第4話 ゴーストドリーマーズ
「なァ~に、ぶすくれてやがんだよ~ッ。決まっちまったモンはしょうがねェだろォ~がよォ~」
ボナベラの足の踏み場もない部屋に急遽用意された古い勉強机にこころは突っ伏していた。
「あんたには解らないだろ。僕の気持ちなんて……」
主ではなくその孫を護衛せねばならない使用人に気持ちを計るなどできなかろう。ましてや男ではなく女だ。
女性全体を軽く見る訳ではないが、女に命を助けられるというのはどこか羞恥心をおぼえる。
ついでに言うと嫌いな奴に護られたくはなかった。
(オマエが余計なこと言ったせいでこうなったんだろうがッ!)
神樹家に君臨する帝王に侮辱の言葉を投げつけ、その後自身の主に下げ渡された女を睨みつける。
「アタシだって護衛任されるとは思わねェしよォ」
「だからって……そういやぁあんたには何を言っても無駄だったな。すまない」
イヤミ混じりでそう言うと、ボナベラは顔をしかめる。
「主人(茜さん)の直系に言うのもアレかとは思うが……アタシ、アンタのこと嫌い……」
「嫌いで結構さ」
二人は上品な面から溜め息を吐き出した。
暫くこころが紙を捲る音のみが二人の耳に聞こえていた。
「あぁ~……菓子食うか?」
気まずい沈黙を終わらせたのはボナベラだった。
こころがそれに頷くと、奥に見える乱雑に整理されたキッチンから菓子類の入った籠と二つのカップを持ち出していた。
「チョコでいいか? アンタの叔父貴も好きだから好きなんじゃねェかってな」
ボナベラは籠に手を突っ込むと銀紙に包まれた2、3個のチョコレートを差し出した。
差し出されたチョコレートを包み紙を剥がして口に纏めて放り込む。
「あんま食うと歯痛になんぞ」
「ふぁいふぁ(歯痛)?」
「……ソッチじゃそう言わねェのォ? 虫歯だよ。虫歯」
こころの元来の甘党を見透かしたような言葉がとても羞恥心をおぼえさせられた。
(…………! 子供扱いするんじゃないッ!)
そんな女の忠告など知らぬとばかりにカップに注がれた紅茶を空にした。
ある程度の時間が過ぎ、携帯の着信音が喧しく持ち主を呼び立てていた。
「鳴ってるぞ」
「あんま出たくねェんだが……」
ボナベラは目を激しく泳がし動揺がこころにまで伝わってくる。
よほど電話の向こうの相手を嫌がっていると観えた。
「嫌いなのか?」
「いや、別にそんな訳じゃねェんだが……ただ、メンドっちいんだよなァ……」
携帯の画面をおぼつかない手付きで操作し、やっと着信音が鳴り止んだかと思われたが、
「──酷いじゃあないですか。電話に出てくれないなんて」
と少年は微笑んだ。
気付かれないように部屋の中に入るだけならばどんな人間にも可能だった。なにしろこころもボナベラも携帯に意識を向けていたのだから。
彼は不気味だった。
祖父に似た面持ちの少年は何処かを吹く風である。大樹に走る生命である。──黄金に輝く魂である。
グリーンの瞳は新緑の木洩れ日を、日に焼けていない肌は降り積もった白雪を、金の頭髪は暖かい太陽を想わせた。
少年は神の子に見えた。
こころは神を信じてはいなかったしこれからも信じはしない。
けれど、彼が神の子ならば風のように部屋に入り込むことができたと思える。
(だが、何処か──?)
