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G,D's2061 ──breaking heart──  作者: ヤチヨ リコ
part1 ゴーストドリーマーズ
3/8

第3話 『バンボラ』 


 ──夜が明け、雪国である翁来町の比では無い程の寒気がこころを襲った。

原因はふかふかと体を暖かく包み込んでいた柔らかいものを何者かに奪われたからだった。

 慣れ親しんだベッドではないが日本人の内、神樹こころという少年は睡眠を邪魔されると不機嫌になるという性質の持ち主だった。

 手足から奪われる体温、体中から感じる寒さはこころの頭を強制的に目覚めさせ不機嫌にさせた。


「起きろォ~ッ朝だぜェ~ッ!」


 そう言って少年を叩き起こした低く通る女の声は昨晩、ヴィペラを幽霊の髪で縛り上げ自分に濡れ衣を着せた忌々しい女のものだった。

 部屋への道のりでヴィペラに教わったのだが、あの女は彼と同じ茜の使用人らしい。

 女らしくないし、母性も感じず、ついでに凶暴。

 こころの理想の女性像と真逆の女だ。

 こころはこの女に金を払ってまで自分を主と呼ばせる祖母の思考と金銭感覚は血が繋がっていても、どうしても理解出来なかった。


 昨夜は暗がりだったということもあり女を見ることは出来なかったが、美系と言えるだろう。

 アズーロと同じ位の身長(ヒールを履いていたから予測だが)に普通の男を超えているだろう筋肉、ルネサンスの彫刻のようにバランスの整った全身、神から授かったとでもいわんばかりの美貌だけは評価に値した。 

 人間離れした女の造形は1人の使用人にする為に祖母が人工生命体として創造したのではないかと妙な想像をさせられる。

 こころはそれを利用することを知らないだろう女が大嫌いだった。


「な、なんだよ……」

 

 少年の思考を鮮明にしたのは先程とは違い困惑の眼差しを向けた女だった。

整った顔を歪めている女は中々に見物と言える。

 こころには考え事をしている時に何処かを見つめるといった悪癖があった。


(この女ッ、僕の睡眠を邪魔しやがった。それに怯える必要もないのに怯えて。

さては……、威勢だけのチンピラだな。たしか虎の威を借りる孤だったか……こんなに当てはまる奴はいないな)


 実際には、自分に観察するかのような鋭い視線を突き刺されて困惑で済んでいる女はこころの女性経験からすると異様に感じた。

 女とは違い、自分の容姿を最大限に使って生きてきたこころは人形に見える程に端正で無機質な少年だった。


 山ノ瀬──少年の生まれ育った土地は老若男女問わず受け入れる寛容な士地といってしまえば聞こえは良いが、実際には他人同士に無関心な犯罪都市だった。

 犯罪が蔓延っていても山ノ瀬の警官は無能、むしろ警官が女子供を往来で殴っているのが当たり前だった。

 集団心理というのもあったのだろうが周囲の人間に振り回される自分の意志のない人間が多かったのも事実。

 母がよくあの地で自分を育てようとしたのか、祖母と暮らす選択は無かったのか。

 ──今は亡き母にしか分からないことである。




「おはようございます。バンボラさん……でしたっけ?」


 ベッドに座り、大人と接する時の『良い子』の仮面を被って笑顔を向けると女は顔をしかめる。


「ウゲェ~ッ! やめろよなぁ……そんなネコ被ってんじゃあねェぜ。ガキはガキらしく素直にしてろよ。……あ、ネコだったらナーノは喜ぶな……」


 

 口調の悪さを直せば深窓の令嬢のように見せることも出来るのだろうが。

女の素行と性格が最悪なせいで台無しだ。

 黄金の眼光はこころは女に観察されているような錯覚を覚える。

 だが、人の本質を見抜く才覚を持っているというのは認められた。


(この女……僕はコイツに観られているのかッ……。はっきり言って僕がどんなに取り繕ったところでコイツにはバレてしまう……そんな気がする……)


