、金髪の女性が目を輝かせてこころを見つめる。拒否権はあるようだ。
「え~っと……脱がなくちゃいけませんか……?」
自分も流石にこの美女達にパンツの色までは見られたくない。
「あぁ、目測で大体の検討はつくしな。正確にするんだったらやっぱり下も脱いでもらうしかねェ」
「じゃあ、脱ぎません」
即答だった。
「えぇ~脱いじゃいなよ。そっちの方が楽だよ」
金髪の女性を銀髪の女性が殴った。そこまでする必要はないらしい。
「ヴィペラ、テメェ! 何セクハラしてんだ!! 上だけで杖はどうとでもなる!」
「正確に作った方がいいじゃん。杖にしても服にしても合ったのじゃなきゃ後々困るのこころ君だよ?」
「それをどうにかするのがオレらの仕事だろうがよォ一!!」
「だからさ、今のサイズ測っとかなきゃサイズ変わった時すごい大変なの知ってるだろ?オマエは杖だけだからいいけどさ」
「なんだとこのヤロウ! 杖だけって、村作んのどんだけ手間暇かけてると思ってんだ! オメェも服だけのクセして何様だよ!」
「服だけだって? 割と大変なんだぜ? 例えばどっかの“B”のつく人がボロボロにして帰ってきたりとか」
“B”のつく人、ボナベラのことか。
「そりゃ、確かにそうだけどよォー! アイツはしょうがねェだろ、もう! それにサイズの話してたんだろーが!」
「いや、しょうがなくないんだよな。アイツ、オレがどんだけ高くて珍しい素材使ってんだか知らないし。サイズもアイツちゃんと測れなかったから予想で作って合わなくて作り直しとか普通だから」
「え~っと……すいません。動いていいですか」
駄目だ、聞いちゃいない。
屋敷内でボナベラと話していたくらいだから屋敷の関係者ではないかと推測できる。だが、それにしても屋敷の関係者はクセが強い者ばかりだ。
「落ち着け。この子が怯えている」
背が高く全体的に冷たいイメージを抱くこの女性は『モルテ』さんという。彼女だけがこころに名前を教えてくれたのだ。
珍しい色素の薄い白い肌と毛髪にルビーのような瞳のいわゆる『魔術性』アルビノというらしい。魔術を使っていたらいつの間にかなっていたそうだ。
「「だって、モルテ!」」
「俺からバンボラに注意しておく。それでいいな? この話は終わりだ」
有無を言わせぬモルテの圧に二人の女は押し黙った。今のモルテはこころも怖い。
モルテはこころには穏やかな口調、というよりかはただ子供が好きなのだろう。
「君はどうやら能力者と魔術師どちらの適性も持っているようだな。バンボラから聞いているよ。そうだな……俺が君に少しだけ授業をしてあげよう。嫌ならば無理強いはしないが……」
こころとしては彼女の申し出は嬉しいものだった。けれど、こころには能力者とは何なのか判らない。
(婆さんのトコの使用人を信用する訳にはいかないしな。僕だけが母さんを知ってるんだ。あの優しい母さんを守れる(治せる)のは僕だけだ)
「どうした? 具合でも悪いのか?」
いけない。また見つめてしまったようだ。ボナベラにならまだしも親切にしてくれている女性に失礼だ。
「いえ、大丈夫です。お姉さんが綺麗でつい見入ってしまいました」
モルテは目を見開くと、くすりと笑った。冷徹に見えた彼女が確かに笑ったのだ。
「残念ながら俺は君が思っているような人間ではないよ。君には女に見えているかもしれないが本当は男さ」
男? どうみても女にしか見えないが……。女装だとしたら男性らしさが少しは残るだろうし、心が男性なのかもしれない。モルテが男ならばボナベラが男の方が正しいような。
「でも、綺麗だと思ったのは本当ですよ。お二方だって大変お美しい方ですし」
三人は苦笑いを浮かべる。
「えっと……オレらのこと憶えてない? 一緒に車乗ってここに来たでしょ? オレは今朝、君と話してたんだけど」
「もしかして……ヴィペラさんですか!?」
「うん、ついでにこっちはアズーロ」
「ついでってなんだよ! ついでって!」
アズーロがヴィペラの脛を蹴りつけた。そんなことなどどうでもいい。
「まあ、魔術師にも色々あるってことさ。能力者にもな」