本棚から4、5冊の本が転がり落ちた。
それに気づいていないフリをしながら紅茶を啜る。
「テメェかよ。茶ァシバくってだけならお袋さんトコいきな」
ボナベラは少年を見据え低く唸った。主人の若すぎる息子は禄でもない案件をよく持ち込む。今回も同じようなものだろう。
「いえ、そうではなく。御茶は後でいただきますが。──貴方に少しお聞きしたいことがありましてね」
彼──神樹晴陽はそう言ってある2枚の写真を見せた。1枚目は少し華美な装飾がされている金属製と見られる刃物の写真。2枚目は20代前半から10代後半程の若い女性が刻まれている岩石の写真。どちらも何の目立つモノもない、強いていえば白黒で撮影されているということだけだ。
(1枚目、こりゃあナイフか? どっかで見たような……つったってアタシんじゃねェし……。2枚目はこれ、凜さんが館に飾ろうとしてんのかな? なんかあの人に雰囲気が似てっけど……)
「コイツが何だってんだァ? アタシは生憎専門じゃなくってな……他のヤツに聞いた方がいいぜ」
晴陽は首を横に振り、1枚目の写真をボナベラの部屋のテーブルの上に置き、自身も椅子に腰掛けた。
「この金属器に見覚えはありませんか?」
似通った二人の賢い少年に少しの憐憫をおぼえつつも自身もあまり質問に答えられる立場でない。
「どっっかで見たような気もするが……知らねェな。つーか、勉強しろよ学生はよォ」
それは彼等が知ってはいけないことだったからだ。巻き込まれてはいけないことだからだ。
何よりも自身や仲間達がとっくの昔に決めている覚悟は弟よりも幼く、自分達が護らなければならない彼等に決して背負わせたくはなかった。
「だったら貴方は少し礼儀作法を覚えた方がいいですよ」
「そりゃ余計なお世話だっつーの!」
軽口を叩きながらも警戒態勢に入る。写真自体には警戒すべき物でもなかった。ただの紙切れにすぎないからだ。
危険だったのは被写体だ。いや、メインで写っている物に問題は無い。写り込んでいるモノが問題だ。
心霊写真のごとく薄ぼんやりとしか視られないが気配がある。
「──! テメーらッ! その写真から離れろォーッ!」
瞬間、写真はただの紙切れではなくなった。平面から立体へ、二次元から三次元へ変化する。
『ウキキッ! テメェバカナノカァー! 離レサセタトコデヨォーッ! オレハモットモッ! モットモッッ! モッットモッッッ! 強インダゼェーッ!』
写っていたモノがはっきりとこの世に現れる。それは不気味にデフォルメされた猿の人形に視えた。
ゾッとするのは不気味なソイツが4体もいるということではなく1枚目に写るナイフがどこかへ消えているということ。
「アンダーラバーズッ!」
側に現れたつのは自身の半身。ボナベラの能力体は暗殺向きの戦闘能力だがボナベラ本人が殴りかかるよりもよほど殺傷力がある。
なおかつ敵が能力体であった場合、能力体がモノと融合しているのなら話は別だが能力体は能力体でしかダメージを与えられないのが基本だ。
ついでに群集型だというのが厄介だ。能力体は基本的に1体につき1つの固有の超能力を持っているもんなのだが群集型は全体で1つの能力を持っているかわりに1体ずつにダメージが分散されて全滅させるかそれに近い行為を行わなければ倒せない。
(アンダーラバーズじゃあんまし相性が良くねェ。群集型は1体ずつに毒打ってってもさしてダメージ入らねェし。つったってアタシしか能力者はいねェしよォ。ま、どっちにしたってアタシが殺るしかねェが)
アンダーラバーズの髪を網状に絡ませ床に放り投げる。
「な、なにをやってるんですか!?」
晴陽が能力体を見えることに驚きつつ冷静な風に装う。
「小僧にゃ見せたこたァなかったか? つーか見えてるってのは後で報告するしかねェんだが」
目の前にいたはずの猿が何処かに消え失せていた。
対能力体戦では珍しいことではない。といっても自身は仲間内での戦闘訓練ばかりで実戦の話は分からないのだが。
『テメェラニソンナ「先」ハネェゼェーーッ! 孫ヲ始末シタラソノ後ニブッ殺シテヤルッ!』
こころの顔面に張り付き右目の近くで眼球に写真の中のナイフを突きつけている。
狂人じみた様相ある意味予想通りと言ったところか。この能力体を発現させた能力者はよほどの癇癪持ちか麻薬中毒と思っておいていいだろう。
「やってみなよ……潰すんだろ」
突然こころが口走った諦めともとれる言葉に茫然と立ち尽くす。確かに目が見えなくても生きている人間もいるが自ら見えなくともいいと言う者があるものだろうか。
「アンタ、何言ってんだッ! ふざけてんじゃねぇぞ!」
諦めによる覚悟は勇気とはいえない。不可能と判りきっていることを隠して進むようなものも同じだ。
それは命をただただ捨てるだけの行為で生命が無駄になるだけだ。
少なくともボナベラはそう思っている。
(やめろ! 挑発すんじゃねェ! アンタはそんなこたァしなくていいんだ!)