 こころも臆病だったのだ。

 女の力量を見誤った。──女が威勢だけのチンピラなら……と油断してしまった。

 

「じゃあ、僕らしく行かせてもらうさ。で? アンタは何者だ? バアさんの使用人ってのは昨日のヴィペラって男から聞いたが」


「あぁ、ん~じゃ改めて名乗らせて貰おう。別に覚えてもらう必要はないが……まあ、取り敢えず……。──バッティステッラ・オッターヴィア・ニコレッタ・アントニエッタ・ベルナルディーナ・エヴァ・リディア・ルイーザ・アレッサンドラ・カンパネッラ──カンパネッラはファミリーネームだ」

 

 女は自分の名を言うのが面倒くさいようで途中から髪を弄っていた。


「長い……な。名前的に伊系らしいが伊系はミドルネームを大量に付けるのがトレンドなのか?」


「違ェよ。アタシのオヤジが名前決めらんなくて全部付けちまったのさ。落語の寿限無みてェにな。まあ、実際全部言えんのはアタシの身内だけだしな。だから、別に覚えなくてもいい」


「覚えなくていいなら何故教えた? 無駄だろう」


「無駄じゃあねェ。有用性が無くても親がくれた名前だ。大切にしなくっちゃあならねェ。どんなにロクでもねェオヤジだろうとな。少なくともアタシはそう思ってる」


 そう言い放った女にこころは胸倉に掴みかかろうとする。

だが、女の胸倉に延ばした手は敢えなく孤を描き女に触れもしなかった。


「おう、おう厳しいなァ。そんなにウチのオヤジが嫌いかァ?」


「そうではないが……」


 こころは反射的に放ってしまった手を見つめながら戸惑いを隠せなかった。

 自分の父親が幼い頃に行方知れずになり名も知らないが、ろくでなしというものでもなかったから。

 無意識の父親に対する嫌悪感で女を絞め殺そうとしたのだろうか。

 確かに父が母を捨てていったというのは幼かったこころには幾分か辛かっただろう。


 けれど、8年も前の話だ。

 こころは父の事はさっぱりと覚えていない。


「だけどな、アタシも渾名で呼ばれてっからなんも言えねェが」


「渾名? バンボラって奴か?」


「それもあるが。──フルから略してボナベラってアンタの婆さんとかにゃァ呼ばれてる」


 ボナベラは淑やかさなど1ミリも無い豪快な笑顔をこころに向けた。

 やはり、こころはこの女が嫌いだった。

 失う悲しみを知らないこの女が。

 この世で只一人の肉親を突然奪われる心身が砕けたような苦痛だって知らない甘ったれた人生を今まで送ってこれた女に自分の何が理解出来るというのか。


 ボナベラという人間の全てが憎らしかった。

自分の持っていない幸福の全てを始めから与えられている、それだけでもこころの心に憎悪が広がっていく。

 この女は自分がそう感じていることなど知りもしないのだろうけど。


「はぁ……」


 こころのついた溜め息は軽蔑を込めた嫌みったらしいものであった。

 

「なんだよ。ボナベラってのはアンタの婆さんから貰ったモンだぜ」


「それがどうしたっていうんだ? 僕はアンタに興味なんて全くない。だったら車の男達の情報の方が良い」

 

「車の男…………? あぁーッ! ヴィペラとアズーロかッ!」


「そうだ、アンタの同僚だろう? なんですぐに思い出せないんだ」



 “思い出せない”とこころが口走った矢先に、こころの手足に糸の魂が絡まり付いていた。

 瞬間、こころの視界の中に入って来たのは『普通』とされる世界では有り得ない、有り得てはいけない光景だった。

 