モルテの一言は今日一日の出来事を納得させられた。ボナベラの髪も猿の人形も。──母が岩になったことも。
「教えてください、貴方達の世界のこと。僕は知らなくてはならないんです」
ヴィペラが飴玉を寄越した。蜂蜜を飴に閉じ込めたような色で中の液がトロリと回っている不思議な代物だ。一般に出回っている物とは種類が異なる。
「魔力回路を強制的に開けたって言ってたからさ、アイツ」
「魔力回路?」
「いいから、飲んでみろ。決して噛むんじゃないぞ。骨が融ける」
モルテの忠告を聞くと、こころは噛まずに飲み込んだ。
すると、体中にビリリと強い電流が流れるように血液が、筋肉が、細胞が、熱に当てられた。熱が高速で体中の隅々まで走る。唐辛子を山いっぱい食べたような痛みが舌を焼く。こころの体中からは湯気と汗が滝のように噴き出している。
耳には轟音が鼓膜を焼きつくそうとしている。最後に胸の中央部に焼けるような熱さを残して、それらは消えてなくなった。
「スゴいな! オレらなんか目じゃない魔力だ! それに火属性だぜ! 凡庸ではあるが応用が利くし、いいのを引いた!」
ヴィペラは大はしゃぎでどこからか取り出したスケッチブックで一心不乱に何かを描き出す。鉛筆は光の玉を放って植物の棚の奥から色とりどりの布達がドラゴンの鱗、人魚の涙、不死鳥の羽根、こころの知っている物では蛇の抜け殻、乾燥ゴキブリ、烏の眼球、その他にも様々な物がパレードのようにヴィペラの周囲を飛び回った。
「なあ! こんなのはどうだ! ルビーを溶かして染めたジャケット! 裏地は火付きライオンの火!」
「えっと……」
「お次は、トリカブトとバジリスク、ツキヨタケの毒染めシャツ! 毒染め(こいつ)はすごく危険なんで専門家に手伝ってもらった!」
「あの……」
「それに、三十年生きた大豚の皮をなめして作ったベルト! 大豚はデカい分寿命が短いのにこいつはとんでもなく長生きしたヤツだ!」
「その……」
「おお、そうだ! 魔力暴走を防がなくっちゃあ……帽子だ! それもとびきり上等なのを用意しよう! ……生地はアラクネ印の黒糸、リボンも付けて。リボンは不死鳥の尾羽根を加工して! 中央には勿論、賢者の石! これで決まりだ!」
「もしもーし……」
「何だ!? こころ君か。このデザインがいいと思うんだがどうかな? 服には相性ってものがあって、君にも選んでほしいんだ」
渡されたスケッチブックをパラパラと流し読みすると、多種多様な服を着たこころのイラストが全てのページに描かれている。どこかの民族衣装を着たこころ、魔法使いのコスプレをしたこころ…………。
正直言って気持ち悪い。バニーガールやミニスカートを履いたこころもあり、それらからは全力で目を逸らした。
「モルテさん」と小さく呼びかける。
モルテは「いつものことさ」とでも言うように鋭い視線を寄越した。その鋭さはこころに向けたものではなく、ヴィペラ宛てのようだが。
「くらえ! ROCK!」
ニ、三歩程歩いてからモルテが叫ぶと同時にヴィペラの体内から血液と共に赤黒い鉄の鎖が顔を出す。
アズーロが急いで大きな手でこころの目を覆ったので、そこから先は音しか判らない。しかし、ヴィペラの絶叫は凄まじいものだ。
「能力体の方は後にしとけ……」
過去、同じように攻撃された者の言葉には重みがあった。
こころはそれにこくりと肯く。
(あんなヤツらと戦うことになるのか……。僕は魔術とやらの方がいいな。何より綺麗だし)
こころはボナベラの美しい炎の森と同じ物を作りたかった。ボナベラに出来るのなら自分にも出来るはずだと。それを母に見せたのなら喜んでくれるだろうと。そう、考えた。
ふと、目の前を覆っていた暗闇が光へと変わる。急に手が外されたのでこころの目はちくちくと光に刺された。
「もう、終わりましたか?」とこころが質問する頃には、血の跡も傷もヴィペラの体には無かった。そのかわりに桃色に輝く蛇の鱗が至る所にびっしりと、それこそかさぶたのように貼りついている。
「頭は冷えたか?」
「あぁ、そりゃ真っ青になるくらいにな」
ヴィペラがジョーク風に言ったが誰も笑うことはない。
