第2話 『ボナベラ』
屋敷のある部屋に2人の人間がいた。
部屋の主であるバンボラ、それとヴィペラだ。
ヴィペラはバンボラに何も言わずにコーヒーを淹れた。
汚い部屋の匂いと混ざり合って鼻に刺激が走る。
「ヴィペラァ、コーヒー好きなのは知ってっけどなあ……」
「掃除しないのが悪いんだろ」
バンボラは顔を真っ赤に染めて目を逸らす。
二人はベッドに並んで座り、散らかったテーブルの上の物を退かしながらコーヒーの入ったカップを3つ置いた。
先程とは違い冷静さを目に持ったバンボラはヴィペラに問う。
“あの少年は何者か?”と。
こころの祖母、神樹茜は孫の存在を秘匿していた。
ボナベラには、こころについては伝えられていたがこころの母神樹心晴の行方は他の使用人にも伝えられてはいなかったのだ。
茜は女である自分にだからこそ孫の存在を伝えたのだとそう信じていた。
「そりゃあ、心晴さんの息子だろ?」
バンボラは動揺を隠せなかった。
女性にしては大きく、ごつごつした手を自分の唇に押し付けて爪をガリガリと噛む。この女にしては物珍しいことをする。
バンボラが爪を噛むのは、許容量を超えた不安を感じたときだけで、不安をバンボラが感じることは滅多にない。
「茜さんが……そう言ったのか?」
「いいや、凛さんだ。茜さんと孫を護衛してくれって依頼されたんだ」
バンボラは唇から手を離してヴィペラの話に耳を傾ける。
「凜さんは知っていたのか? 心晴さんの行方を」
「いいやァ、茜さんが電話してるとこを聴いたらしい」
『凛』とは、茜の夫──こころの祖父のことだ。
この男は自分より17歳年下の妻に対して少し過保護なところがある。
こころが茜に害を与えないか心配になったのだろう。
(凛さんが、2人を寄越したのか……理解した)
不安が無くなった時、バンボラの頭は怒りに染まった。
「なぁ、ヴィペラよォ……なぜアタシの車を勝手に使ったんだ? アズーロの車を使えばよかったじゃねぇか」
理由を言えば赦しを与えるといった表情をしている女の目は死んだ魚のような青だった。
「まだおぼえてたのか……」
ヴィペラは呆れたように顔を歪ませる。
「凜さんの依頼で車を使ったってのはよォ~~く分かった! だがなぁ~ッッ 『勝手に使った』ってのがイヤなんだッッ!」
バンボラは元来【何も言わない】ということを嫌う。
嘘だろうが曖昧だろうが【何も言わない】よりはマシであるというのがバンボラの考えだ。
「アズーロの車は、アイツキレやすいだろ? 出発前にアイツがぶっ壊したんだ」
「それと、勝手に使うのは関係ないだろ?」
バンボラは不思議そうに首を傾ける。
普通の可愛い女がその仕草をしたのならば可愛いだろう。
それをしているのは美人だが大柄な女だ。それも可愛いとはいえない。
「ナーノとアメティスタが『いい』って言ったんだ。兄貴分の2人相手だとオマエは強くでられないだろ?」
バンボラより女の顔に近いその男はそう言う。
バンボラは賛同するかのように首を縦に振った。
「どこか勘違いしてるようだが……アタシは強くでられないワケじゃあないぜ?」
部屋からバンボラと同じ声がした。
どこからか糸のようなものが伸びてきて、『バンボラ』を締め上げた。
これは糸ではなく髪の毛なのだ。
どこかに隠れたバンボラが髑髏人形の髪を操っているのだ。
(このパチモン……アタシの真似して……まさか……黒子の位置まで同じなのかァ?)