 女、ボナベラが『2人』いた。

 視線、呼吸の速度、寸分違わずに『同じ』。

しかし、『茶髪』と『白髪』髪の色だけが真相を追跡可能にしてくれている。 

手足に絡まり付いているのは白、白い糸だった。

 だが、これほど似通っている2人の人間がこの場に存在する、それは非日常の世界を覗きこんでしまったかのような『異常』だ。


 

 突然、女が増える。

 それ自体がこころにとって母が岩になったのと同じ『怪異』と成っていた。

 不気味だとか怖じけづいている場合ではない、越えなくては成長出来ない『試練』それがこころにとっての『怪異』だった。

 

(奴等は敵か? 僕を母さんのように岩にしようとしているのか? この『屋敷』の『使用人』とやらは信用しないほうがいいな……)


 こころに憎悪を送る白髪の女はボナベラとはどこか違って見えた。“怪異”であるのは間違いではないのだが、古臭い旧時代の遺物の物悲しい雰囲気を感じさせる。

 

『アタシハ……彼ラヲ忘レタコトハ……ナイ……。コレマデモ……コレカラモ……忘レルコトハ……ナイ……決シテ。コノ魂ガ……ドンナニ……踏ミニジラレヨウトモ……』


 女は過去の記録を見返し、朗読するといった行為を模倣しているかのようだ。死者の過去に喪失した魂がこころの精神を少年の未来の果てからのぞき込んでいるようだった。こころは不思議とこの女を恐ろしいとは思わなかった。この女は髑髏人形の正体で、自分に忠告したのだと心で理解したからだ。

 

(そうか、この女がバンボラ……)


 こころが呼吸をした時、女は世界に溶け込むように姿を消した。

 こころが逢ったのは過去の後悔だったのかもしれない。ただ、女に遭遇したのは少年が生長するきっかけにはなるのだろう。たとえ、自分は彼女の冥福を祈ることしか出来なかったとしても。こころは彼女が自分を見守っていると思うだけで勇気を貰えた。


 静かになった部屋の中、最初に口を開いたのはボナベラだった。

 叩きつけるような雨が家屋の外から降り続けていた。妙に騒がしいこの雨の音が母も聴いているのだろうか。死者相手にこんな考えを浮かべるのですら可笑しいと笑われるだろう。だが、こころは母にはこの雨の音が聴こえていればと祈っていたかった。


「オマエ、コイツが見えたのか?」


 信用の出来ない人間からの質問に嫌悪感を催しながらも答えようとした。

 その時だ、部屋と通路を繋ぐドアが軽く叩かれたのは。


「バンボラ、遅いぞ。いつまで掛かるんだ?」


 呆れたようなヴィペラの声だった。同僚だからか、昨夜よりも心を開いた軽い態度、昨夜の穏やかな声色とは違い、無駄だと感じている故の呆れて砕けた口調だった。ボナベラを呼ぶのはバンボラだが、それも信頼を込めているものなのだろう。