モルテが低く唸るとアズーロとヴィペラは小さく縮こまってしまう。
「こころ君、大丈夫だよ。これはバンボラが前に魔術薬作っててうっかりオレにぶっかけただけだからさ。結構便利だよ。傷だってすぐ塞がる」
眼鏡から覗くヴィペラの瞳は獲物を狙う蛇の目のようだ。彼の美しい顔をこの時ばかりは蛇のようになっていた。
「オレが作る服ってのは特別製でね。もちろん、アズーロの杖もだけど。────魔術師は自分が持つ魔力分だけ魔術が使える。それに魔力は有限だ。魔力は全てのものが含んではいるが古代と比べたらほんのわずかなものさ。で、その有限な魔力をいかに有効に使うのが『魔術師』なんだ。能力者なんかとは格が違う」
さらりと言った。同僚の一人が能力者だというのに。
「オレはこの屋敷で魔生植物の栽培、研究、管理を基本的にしてる。それに、今みたいに特別製の服を作ったりとかね。君が「スゴイ」って言った木や花は全部魔生植物だったのさ。知ってる名前は一つもなかっただろう? 魔生植物は魔力が充分ある環境でなきゃ育たないから、こんな街中で育てられるのはすっごく稀なんだ。まあ、この土地がそのまま茜さんの凛さんの余剰魔力を吸収してるからってのもあるだろうけど」
楽しげに語るヴィペラを見るアズーロとモルテの視線が鋭くなる
「オレは能力者だけど魔術師でもある。オレの能力体は自分の身は自分で守らなくちゃいけないタイプでね。ついでに命令も碌に聞かないのさ。だからオレとしては『魔術師』をおすすめするよ。君が使えない能力体を発現したとしても身を守れるようにね。大丈夫、君は『闇の血統』だからどちらにしても強くなれる」
「──ヴィペラ、いい加減にしろ」
恐ろしいくらいに睨みつけながら、静かにモルテが言った。
「そうだぜ、ヴィペラ。オメーとは長い付き合いだがよぉ~今のは『契約違反』だ。せっかく、茜さんが隠してんのによぉ~」
アズーロがヴィペラを乱暴に引きずっていく。ヴィペラは自分のしでかしたことを後悔するように、大人しく連行されていった。
*
(『闇の血統』? 何だ、それは?)
モルテは自分の頭に手をあてながら、こころの心の中を覗き見たかのように溜め息をつく。
「『闇の血統』について知りたいんだろう……教えても構わないが、それはやはり『契約違反』になってしまう」
忌々しいとばかりに今まで少しも表情の変化がなかったモルテの顔が歪む。
「『契約違反』?」
予想だにしていなかったことを訊かれたとモルテは少しだけ考え、そして答えた。
「あぁ。……──俺達は所謂『人狼』と呼ばれる怪物だからな」
こころが少しだけ距離をとると、モルテは慣れているようでそのまま話を続ける。
「『人狼』ってあの? 夜に狼になって人を食べる?」
こころが思い浮かべたのは母と見たホラー映画の裂けた口からは喰い殺した人間の鮮血が滴り落ちているような怪物の姿だ。
「そう怯える必要は無い。そうだ。先生……ヴィペラ達は茜さんと呼んでいるんだったな。先生が死なない限り俺達が人間を食べるようなことはない。先生との契約が俺達を縛っている」
「その契約とは何ですか?」
自分の身の周りの不思議な事柄の正体はきちんと知っておかねばならない。
「……先生の直系でなければ答えない質問だがな。怪物を従えることは出来る。だが、契約の数は強力な怪物になればなる程必要数が多くなるからその契約に主となる者が費やす魔力量も多くなる。魔術での契約は魔力を用いるからな。──俺達のような人狼は三つ以上でなければ契約が出来ない」
「では、どのような契約内容なんですか?」
彼らの内側にこころは入り込む権利を持ち合わせていない。それでもモルテは最大限自分が教えられることをこころに教えてくれようとしている。
モルテは表面からは鉄のような男に見えるが、内面は暖かい男だ。こころが質問をする理由をどこか知っているように全て答えてくれる。
「他の奴等とは俺が主従契約をしているからな。先生は俺と十三の契約をした。俺達全員からは十二個、先生からは一つだけだった。それも契約の魔術が記されていた魔術書に主従共に必ず一つは条件を出せとあったから、渋々といった様子だったが。その一つだけの条件こそが──『闇の血統』の者達、ここでは先生の子供と孫の君のことだが、真に自らの忌まわしい血の元凶を知りたいと願わない限り決して彼らの前で口には出すな、というものだ」