護るべき子にその覚悟をさせたのはボナベラ個人としては己を罰するべきところであり小さな主人として見るのならば尊ぶべきなのだろう。
『クケェーッ! テメェガソノ気ナラヨォーッ! ヤッテヤルゼェー!』
一瞬だった。
猿人形のナイフがこころの右目に突き刺さったのは。
「坊主ッッ!」
ボナベラの口から飛び出た音が消える時その場に人間はいなかった。
*
深い夢から意識が浮上してくると視界が暗闇につつまれているのがかろうじて判る。
「坊──! 坊主! おい大丈夫か!」
特徴的な低い声が頭に響く。あの猿に刺されたナイフに薬品でも塗られていたのだろうか。だが、視界も良好で失明しているのかは判らないが日常生活には支障はない。
「う、うん…………」
「よかった。意識は戻ったみたいですね」
先程の少年が穏やかに微笑んだ。何処かで母の面影を思い出させる微笑みに暖かい涙が頬を通り過ぎていく。それに美しいからではなく人間的に引かれるものがあった。
いつの間にやら少年の頬が近くにあった。暖かな陽射しに包まれたような感覚と肩にまわされた細くとも逞しい腕には同性であるというのに羞恥心を感じなかった。
「お~い、2人だけの世界なのはいいがここがどこなのかってのを考えんのが先じゃねェの?」
先程から声がしていると思っていたが「ヤツ」だったとは。この世で最も嫌いなものでランキングを作るとして「ヤツ」はかなりの上位に入るヤツだ。と声の持ち主の方向へ視線を送る。
「すみません。彼を抱きしめなくてはと……少し……」
少年はこころを離し申し訳なさそうに頭を下げた。
こころは命の恩人という訳ではないが彼に頭を下げさせたのは自分であるというのは恥を覚えずにいられなかった。心配して行動を起こしてくれた人に、そしてその行動で少しだけでも己が救われたのだから。
(アンタが謝罪する必要はないのにどうしてだ!? 悪いのは全て僕のはずだ!)
心の中での彼を弾劾するとこころお得意の人の良さげな彼の本性を知る者達が見たら呆れ果てるほどの人柄を演技をした。けれどこころは「ヤツ」に本性を明かしてしまっている。「ヤツ」は妙に勘が鋭くまともに話したのはほんの数十分ほどだが「ヤツ」は割とふざけた人間だ。
──最悪彼にこころの本性を教えるかもしれない。
「小僧、ソイツぁこころってんだ。アンタの甥っ子なんだとよ」
「ヤツ」ことボナベラは軽い調子で指をこころに向けた。
「「はァ!?」」
「おぉ、揃った」
突然あっけらかんと言われた衝撃的な事実に2人は目を丸くする。
言った当人は世間話をしたつもりなのか2人の驚いた様子にビクリと肩を動かしていた。
「んでコイツが晴陽つってオマエのオジさん」
「ちょ、ちょっと待ってください。心の整理ができてないんです! 急に言われても困っちゃいます」
小さい子供を諭すような口ぶりで少年は自分の少し上くらいのはずだが桃色の頬を膨らませる。
幼さも感じられる姿は母によく似ていた。
「だからって伝えなくてもいいってワケじゃねェって?」
ボナベラは晴陽が頷くと、
「だってよォ~アンタらがデキちまったら茜さんストレスでぶっ倒れちまうぜ? 今も結構ヤバいのに」
と真剣な風に言い切った。
ヴィペラと感情を前面に出して言い争いをしていたから恋愛が絡むと案外真面目だということかもしれない。と言ってみても自身と彼を偏見の目で見ていたというのは変わらないのだけれど。
「デキる? 恋愛関係といった意味でですか? 僕達が? それはありえないですよ。家族や友人にハグやキスをするようなものでしたから」
少年は穏やかながら丁寧に否定し、この話は終わりとばかりに手を叩いた。
晴陽はボナベラに主導権を握らせているように見せているけれど本当はボナベラを裏で無意識下に命令のようにして彼女を操っているようである。
年若い少年ながら周囲の者を自身に惹きつけるのは、まさに母や祖母だと思っていた祖父によく似ていた。
●○●
「ってか、マジにここがどこかって知らなくちゃあならねェ……」
だとしても周囲を見渡しても人影がうっすらと見える程度で身長で誰かを判断している状況なのにどうしろというのだ。明かりの1つも無い状況下で何か情報を得ようというのが間違いだろう。