 古臭い旧式の両開きの扉を押し開ける骨ばった、だが武骨ではない職人の手がこころの視界に写り込んだ。


「こころ君、おはよう。昨日はよく眠れたかい?」


「おはようございます。ヴィペラさん。はい、昨日はグッスリ眠れました」


 にこやかな青年に大人ウケしそうな笑みを向けると、青年はさらに笑みを深めた。


「オマエ……ついに性癖拗らせやがったのかッ!? こ、こいつ男だぞッ! それもオマエより一回りも下のよォーッ!」


「なに言ってんだ。オレが好きなのは女だよ。それもとびっきり性恪のキツいね」


「ピッタシ当てはまるじゃねェか! 性格は最ッ悪だし、顔は……まぁ……遠くから薄目で見れば……」


「だから、話を聞けッ! オレは女にしか興味ないし──」


「アズーロとかにセクハラしてんじゃねェか!」


「アレはスキンシップ!」


「否定してるトコも怪しいぜ!」


 醜い大人達の取っ組み合いに発展しそうな言い合いを横目にこころは、


「えっと……お二人ともぼくに何か用事があったんですか?」


と鶴の一声となる言葉を発した。




 彼ら2人が部屋を訪れたのは、朝食の知らせであったらしい。男が広げた巨大な屋敷の地図上では自分に与えられた部屋から大分離れているようだ。

 240の部屋の入ったアパートすらも10個程入ってしまうような外観から想像出来る範囲ではない豪奢な廊下を歩きながらこころら3人は食堂へ向かう。


廊下にはシンプルではあるが西洋貴族を思い起こさせる装飾品が、ちらほらと見受けられた。


 こころはそれは自身の祖父の趣味であるとした。祖父の顔は一度として見たこともないし、祖母からのメールではあまり話には上らなかったからだ。


 それに、祖母のイメージとはハッキリと違っている。祖母は高級車を乗りこなし、万の数を超えた信者を従える魔王のような女傑のはずだ。こころは初めての祖母との遭遇からその様な印象を刻みつけられた。


 昨日、祖母の涙を目撃したあの時も子供の死は親にとって悲劇といったものが祖母にあるのかと驚愕したものだ。情の欠片もなく全てに合理的な祖母に子を失って涙を流す感情があるのだから母が岩になったのも治療出来るのかもしれない。

 なんて、理屈として有り得ないけれど信じたかったのだ。


「なぁに湿っぽい顔してやがんだ! アンタのお袋さん──心晴さんはまだ死んだわけじゃあない。治す方法がまだ解っちゃあいねェだけさ。茜さんと凛さんが必ず、治してくれる」


 女の声だった。

母のような優しさも祖母のカリスマも含まれていないただの感情からの言葉。女だと言いたくもないような粗暴な態度。


「貴方達では治せないのですか?」


 ──少しだけでも救われることはない。

 こころは(ボナベラ)が嫌いなのだから。


「治そうとはしてるんだけど──オレらは魔術の……コレって教えていいのか?」


 『魔術』、そんな非科学的な現象を信じろと言われても信じようとは思えない。科学文明に生きて育った者の人生を全て否定するようなものを。

 幽霊を視ることが出来ても他の、悪魔や妖怪を信じようとは到底思えやしなかったのに『魔術』なんて言われても信用する覚悟を決めることがどんなに難しいかこの2人には解るまい。


「いーやッ! それよりメシだッ! メシ! 腹が減ってちゃ何も出来やしねェ!」


 嬉々として発言したボナベラは地図を見ずに颯爽と去っていった。前方で長い髪がスキップで揺れる。

 ヴィペラは何時ものこととばかりに慣れた様子で、


「アイツにくっついてけば、食堂にはいけるから一緒に行こう。オレもこの(やかた)の全部は把握しきれてないんだよ」


と言ってこころと手を繋いだ。


 随分と巨大な扉がそこにはあった。今まで通過してきたどんな調度品よりも強固で高価な代物だろう。1階・食堂と地図上で示されている場所の出入り口としては身分違いも良いところだ。


(たかが、食事をするためだけの場所だろう? 何故、こんなに金をかける必要があるんだ?)


 金持ち、特に精神的貴族の考えは理解出来なかった。(いな)──しようとしなかったのだろう。自分の育った環境以外をこの目で見たことは無かったのだから。自分の人生を否定される恐怖と母の生きた姿が鮮明に蘇ってくるのだから。

 

 開かれた扉の先には日光(外は雨なので日光もなにもないが)を毛嫌いするかのような徹底的に閉め切られたカーテンと膨大な空間が広がっていた。しかし、こころの目に異常に映ったのはカーテンではなく、先程の礼を失した態度から気でも違ったかのように召使いとしての仕事をこなしているボナベラだった。