『バンボラ』の体にはいたる所に、だが殺しはしない所に髪をぐるぐる巻きにしていた。
「時間稼ぎ、ド~モ」
バンボラはクローゼットの中から出てくる。
バンボラは『バンボラ』の体中に髑髏人形の髪を這わせていた。
『バンボラ』は羞恥で顔が真っ赤になっていた。
「ヴィペラァ、目ェ塞げよッ。コイツが武器隠してないか確かめるからな」
「それは、だいじょ~ぶ」
バンボラは怪訝そうにヴィペラを見つめる。
「ソイツは、陽動だから」
「何ィッ!」バンボラと『バンボラ』は声を合わせて叫んだ。
(確かにコイツが陽動で、他のヤツが来てても可笑しくはないが……)
『バンボラ』は先程叫んだこともなかったかのように振る舞っている。
「ヴィペラ、なぜそう思った?」
ヴィペラは指を2本立てた。
「まず、偽物の方のバンボラから殺気が無かったこと」
『バンボラ』が肩をビクリと揺らした。
(ほ~~ん、ヴィペラの言ってることは間違っちゃあいねェんだな……)
ヴィペラは指を1本折った。
「次に、オレにコーヒーを淹れさせたこと」
『バンボラ』の顔が真っ青になっていく。
「そ~~だよなァッ、ヴィペラさんよォアタシはぶん殴るもんなァ」
ボナベラは意地悪そうに笑い、反対に『バンボラ』は無表情になる。
「それもあるけど、そうじゃあない」
ヴィペラはバンボラを呆れたように見つめる。
「それじゃあなに?」
今まで口を開かなかった『バンボラ』が初めて声を出した。
ボナベラより少年に近く純粋さを感じさせる凛とした声だった。
「君、そんな声してるんだね」
『バンボラ』は本物より女らしい艶やかな笑顔だった。
例えるなら娼婦とかキャバ嬢だとかの女らしい腹の底が透けてみえるいやらしい笑顔だった。
バンボラはこのいやらしさを感じさせる女が嫌いだった。
鏡に映った自分より自分にそっくりなのだから。
(このビッチみてェな笑顔……ぶん殴ってやりてェがそれじゃあ意味がなくなっちまぁ……)
チッとバンボラが舌打ちしたのを見て『バンボラ』は形勢逆転とばかりに、得意そうな顔になった。
「まぁ君の声はオレにとってどうでもいいことだけど」
バンボラはヴィペラに感謝した。
この男が下半身が本体のような男でよかったと。
ヴィペラは心底興味なさそうに話を続ける。
「バンボラ、コーヒーをオレは何杯淹れた?」
「3杯だろ。テメェで淹れといて何言ってんだ? ついに頭のネジが全部抜けたか?」
ヴィペラの幼稚園児が作った問題のような質問に呆れたような顔で答えた。
バンボラの顔とは反対に追い詰められたような表情に『バンボラ』の顔が変わっていく。
(よっしゃあッ! あのイラつく顔面を崩してやったぜッ!)
「そう3杯……屋敷に入り込んだ侵入者の数だ。君を入れてね……」
「それを早く言えってのッ!」
バンボラは捕らえたネズミを逃がすまいとするネコのように髪を侵入者の体に巻き付けたままドアを開け、飛び出していった。
「君から見たボナベラはどうだい? 弟くん……」
‘どっちだかは知らないけど’とヴィペラは付け足した。
騒がしい女が他の侵入者を見つけに駆け出していったため、2人の男は部屋で対峙する。
「ジュリオです。姉さんも僕の変身に気付かないとは……」
「ジュリオ君の方か。気付いてたとは思うよ」
『バンボラ』に変わっていた人物は肉と骨の魂に変わった後、少年の姿に変わった。
ジュリオは驚いたような顔をして言葉を失った。
「だって能力で解毒剤を作ってったしね。君、さっきまで目が死んでたよ」
ジュリオは自分の体が濡れているのに気が付いた。
姉──ボナベラの髪の中に白髪が混じっている。
バンボラの髑髏人形の髪には毒を作る力があることをジュリオは知っていた。
バンボラは昔からの渾名のようなもので本名はボナベラだ。と言っても略称だが。
(アイツらが、解毒剤に気付いていればいいんだが……)
廊下を走るボナベラが考えるのは茜とこころの命だった。
弟や仲間よりも大事にしなければならないのは、護衛対象だからだ。
(ン? この額縁ずれてんな?つーかこんなとこにあったか? まあいいか)
ボナベラは額縁を直した後、髪を伸ばし廊下を覆った。
「アナタ、この家の人?」
ボナベラは見知らぬ女に警戒しつつ、話しかける。
(ヴィペラかアズーロか? 女連れ込んだのは?)
「えぇ、私はこの家の者です」
「アナタの弟さんかしら? ヴィペラって人を探してるのだけれど……」
女は戸惑っているようにボナベラの目には映った。
キツそうな性格の女はヴィペラ好みの性格で、ヤツのたくさんいる恋人(女友達)の内の1人なのだろう。
(またかよッ! あのスケコマシッ! この女も可哀想に……今日はど~しても帰ってもらわなきゃあいけねェしよォ……ヴィペラには後で一発喰らわしてやんねェとな……)
ボナベラはアズーロやヴィペラと一緒にいると兄弟に間違われることが多いので諦めて演じることにしている。
ボナベラは髪を元に戻して、話を続ける。
「ヴィペラは私の弟です。弟がどうかしましたか?」
(ヴィペラァッ! テメェの責任だぞッ!)