「──明かりになる物はありますか?」
こころは晴陽を見上げる。
室外ならば街灯、家屋などの明かりで照らされ明かりを探す必要など無いのだが。
「……ライターならありますよ」
晴陽はポケットを探る動作をして、腕を挙げる。そうすると周囲は炎の光で少しは様子が窺えるようになった。
「ライターなんて何に使うんだってェの。茜さんに後で報告すっかんなァ。マジにィ」
炎を覗き込む2つの金色は人間の目らしい。双眸は三日月形に歪められて頭に響く笑い声まで人間の物とは思えない。
けれど、本人に言ったものならば「化け物だと思ったか」とでも笑われそうだ。こころの目に映る姿は巨大な山猫のようなのだから。
各々の姿が見える程に強い炎がライターから噴き出している。同じ位に周囲の様子もはっきりと炎の光に包まれていた。
劇場のエントランスと思われる現在地は顔のよく似た2つの肖像画の列に囲まれライターの炎では見えないはずのところまで見える。
劇場の空中には天に浮かぶ星空に見立てられたルビー、ダイヤモンド、トパーズその他にも多くの一級の宝石類が惜しげもなく散りばめられ各々の輝きで目が潰れそうなほどだ。
「もうライターはいらねェぜ?何をそんな眩しそうにしてんだよ?」
ボナベラは何も感じていないといった素振りで不安げに問い掛ける。
こころや晴陽は知る由もないことだがボナベラには人狼としての才覚と本能の兆候が現れ、人狼の優れた身体能力も既に彼女は手に入れていたのだ。
世界中を探しても『神樹茜』ほどに幸運な魔術師はいないといえるだろう。ボナベラ達は魔術に適正のある人狼にして能力体を使える能力者なのだから。
魔術師、もしくは魔術に適性を持つ者は基本的に能力者になる可能性が限りなく低い。その逆も然りだ。けれど人狼というのは魔術で体質を変化させるか突然変異を起こすかをしなければ膨大な魔力を持っていても魔術を行使することは至難の業とされている。
まず始めに、人狼は後天的に体質が変化してしまった者が多い。
次に、生まれついてか人狼になる前に能力体を発現させることができた者がいるとしよう。前述した通り人狼は体質に変異がない限り魔術は使えない。
そして、『体質に変異を持ち魔術が使え』『能力体を発現した』人狼となると珍しいどころの話ではない。
魔術師からすれば賢者の石よりも研究材料として喉から手が出るほどに自分の手中に納めたい者達が10人もズラリと揃っているのだから幸運としかいえないだろう。
時代によっては彼らを巡っての争いで国が2つや3つ滅びる。
そんな中でも貴重なオスのボナベラをこころの護衛として側に置いたのは魔術師達からすれば許し難い悪魔の所業だろう。
現在地も魔術的にはとんでもない聖地といっても過言ではない。場所として人が生きていた時代が古ければ古いほど良質な魔力が多く大気や地面、人工物に深く濃く染み込んでいるがこの劇場は記録上に残された19世紀後半に近い魔力量にローマの地下遺跡よりも濃い魔力濃度が感知できた。
「別に明かりが要るって訳じゃなかったんだぜ。魔力──えっとゴホン! 臭いである程度場所の予測が出来るってェだけで……あるだろ? 空港とかでさぁ~ッ食いモンとか車とか色んなモンが混ざって来た! ってェ感じがしたりすることォ」
日常では創作やオカルト位でしか聞くことのない言葉にこころは耳を疑った。ボナベラは咳払いをしてすぐさま訂正したが『魔力』というのは他の言葉よりも耳にこびり付いていた。
(いや……有り得ない。聞き間違いだ……『魔力』なんて……きっと気のせいだろう……)
人よりも少しは変わっているものの理解は進んでいると思っていたがそうではなかったようだ。理解が及ばない物事に対して自分は弱すぎる。──強くならなくては。
質問することが『強くなる』ということだ。何も知らなくてはずっと子供のままなのだ。守られている子供はずっと『弱いまま』で良い訳じゃない。勇気を出して『魔力』とは何なのかを知らなくてはずっと母は岩のままだろう。
(違う……! 聞き間違いなんかじゃない。『魔力』と確かに……そう言った! 言うんだ! 何も知らない赤ン坊じゃいけないんだ!)