 食堂に入ってヴィペラにエスコートされた先には爬虫類や深海魚のように醜い太った中年の女と女と不釣り合いな程美しい、いや自分の血縁者であれば当然の美貌を持った若々しい青年がそこにはいた。青年というには少し年を取りすぎているような気もするが。元来老け顔なのだろう。

 母はあまり自分のことを多くは語らなかったが、“貴方には5人の叔父さんがいるの”と昔話のように話をしていたことがある。今となっては有り難い情報だったが何故幼い時に聞いておかなかったのか。そうすれば母との思い出が刻まれていたのに。


「こころ、此処に座りなさい」


 青年が自分と女の間の席を指し示すと体が勝手に動き出し、ストンと静かに引かれていた椅子に座った。

 いや、『座らされた』が正しいだろう。青年はやはり祖母の血縁者なのだ。

 指示を命令に変え、相手の無意識下に入り込み強者として君臨する。精神的に勝利し、支配する帝王のようだった。

 そして、今まで出会ってきたどんな大人よりも祖母に似ていた。


「はじめまして。信じてはもらえないだろうが──私は君の祖父にあたる神樹凛という者だ。まあ、君の母親の父親と言えば解りやすいかな。といっても娘は駆け落ちして行方は解らなかったのだが」


 穏やかに微笑んだ青年にこころは内心、恐怖に満たされていた。

 娘の結末を知っている癖に微笑んでいるはずが無い。娘を見捨てて逃げ出した卑怯者の息子だ。娘を誑かした男の息子など引き取るなど正気の沙汰ではないだろう。祖母だったのならば引き取らないで人知れず父親を調べ上げ、一族郎党に最も残酷な死を与えていたはずだ。


 祖父がこんなに若々しいはずがない。

 母は今年で34になるはずだった。それに対して凛と名乗った青年は若く見て20代後半、老けて見て40代前半に見える。母の父親だったのならば年齢的に可笑しい。


(この男は信じられないな。同族嫌悪なのだろうが……)


「本当にぼくの祖父なんですか? 随分とお若いようですが」


 青年は驚いたような顔をし、心底愉快であるかのように顔を歪ませ笑い声を上げた。こころが怪訝そうな表情を浮かべているのがさらに笑いを誘うのだろう。


「いやぁ、なに、よく言われるんでな。私はこれでも今年で73になる立派な爺さんだよ」


 豆鉄砲でも喰らったような衝撃に表情を一つも変えられず考えがこころの優秀な頭脳を瞬時に駆け巡る。


(は? 73? この男……嘘を吐いてはいないのか? 本当に?)


 女は慣れているのか動揺一つせずに黙々と食事を始め出した。


「おい、茜。食べ始める前にしろと言ったよな? お前はメールしかしていないと言っていただろう?」


 青年の口から祖母の名が飛び出た。自称とはいえ祖父だと名乗っているのだから知っていて当然なのだが。

 祖母の名で呼ばれた女は眉を動かした程度でそのまま食事を続けている。


 『ピロリン!』


 食堂に鳴ったのは電子音。こころの携帯からだ。母から貰った蒼い携帯電話は、母の遺品ということになるの

だろうか。携帯の画面を青年に断ってから開くと祖母からの電子メールが届いていた。


『信じられない?』


 こころは目を見開く。


(信じられないかだって? 信じたくないさッ! だけど、母さんが家に帰って来てなかったんだ。岩になったってのを信じるほかないじゃあないか!)