モルテが言い終わると同時に疑問が湧いてくる。それは、今まで普通の(といっても治安は悪かったが)世界に暮らしていた人間が持って当然のものだ。
「忌まわしい血の元凶とは?」
「君は今まで一般人の世界にいたのだから知らないのは当たり前だが。……今朝、旦那様──神樹凛と君は朝食を食べたそうだな」
こころは今朝の出来事を思い出し、顔をしかめる。凜が嫌いな訳ではないのだが、もっと気に食わない人物が自分を護る重要な役割についたことが未だに腹立たしい。
「はい。それがどうかしましたか?」
「旦那様の父親がその『忌まわしい血の元凶』の息子だ。奴は約七十年前に旦那様のお母様とその兄弟が討ったという。奴の名は『デミアン』。本名『ダミアン・ブラック』。俺が知る中で最低最悪の男さ」
『ダミアン・ブラック』? 夢の中の少年と同じ名だ。けれど夢の中のナレーションに似た声では十九世紀後半と言っていた。同姓同名の後世の人物が悪事を働いたとも考えられるが、心晴や晴陽、それから凛と似通った容姿の少年が同一人物ではないかと思い始めている。夢の中、それもはっきりと覚えていられるものを信用していいのかということも考えられるが。
「何故、何故ぼくの祖母は『デミアン』──」
「そいつと呼んでくれ。名を呼ぶ必要は無いし、何より俺はそいつが心底嫌いでね」
こころはモルテに遮られた言葉をそのまま続ける。
「──のことを話してはいけないとしたのは何故でしょう? モルテさんは話してくださいましたが……」
こころは今日が初対面の人間にここまでの質問責めをしたのを急に申し訳なくなり、声が少しずつ小さくなる。
「そいつの子孫であることを誇りに思う可能性があるからだ。実際にそいつの息子の内三人が犯罪を犯したことがあるらしい。といっても五十年前の話だからそこまで気にしなくていい」
(僕はあんな人殺しの子孫だってことを誇りになんて思わない! あのダミアンの父親、ダズビーの子孫でもあるってことかもしれないのに! そりゃ、夢と現実は違うかもしれないが……きっとそうだ。別人だ。きっと)
ダズビーのゲス野郎のことをこころはどうしても許せない。酒に溺れ、妻を死なせ、娘をこき使って最終的に殺したあの男のことをこの目で見たのだ。復讐に取り憑かれたあの美しい少年がダズビーを殺したときには自分もダズビーを殺したくなった程だから。
「それと、申し訳なく思ってるようならそれは違う。俺はバンボラの相棒だ。俺達、使用人は二人組になって仕事をする。今回の君の護衛の仕事も俺がアイツと組む。だから遠慮なんてする必要はない」
実際は少しも表情は変わっていないが、モルテの顔は穏やかに見えた。
「君がもし、俺に訊きたいことがあったら何でも訊くといい。バンボラはそういうのは専門ではないからな」
雪に溶け込んでしまいそうな彼はどこかから椅子を取り出しこころを座らせた。
モルテの出してくれた椅子に二人で座りながら彼の話を聞くのは、昨日の夜にヴィペラが植物の話をしてくれたくらいに楽しい時間だった。
モルテの話は大体が仲間の話やこの町の話だったが、彼の無関心に見えるくらいな表情もその時ばかりは気にならなかった。
例えば、シガレッタという男が弟のペスカを甘やかして困っているとか、今年のヴァレンタインにラッテという男が悪戯好きで相棒を巻き込んで屋敷で飼育している魔生生物を全部ピンク色にしたとか。
その他にも面白い話が次々に飛び出してくるので、こころは母が亡くなった翌日だというのに笑い転げて、床にころがされていた布を踏んで転んでしまったほどだ。
思いの外話し込んでしまったと、こころが自分の部屋に戻ろうとしたとき、ちょうど午後三時の鐘が鳴る。
モルテの話の中にも屋敷の時を知らせる鐘の音はあふれる程にたくさん登場していたからこころはこの鐘のことを知っていた。
「そろそろ、三時だな。菓子を出そうか」