心の中で歯を食いしばって口を開いた。これが一歩。こころが赤ン坊ではなくなるための。
「『魔力』とは何ですか?」
「アンタが知らなくていい世界のモンだ。アンタまで巻き込まねェよ。少なくともアタシはな……」
そう言うと宙を見上げた。風などないのにボナベラの長い髪が少しだけ靡く。ただし女性的な守りたくなるような弱々しさは微塵も無い。
しなやかなる強さだ。祖父は圧倒的な屈服しそうになる強者の覇気。祖父のような人間についてくるのは精神的に『弱い』者達だけだろう。ボナベラには祖父とは別にどんなにどん底からでも下から這い上がって来そうなそんな雰囲気だ。ただのこころの感想だが正しいところも少なからずあるかもしれない。
「────僕からもお願いします。顔なんて……もう覚えてはいませんが、姉さんの身に何があったのか知らなくてはならない。僕も彼も……」
こころは変声期前の少年期特有の美しい声がした方に目を向ける。記憶に残る少年、といっても先程から同じ場所にいたのだけれど。
「あぁ~~…………ったく! いいぜ、教えてやんよ。心晴さんに起こったコトを全部! いいかよく聞け! アタシとしちゃ反対なんだ! 茜さんが“あの子達も知らなくちゃならない”つってたから教えんだぞ! いいな!」
ボナベラからは衝撃的なことばかり飛び出てきた。もっとも、魔術やら能力体やらに関する知識がなかったのだから当たり前なのだが。彼女の中で解釈されているがこちらとしても情報が多ければ多いほど母の症状に対して覚悟を持つことができる。
「まず、『魔力』だよな?」
「「はい」」
特に意図した訳ではないが揃った声に少年達は妙に笑えた。こころにとっては叔父でも晴陽からしたらこころのことは年下の知人程度だろうが。
「『魔力』ってのは……そうだな、簡単に言えばコーラを振ったら吹き出すってェのを体ン中でやってるってだけだ。この原理はアタシは詳しいっつーワケじゃねェからヴィペラに聞いた方がいい」
ボナベラの指先からは空中へと色とりどりの小さな火が次々に生み出される。光輝く美しい水に溶かした絵の具にこころはたちまち夢中になった。宙に浮かぶ宝石よりも火の色が紅、黄金、白銀に変化する火の美麗な輝きにこの空間は満たされている。少なくとも今だけは。
小さな火の寄せ集めが白銀のは幹、黄金や紅は葉に、幻想的な炎の大樹へと姿を変える。この光景を目の奥に焼き付けられた者は火を生み出した人間の燃え上がるような情熱をどんな人間でも少しは想像せざるを得ないだろう。
「凄い!」
こころもそんな者達から外れず華やかな炎の演舞から少なからず影響を受けていた。それに魔法に掛けられているようなものなのに嫌悪感を持つことはなかった。
「ありがとよ。魔力を利用すっと魔術ってのが使えるよーになる。ちょうどこんなんだな。んで、魔術使えるヤツらのことを魔術師って呼ぶんだ」
「魔術を使うにはどうすれば?」
晴陽の質問に少し考えると、
「そいつァ良い質問だ。テメェらちょっとこっちに来い。ちょっとじゃねェ。すぐにアタシんトコに集まれ……」
と静かに言った。
指先からの火は掻き消され明かりは晴陽のライターのみとなった。火のショーが終わり少し名残惜しい。だが、ボナベラの方へ足を進めると炎の温度が残っているのかは知らないがある程度の暖かさがあった。
少し先に晴陽がボナベラの所に到達していたらしい。自分よりも近くにいたのだから当たり前といえば当たり前なのだが。
こころは同じように彼女の周辺で立ち止まる。何を考えて集合させたのかは彼女以外知り得ぬことだが自分の身を案じてくれているのは心の何処かで理解できた気がした。
次の瞬間こころを襲ったのは額への衝撃だった。額に雷が落ちたような痺れる一撃にすぐさま頭を覆い蹲る。女の一撃だといって侮っていたら女とは思えない力で叩きつけられた指は細い癖して額にクレーターが出来そうなほど強い力を込められていた。油断が招いた負傷だ。けれど何も言わずに額をいきなり弾いたボナベラもボナベラで責任はある。
晴陽も同じようにキツいのを喰らわされたのか額を抑えていた。
「い、いきなりなにするんだ!!」
強烈な一撃に思わず本性を表す。あまりの痛みに本性を隠すことすら忘れてボナベラを痛烈に非難しようとしてしまったのだ。
「なにって魔力を使えるよーにしただけさ」
「そ、それならこんな……」
ボナベラは無様に地を這う己を一切確認せずある1点を頑なに睨みつけていた。アンダーラバーズも何処か周囲を警戒して髪を這わせ宙を漂っている。猿が現れたときとは違いこころと晴陽以外の生物が近付いたのなら聖人だろうが英雄だろうが容赦なく殺すと宣言しているように見えた。
彼女の見つめる方向に立ち上がって未だに痛みが残る顔を向けた。
「出てきな……」
静かにそう言った後もボナベラは警戒を緩める気配はない。
それもそのはずだ。急に己の能力体と同じ位透明で死体のような青白い少女が目の前で宙吊りになっていたら今まで以上に神経を張り巡らすだろう。恐怖で足が竦んで動かなくならないだけマシだが。
「まあっ! なんて乱暴なの? レディがそんな言葉を使うものではありませんってあなたはおかあさまに叱られなかったのかしら?」
無邪気に不揃いな歯を見せて笑う少女の実年齢は晴陽の1つや2つ上くらいだろうがボナベラと比較すると幼く見える。
女性になりたかった少女時代の想い出だろうか。死体のようなという仮定にすぎないのだが彼女が姿を現した時、ボナベラの炎の芸で温かかった中で急に背筋に寒気が駆け抜けたのだ。
──彼女はもしや幽霊なのではないだろうか。
(いや、いやいや、いやいやいや! そんなワケないだろう! あんな元気なんだ。そんな『幽霊』なんて!)