 この場にいない祖母がこのメールを打っているのか。

幼稚な発想だが、隣の女が超能力なんかの自然法則を否定する現象を起こして祖母を騙っているのか。 

 考え自体が可笑しい方向に裸足で駆け出していった時、隣の女が不意にスープ皿にスプーンを置いた。

マナーとして、それは彼女の中では正しいのだろう。


「ごめんなさいね」


 そう言った女は現代の言葉でも、過去の言葉でもない全くもって未知の言語を口から放り出す。

 『魔女』というのだろうか、こんな女は。

こんな不気味な存在だったのなら中世の時点で絶えてしまえば良かったのに。

などと思いながらもずっと聴いていても構わないとも思うのはこころ自身だった。

 

 暫くして言葉は終わり、青年が苦しみの呻き声を挙げる。左からも右からも奇怪な事象が起こっていた。

 青年からバキリ、バキリと音を立てて皮膚が木の皮のような破片として飛び散る。飛び散った皮膚の下の肉は柔らかそうな熟れた人間の皮膚であった。肉と皮膚が入れ替わっていくと同時に青年の身長がどんどんと縮んでいった。


「こころ、貴方は知らなくてはいけないの。世の中には到底信じられない奇妙なことが時に起こり得るということをね」


 先程の謝罪とは裏腹に厳しい声音で言った女は一呼吸置いて、


「凜さん、私はアズーロとヴィペラに聞きました。貴方が女に変身して此処にこころを連れて来たと。貴方のことだから今までずっと私に黙って会いに行っていたのでしょう? まあ、今はその事については問いませんが」


と正しさを代表するような口ぶりで続けた。


メールと同じ言葉使いで、こころは本物の祖母はこちらだと思えた。母が“メールは本物、会っているのは別人”だと軽い素振りで話していたが事実だったのか。

 青年の姿は若々しい男ではなく、今まで会っていた祖母の姿に変わっていた。


「問題なのは私を騙っていたことです。──こころ、私が本物の貴方の祖母、神樹茜ですよ」


 青年を睨みつけた瞬間に青年から飛び散った皮膚は青年の身体に張り付き青年の姿は元に戻っていく。


「本当に? 嘘じゃなく?」


 本心からの言葉だった。

こころは誰を信じればいいのか解らなかった。


「嘘じゃない。私がさっきメールを送ったのは本当に信じられないだろうなと思ったから。今からメールを送ってもいい──」


「その必要はないぞ。茜」


 先程の状況からは立ち直ったのか青年はロを挟んだ。


「大丈夫。僕は賢いからね。アナタが僕のお婆さんってのは今ので解ったよ。そして今までありがとう。お爺さん」

 

 口調を崩したこころに茜は驚き、凜は当然だとでも言わんばかりに堂々としていた。 


「嘘でしょ! 私、あんなにこころが崩れた口調してるだなんて知らなかったですよ! 凛さん知ってたんですか!?」


「知っていたさ。私は実際に会っていたからな」


「知ってたなら教えてくださいよ!」


「心晴がどこに住んでいるか……私に報せなかったのはお前だろうが」


「それとこれとは話が別です! だって、可愛い孫の成長なんですから! 何でも知りたいじゃあないですか!」


「だから、お前が報せなかったから部下に調べさせて心晴に会いに行ったんじゃないか。そうしたら心晴にお前のフリをしろと言われただけの話さ」


 こころは母が祖父に祖母のフリをしろと言ったと聞いて遠い目をした。


(あぁ……そうか、母さん割とお茶目だったからな。 だけど、祖父母の夫婦喧嘩で間に狭まってまで聴きたくはなかった……)


「だって、凛さんこころのお父さん殺しそうだったんですもん!」


「殺しはしない。娘が悲しむ顔を見たい親が何処にいる?」


「此処にいるじゃあないですか! 心晴が中学の頃に彼氏出来た時に彼氏を病院送りにして別れさせたのは誰です!」


 凛は少し考えるような仕草をして、


「私だが、何か?」


と答えた。


「もーッ! いいですッ! 心晴が私のフリしろって言ったんでしょ! 解りましたよ!」


 赤黒く腫れぼったい手をテーブルに押し付けて、力強く椅子に腰掛けた。


 