モルテが椅子をぎしりと押して立ち上がろうとすると小さな白い蝶が部屋にいきなりひらりと飛び込んできた。いや、蝶というのは正確ではない。
紙の鳥だ。折り紙のように白い紙を折っていったのならこころでも作れるような。
鳥は所々日に焼けて黄ばんでいる羽根を上下させて、フラフラとモルテの白い手に着地した。
鳥はクシャクシャで柔らかく何度も折られたことが判る。生物のように飛んでいたのが嘘のように鳥は着地したとたんにピクリとも動かなくなった。
(菓子はいらないが、この紙は欲しいな。バアさんならぬジイさんにねだってみるか)
注意深く紙が動かないかと観察する。モルテが解体して一枚の紙に戻してしまったから、もう動くことはないだろう。
モルテは落胆するこころを横目に鳥の紙に書かれていた内容に溜め息をついた。
「すまない、君に菓子をやることはできなくなった」
モルテが申し訳なさそうに謝罪の言葉を並べたが、こころは菓子を食べなくて済んだ方が嬉しかった。朝食とボナベラの部屋で食べたチョコレートが未だに腹に残っていたから。
「先生に君が今度から通う星条学園に入学する準備を買いにいけと命令された」
モルテは途切れ途切れに話してこころが知らないことを質問する隙間を作る。モルテは彼の相棒とは違って親切な男だ。
「星条学園に『入学』……ですか? ぼくは四年生ですよ。『転校』じゃないんですか?」
「『入学』で合っている。君には強い魔力と能力者の才があるからな。それを暴走させないようにするための措置だろうさ」
懐から羽ぺンと真っ白な折った跡の無い白い紙を取り出し、羽ペンで返事を書きながらモルテが答える。羽ペンはインクをつけなくとも紙に黒い点と線をくっきりと残していた。
「では、星条学園とはどのような学校なのですか? 山ノ瀬では一度も聞いたことが無いのですが」
「俺達のような人狼(怪物)を入れない正真正銘の名門校だ。数十年前に怪物を生徒として招いたかららしいが、俺は理由は知らない。…………話が逸れてしまったな」
彼が少しの嘘をついたことにはこころは知らないふりをした。踏み込まれたくはない所は誰でもあるのだから。こころにも、彼にも。
「いえ、大丈夫です」
「すまない。ただ、俺達が良い印象を持っていないことをおぼえておいてくれていたらいい。──星条は魔術科と能力科という二つの科がある。君は恐らく魔術科に組み分けられるだろう」
モルテは嫌いなモノに対しての感情が幾分か読み取りやすい。
「これを本人に言うのはバンボラに後で調子に乗るなと殴られそうだが……君ははっきり言って魔法使いになれるかもしれないからな」
「魔法使い?」
「そうだ。魔法使い。難しい話だから簡単に設明するが、歴史上数名程しか確認されていない偉大な魔術師のことだ。“偉大”といっても善行であったとは限らないが」
「もしかして────」
『ダミアン』もだろうか?
その言葉が出ることはなかった。
もし、続けていたのならモルテがどこかへと消えてしまいそうだったから。
「それ以上言うな。そろそろ屋敷を出よう。日が暮れたらこんな田舎でも危ないからな」
こころは遮られなくとも続けることはなかっただろう。
手の中の紙を器用に片手で折って、金属製の杖で叩いた。すると、たちまち紙は鳥となり飛び立った。
「今日は、赤永寺から制服を買いに行ったらどうだ。俺はこれから仕事があるから付き添うことは出来ないが、その代わりにだがアズーロとヴィペラをつける。さっきは少し不安定になっていたが、普段は気のいい奴らさ。もしも、何かあったのなら、あー……無いことを祈るが、この紙鳥を使って俺に連絡をくれ。すぐに飛んでいく」
モルテが杖を一振りした途端、モルテは消え、その代わりにアズーロとヴィペラが姿を現した。モルテの高い身長の代償なのか十五センチ上に現れて尻餅をついた。
「なになに?」
「あぁン!? どうなってやがんだッ!」
昨夜と同じ姿。昨夜と同じ声。
女から男へと戻った彼らが目の前にいる。
「こころ君、どうしたんだ? モルテが何かしたのか?」
確かにモルテは何かした。彼らを男に戻すことだ。
(元に戻すなんて! なんて、酷いことを!)