はっきり言おう。こころは幽霊だとか死者が甦る系統の怪談が大の苦手だ。自分の身近に幽霊がうじゃうじゃいても。嫌いだとかではなく受け入れるのが難しいだけ。母の為ならば、唯一の心を開ける相手の為ならば苦手なものだろうと乗り越えるつもりだ。
「アンタ、死んでんのか?」
デリカシーの欠片もない突然の暴挙に言葉を失う。
今朝の祖父との会話でもそうだが、命知らずにも程がある。今のように未知のモノにコミュニケーションを執ろうとするのは今後もあるのだろうか。そうであるならば祖母に護衛を変えるよう提案しなければ。
「────そうよ。って言ったらどうするの?」
無礼すぎる質問に少女は巨大な女に鋭い視線を向ける。
母と博物館で去年見た19世紀後半の淑女のドレスを背伸びして身に着けている少女は大人になんてならずにこの世から去ってしまったのだろう。そう思うといくらか不憫ではあるがこの場所に攫ったのが彼女ならどうにかして帰してもらいたい。だが、ボナベラがやらかしてくれたおかげでとんでもなく難易度が高いだろう。
「いーや、別にアンタの平穏を乱したりしない。ただ、ここがどこか知りたいだけさ。ただ、幽霊だったんならここに縛り付けられてんのかそれとも自分の意志でここにいんのか聞きたい」
少女はくすりと笑った。先程とはうって変わって彼女の言う『レディ』らしい堂々たる姿である。その時は同年代とは思えない高貴な宝石のような人物に見えた。
「わたしはたしかにあなたたちの世界と異なる世界の人間だわ。わたしはとっくの昔にあなたたちの世界から去っている」
「何が言いたい?」
こころの目には粗野で下品な彼女の生きた世界にはいなかったであろう女に自分の知識を優しく教え導く師に見えた。明らかに自分よりも低俗な生まれの女にここまで親しげにするというのは彼女の時代の貴族達からすれば狂気の沙汰でしかない。
彼女の装いは19世紀後半のイギリス、それもとびきり大きな袖のドレス。現代人の感覚からすると時代遅れがすぎる。
少女も過ぎ去った時代の遺物としては少しの評価は出来るが人形や死体などの現実世界に存在するモノではなく魂だけになってあの世にしか存在するしかないモノに骨董品としての価値はなかろう。誰が望みもしない才能で野暮ったい少女なんぞを見たがる。
「案内してあげましょうか? この『劇場』〈ゴーストドリーマーズ〉(死者の観る夢)を!」
死んで、いや死んでも明るい少女に蚊帳の外になっていた少年の内の1人晴陽がこう問い掛けた。
少女は振り向きもしないで劇場内の解説をしながらずんずんと先へ進んでいく。
「案内って貴方は此処の方なんですか?」
「おい、コイツたぶん話通じねェタイプのヤツだぜ……狂ってる」
ボナベラが晴陽に耳打ちすると、晴陽はあからさまに機嫌を悪くした。こころは少女とも2人とも少し距離をとって歩いていた。けれど随分と大きい『小さな声』だ。
(そりゃあ機嫌も悪くなるだろ。鼓膜ブチ割れるくらいデカい声なんだから。あの女『耳打ち』の意味判ってるのか?)