 茜の側に控えていたボナベラが笑いを堪えきれずに大声を挙げ笑い出す。


「アッヒャッヒャッ! メチャソックリ! ウヒヒヒ!」


「何がおかしい!?」


「だってッ! マジにスッゲェソックリだぜェ~ッ! 凛さんとオマエよォ~ッ! ギャハハハハハハ!」


 こころは凛よりも息子達よりも彼女──ボナベラによく似ている。


 実際に彼らの事情を知らなければ一回り程年の離れた姉が弟をからかっているだけに見えるだろう。実の姉弟であるかのように見えるほどに彼らはよく似ていた。


 例えるならば点対象なのかもしれない。彼らの運命は。

こころの月光に照らされ輝く金髪も、ボナベラの太陽を想わす金の双眸も。


 どこか、大古の人間達が想像した神話のように引き合い、離れている。

 二人のどちらが『太陽』で『月』なのかはまだ判らないが。

 茜は二人の物語が幸福であるように祈っている。

 

 朝食を終え、各々自由に行動しだすと、凜が口を開いた。


「私は(やかた)に帰る。こころは頼んだぞ」


 そう言うと凜は立ち去ろうとする。


 無責任に感じられた。自身の祖父母が別居しているらしいことにも特に驚かず、父と同じように自分を放り出した男のことを。

 当然のように思えた。母を自分勝手に洗脳して祖父から逃げた男の息子のことを。


 胸に湧き上がるのは、自身の血統に対する否定と諦めだけだった。

 望んであの無責任な男の子に生まれた訳ではない。

子が親を選ぶことなどできないのだから。

母の意志など介さず快楽のためだけに自分を孕ませた男の子になどなりたくはなかった。 


(ハッ……。解っていたさ。自分の娘から逃げ出した男の息子だものな。置いていくだろう──)


 『神樹こころ』の死だった。

自分を通して『両親』を見詰められる。

それでは自分が生まれた意味が消えてしまう。

 親から与えられた生から『自分』がなくなってしまえば『その他大勢』になっていく。

それがこころにとっての死であった。


「凜さんよォ! アンタ、ちょいとアタマイッてるんとちがう?」


 荒々しい声音の怒鳴り声が食堂内に響き渡る。

 視線を声の方向に向けると象徴的な長い茶髪だ。


「貴様、使用人風情が何を言うかと思えば……」


 凜が足を止め振り返るとボナベラは追撃を開始する。


「使用人風情に負けてんのは誰だってんだよォ! 現最強の能力持っててもテメェの嫁さんに避けられてんだろーが! まッ! アタシは茜さんに仕えてっかんなッ! 避けられてねェしよォーッ! でも、しゃあねェよなア! アンタは、自分の、孫まで、見捨てるよォ~~なへ・タ・レだもんなァーッ!」


 中指を立てた手を凛に向けると、


「アンタなんか腐りきった納豆みてェによォーッ! いらねェんだよッ! このッ腰抜け野郎ーッ!」


と言い放った。


 勇気ある行いとは決して言えないし、むしろ命知らずの虫の覚悟同然だ。恐怖など感じないのだろうかあの女は。

 もっとも、瞬間的に悪魔の王を具現化させたような気配に変貌する祖父こそ人間かどうか怪しいのだが。


(な、なにやってるんだ!? あの馬鹿は!)


 感情を顔に出さず、思考のみを巡らす術をすでに心得ているこころでも心中は冷や汗が噴き出ていた。


「ほう……そうか。では、貴様はこころを護ることが出来るのか?」


「……や、それは──」


 ボナベラが口ごもると凛は愚か者の話を聞くなど時間の無駄だとばかりに背を向け足を動かそうとした。


「いいじゃないですか。凛さん、若い人に任せてみましょうよ。私が全て責任を取りますから。

──ボナベラ、私から貴女に正式に主として命じます。私達の孫、我が娘心晴の息子、『神樹こころ』を護衛せよ」


 その場の時を止めるような言葉だった。

 自身の祖母として、妻として、主として、その場にいる人間の価値観から彼女の像は大きく外れていった。

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