実はこころは整ったモノが好きである。特に美しい女性、主に彼女らのような。
何も女性だけが好きというのではなく男性も整った顔立ちであれば好ましい。
もちろん、ボナベラは美しい外見だが性格が最悪なので大嫌いである。本性が知られているのもあるが。
「モルテさんに赤永寺から製服を貴方達と買いに行けと」
「ん? いいよ。なんだ、そんな話してたんだ」
“先に言ってくれたらよかったのに”やら“ボナベラがまたやらかしたのか?”やら二人は口々にぼやく。何事もなくて良かったと安心していた。
男でも美男の類に入るヴィペラも、童顔気味なアズーロも、昨日は混乱していてよく見ていなかったが男の姿でも美しい。モルテもかなりの美女だったが。
「君に何もなくてよかったよ。うちのリーダーはおっかないからさ」
ヴィペラの陰口ではなく、親しみを込めた“おっかない”はモルテのことを信頼していることが判る。
「ヴィペラよ。モルテはあんなんだが、オレらん中じゃマトモな方だぜ」
アズーロが自分自身がマトモではないような口振りで言ったのは少し気になる。
ボナベラと比較したのならかなりマトモだとは思うのだが。
「そうだなアズーロ。マトモな方だ」
穏やかなヴィペラと感情的なアズーロの名コンビはショートコントのような会話を繰り広げた。
ボナベラと母のことでさえなければこころは割と冷静であれる。
ボナベラに関してはいうまでもないが、昨日まで会話をしていた母を忘れることが出来ないだろう。それも岩なんてものになってしまったらしいし。
「おっと、さっさと行かないとな。赤永寺は遠いから。────アズーロ、車出してくれ」
「出すけどよォ。バンボラにバレんじゃねーか?」
「いいよ。アイツ意外と鈍感だから」
こころは心の中でその意見には反対する。鈍感だったのなら自分の本性だなんて判る訳がないのだから。
(なわけないだろ。僕の本性だってすぐ見抜きやがった奴だぞ。──もしや何かあるのか? ボナベラに知られちゃいけない何かが)
それに、彼らのバレちゃいけないことがボナベラにバレたのなら彼女はきっと怒り狂うだろう。サプライズのパーティーやプレゼントなら別だろうが。
(あの乱暴な野蛮人のボナベラが自分にあたらなければいいが……もしも、僕に被害が出る可能性があるのなら早めに逃げよう)
こころは昨日からの付き合いでもボナベラの薄っぺらな脳みその中身なんてお見通しである。
山ノ瀬での生活で培った知恵だが、環境が人を作ったとはよく言ったものだ。
「さ、行こうか。日が暮れたら行けなくなるからね」
いつの間にやら、窓ガラスから差し込む光が暖かくになっている。そんなに話をしていたつもりはないのだが、そんな時間になる程に眠っていたのだろう。
屋敷の外に出た時の田舎の空気といったら言葉にすることは大変難しい物だ。
母がただの少女だった頃に暮らしたこの町の風は、今もこの町に吹いているのだろうか。
こころはそんなありえないことを一人で問いかけていた。
母のことを治すためにこの町に来ているのだ。ボナベラは大嫌いだが、親の故郷であることが今はこの町に留まっていたい理由になるだろう。
母はこころの顔も知らない父親を待って山ノ瀬に留まった。
こころが“帰りたくないのか”と訊いた時も“帰って家族の顔を見てみたいけど、今はあの人も大切な家族だから”と一歩も譲ることはなかったのだから。
そんな母(心晴)の血を受け継ぐこころは大切な家族を守りたかった。
屋敷は昨日とは違って、見送るように夜には黒かった赤煉瓦の壁面が太陽に照らされていた。
昨日も檻のように見えたが今日も変わることはない。
人間の心を捕らえて放そうとしない。
巣立ったとしてもまた、帰ろうと思える。帰ってきても“おかえり”と迎えられる。
そんな屋敷を檻と呼ばずになんというのか。
「すみません──この屋敷にまた戻ってくるんですか?」
明るい光の中に立つヴィペラとアズーロはこころには眩しかった。
「何言ってるの、ここが君の“家”だよ」
「そうだぜ。だから、いつだって“帰って”きていい」
山ノ瀬の泥の中で育ったこころは母にしか同じ気持ちを持たなかった。
胸がどうしようもないくらい暖かいなんて、────きっと、太陽のせいだ。