年上2人、といってももっぱら喧しいのはボナベラだが
「狂ってるって? アンタが言う言葉ですか。アンタとアンタの同僚の方がよっぽど狂ってる」
「たしかに、その通りだぜ。『狂ってる』それがアタシらだ。アンタに言われる筋合いはないね」
「アズーロさんとかヴィペラさんよりもアンタは頭でっかちだ」
「そもそもアイツらとアタシは仕事がちげェし。アンタのお袋さん(マンマ)によく言われてるぜ? アタシらのチームのママッ子がな。『自分と他人を見下すのはやめなさい。だって貴方はとっても素敵な人なのに自分を陥れて何になるというのですか。もっと素敵になりたいのなら、過去の自分と比べて今の自分を好きになりなさい。この世は違うものだらけですから他人は自分と違うと思いなさい。貴方と同じように悩んでいる人は大勢いるのですからその人達に教えてあげなさい。「オレは乗り越えたぞ! この大きい山も! 恐ろしい怪物も!」と高らかに叫びなさい』ってなァ」
からりと笑うボナベラに茜の下で働けるのを心底誇りに思っているのが伺える。たしかに小説家なだけあって(食事の後に小説家は本当だと知った)、人を動かす言葉を選ぶのが相当上手い。
「僕は母さんじゃない」
「アタシもヴィペラとアズーロじゃない。年は同じだけどな。──これでお終いだ。この話はよォ」
険悪な空気も払拭され少女の声もよく聴こえるようになってくる。
最年長者と思いたくない者が喧嘩の発端とはいえ少年には同情はどうしても出来ない。
アンダーラバーズ(バンボラ)の様子から考えて彼女が出てくるのはボナベラが動揺したり明確な殺意を抱いた時。彼女からしてみれば今のは小さな叔父の戯れごとにしか映らないのだろう。
少女がいきなり立ち止まると暗闇の中の切れ目が横に裂け、こころの視界には扇状に並べられた椅子の列が断続的に上から下へと続く。天井も先程と同じ宝石類で豪奢に彩られている。
けれど、無機質で制作した者の魂は一切感じられなかった。どんな物でも作った者がいるのなら想いだとか、ここで言う魂が感じられるのに対してこの建物の内部は感情がない。どんなド素人だろうがこの劇場よりも最悪な物が作れる者がいるのなら最大の讃辞を送りたい。人を歓迎するような家というよりも閉じ込める為の檻に思えた屋敷もこの劇場よりは随分と『マシ』だ。
(さっきの所はホールか。ここで観客がオペラとか観るんだろう。僕は劇場なんか来たことないから判らないがな……。よくここで観る気になるな、こんな最低な所で……)
よくよく考えると少女が立ち止まったらこの場所が出てくるのもかなり可笑しい。少女が幽霊だからこそ出来るのだろうが理解したくはないこころはその事実から目を逸らす。
ボナベラは落ち着かない様子で内心冷や汗を垂らしている。此処が何処かも判らない訳ではないが彼女は知っていた。
死者の能力体の能力は能力者本人が死んでいるために再起不能状態にすることが出来ないということを。ついでとばかりに攻撃力がイカれていてとんでもなく強力ということを。
それも死者の能力体からの攻撃ならばいいが自分達よりも圧倒的に高次元の存在ならば死よりも恐ろしいことが自分の身ばかりではなく少年2人の身にまで起こりかねない。それも自分では太刀打ちできるかも怪しい。
──ただ、自分からすれば最も『良好』な可能性を信じるほかない。
「なあ、坊主。こいつァアンタの能力体──アンタが昨日と今朝アタシが視えてんのかって訊いたヤツな──じゃねェか?」
「知らないよ。僕がそんなの使えてたらとっくにオマエを殺してる」
「だろうな。ただ前例が無いって訳じゃねェんだ。今は詳しく言えねェがアタシの仲間のアメティスタって奴の能力体は鏡の中の『世界』に入れる能力がある。アンタが敵に教えるコトァ無いとは思うが念のためこれ以上は言わない。ここは敵地だろうからな……質問にも答えられない……」
「情報提供ありがとう。こっちは求めちゃいないけどな」
少女に連れられて座ったのは晴陽と遠く離れた席だった。代わりに嫌いな奴が隣だが。
前列中央の舞台がよく観える席を少女から与えられたが、舞台上から役者(敵)が降りてこちらに襲ってきた場合この席が最も危険度が高いのではないだろうか。
いつの間にか姿を消した少女に毒気付きながらも不安で仕方なかった。
いつ攻撃されるのか? ボナベラの能力体のように身を守る手段が無い己はどうすれば? そんな考えで頭の中はいっぱいだった。
同年代の者達よりも知識も知恵もある。こころはそう確信していたし山ノ瀬での取り巻き達も自分をそのように扱っていた。
どんな恐怖や不安をも克服できるはずだ。自分にはそんな勇気がある。力がある。そんな不確かな思い込み風情で『本物の恐怖』に打ち勝つことなんてできやしないのだ。
『本物の恐怖』、例えば恋人が未知のウイルスに感染して残り数日間、もしかしたら今日死ぬかもしれないという時。世界が今日終わるかもしれないと、原因も解らないとニュースキャスターが告げた日。そんな生きている以上立ち向かってもどうしようもなくたって立ち上がってプラスの方に向かうように努力すること。
──それが『本物の恐怖に打ち勝つ』ということだ。
ウイルスだったらワクチンを探す。終末が来るのなら原因を探して解決策があるのなら実行する。もしくはそうなるように努力する。
『本物の恐怖に打ち勝つ』ことは決して犠牲の精神ではない。他人を踏み台にして前に進むなど『本物の恐怖に打ち勝つ』ことではない。
勿論自分も同じだ。『本物の恐怖』と対峙したとき、少しでもその対象に覚悟があると思っている人間は後に続く者達の為に道を開こうとする。そう考えている人間は「自分が死のうが後に続く者達が乗り越える」と考える。
それが間違いだ。死んでまで伝えようとするよりも生きて導くほうが『本物の恐怖に打ち勝つ』ことなのだ。時や場合にもよるが『本物の恐怖に立ち向かう』意志を持ち、生きて帰ってくることこそが『本物の恐怖に打ち勝つ』精神だ。
今のこころはどうだ。足も震えて冷や汗も滝のように噴き出している。彼にとって『本物の恐怖』とはこんな状況なのか。恐怖なんて人間誰しも感じることで当たり前なのだが『母を治す』のではなかったのか。
普通の子供が急に母の異変を聞かされ、どんな手を使ってでも治すと覚悟ができるだろうか。
──いいや、出来ない。こころの母親の子供はこころただ一人。忘れて人生を送ることも出来るがこころはしないだろう。
(何故ならッ、何故ならッッ! 母さんを治すためだ! ここで逃げたら母さんを助けるのは誰になる! 僕が助けなくっちゃあ誰が助けるっていうんだ! ここを乗り越えなくっちゃあ母さんに会えないッッ!)
大人だとしても同じことを考えるだろうか。死んだと聞かされた人間を治そうとすることが出来ないのは人を甦らせようとした先人達から判るだろう。どんな人間だろうと死は避けられない。
けれど、生きて呑気に「おはよ~ッ。今日はパンとご飯どっちがいい?」なんて訊いてくる可能性が0(ゼロ)ではないのならどんな手段を使ってでもそちらの方がいい。
そんなことを考えていたらボナベラをまた見つめていたらしい。最初は何でもないねといったような感じだったが段々と視線に嫌気がさしてきたらしく不機嫌そうにこちらを見ていた。
その顔ときたら本当に微妙そうな顔で母にも見せたいくらいだ。こんな時だというのに腹の底から笑いがこみ上げてくる。いや、『こんな時だからこそ』か。
「フフフフッ」
「ヒヒヒヒッッ!」
2人は顔を見合わせ、笑った。多分晴陽の方にまで聞こえるだろう。
「あ~っ! オッカシイのッ! 久々にこんな笑った気がするぜェ~ッ! ウヒヒヒヒッ!」
「今朝も笑ってた」
「そういやァそうだったなァ~ッ忘れてたッ!」
ボナベラの雰囲気からなのかは判らないがこの劇場の中は妙に落ち着くというか、安心するというか。ホラー映画を観た晩にトイレにも行けないくらい怖いのに隠れていられる布団のようだ。劇場は自分にとっての『布団』なのだ。なんなら、屋敷よりも気に入ってきた。内装もあまり気にはならなくなってきた。
「そういえば能力体ってなんなんだ?」
こころが改めて感じた疑問を口にする。幽霊に恐怖を感じていた時に言っていた「能力体」という言葉は彼女も安心させるために言った言葉なのだろう。
「能力体ってのはよォ魂の………」
ボナベラはアンダーラバーズの髪と自分の髪を伸ばすと自分の髪を内側に能力体の髪を外側に編み込み、檻のように自分とこころを守るように覆った。
ボナベラが髪を編み込んでいる最中、劇場の中で霧が発生しているのが見えた。どうやら敵が攻撃しているらしい。気体の霧は髪の檻では防ぐことはできないだろうに。
「おい、髪が凄く伸びてるぞ。切った方がいいんじゃないか?」
「ハッ! 切ったらアンタも御陀仏だがいいのかよ?」
よく見る編み目に吹く前のシャボンのような薄い膜が張られている。
「この状況じゃ死なばもろともだ」
「言えてる。ただクソ眠いってだけでこんな扱いづらいからな」
衝撃の一言に理解が追いつかなかった。その言葉の意味を理解するときにはボナベラは欠伸すら出している。
「はァッ!? 嘘だろ!? 眠い!? おい! 起きろッ! 起きやがれッッ!」
「ははっ……マジにクソ眠ィ…………」
そう言い残すとボナベラの意識はそこで途切れた。死んだように眠るボナベラにつられてこころも眠りに落ちていった。
霧が濃くなるにつれ意識を霧に引きずり込まれるように眠りが段階的に深くなっていく。
舞台の上には少女が一人。拍手をしながら泣いていた。