ヴィペラに心の中で文句を言いながら、女を警戒する。
「あぁ、ヴィペラによく言い聞かせておくんで今日はお引き取りください。アナタのような美しい方が家にいたら私も惚れ込んでしまいそうで……弟と貴女を奪い合うようなことはしたくはないのでね……」
(アタシがこの女だったらキメェって思うがな。帰って欲しいのはホントだが)
男の演技をするのは初めてという訳でもないが、女だとバレた後に同僚に惚れている女達からの嫉妬は同じ女だが正直に言って面倒臭い。
女はボナベラの胸元に飛び込んでくる。
女の香水の匂いはバラの匂いだった。
(ヤベェよ……胸は潰してるけど直接触られたんなら……バレちまう!
あんなコト言っちまった後だし、アタシは女が好きってェワケでもねェしよォッ!)
反射的に伸ばした腕は女は遠く、女はボナベラに抱き付く。
女はわざとらしく小さくキャッと悲鳴を上げて、ボナベラの胸にキスをした。
「やはり、私の運命の人はアナタだったのかしら……ボナベラ・カンパネッラ」
ボナベラからしてみれば女も男も大差はなく恋愛をしようとは思わない。
だが、自分の本名を知っている人間はこの土地にはいないだろう。
(この女は侵入者だッ! 茜さんとあのガキを狙ってきたッ! だが、心晴さんをやったヤツじゃあないッ! と思う……)
少し考えれば分かることだが、ヴィペラの恋愛感が狂っているというのがボナベラの頭に入り込んでいて考えつかなかったのだ。
「テメェ……ヴィペラの女友達ってワケじゃあなさそうだな。何者だ?」
女はボナベラの首に指を絡ませ、自分の顔のもとまで引き寄せる。
「つれないこと言わないで。私の名前はマーガレット・メイガス……よ」
頬を膨らませる一般的には美しいと分類される女にボナベラは吐き気を催す。女の香水の匂いは人一倍嗅覚の鋭いボナベラは嫌いだった。
「アンタの名前を聞いたんじゃないぜ。何者なのか答えろって言ってるんだ」
「分かってるわ、ボナベラ……愛しい人。
だ・け・ど~マーガレットってよんでくれなきゃあ答えたくないのよねェ」
女の顔はジュリオの先程の笑顔によく似た笑顔だった。
ボナベラは心底嫌そうな顔をして「マーガレットッ!」と怒鳴りつけた。
「ハァイ、ボナベラ。何でも聞いていいわよォ」
(このアマが、ジュリオを操ってたのか? あの顔ってェことはよォ~ッ)
ボナベラの髑髏人形のように毒を作ったりすることが出来る幽霊のようなモノは【能力体】という訳の分からないモノだ。
ボナベラのように能力体を発現させたものは【能力者】といわれる。
ボナベラにとって能力者は最も身近にいるのだから、マーガレットも同じだと考えるのは当たり前だった。
「スゲェ直球だがな、弟に手ェ出したのはアンタか?」
「いいえ、ボナベラ。私は女性が好きなの。男に手は出さないわ……」
本当にそんな風に思っているかのような女はボナベラをますます不機嫌にさせる。
ボナベラはただ若さや美しさを利用する女が苦手だった。
「じゃ、言い方を変えよう。弟と共にこの屋敷に侵入したのはアンタか?」
「えぇ、シンデレラの友人として茜とその孫の命を頂きに……ね」
その女の言葉はボナベラを行動させるには十分だった。
(『シンデレラ』か……カッフェとラッテが調べてたが……
そいつが操ってたのか? アタシの弟を利用して2人を始末しようと……)
「テメェ、覚悟はできてんだろーなァッ!
身内に手ェ出されてよォッ! 許すと思ってんのかァッ!」
ボナベラの背後に髑髏人形が現れる。
ゆらりと揺れる半透明の死神はマーガレットには死を告知する天使に見えた。
(さっきヴィペラを絞めたときよりはマジだかんなァッ!
抱きついてくれてよかったぜッ! ちょうど毒を打ち込める距離だッ!)
能力体は髪を伸ばし、首筋に注射器のように髪を打ち込んだ。
瞬間、マーガレットの足は廊下に崩れ落ち始める。
「おマヌケさん……私に毒を打ち込めると思っているの?」
マーガレットの足は糸だったのだ。
正確には糸になったというのが正しいのだが。
「このマーガレット・メイガスを殺そうなんて100年早いのではなくて?」
小馬鹿にしたような笑顔をボナベラの拳が歪ませる。
(まぁ囮だけどなァッ! 本命はこっちだぜ、百合女さんよォーッ!)
「姉さん!」
少年の声の方へ振り向くとボナベラは泥の塊に飛ばされていく。
泥がジュリオの肉体なのだ。少年は泥の肉体を自由自在に操ることができた。
泥自体が少年の能力体であり、少年も泥の一部だ。
泥は柔らかく動いていて毒を打ち込めず、ボナベラの能力体は少年の泥に力で打ち勝つパワーがない。
ジュリオはボナベラの弱点だった。
(3杯……侵入者の数は3人だッ!
百合女は糸の能力だから、別の能力者がいるッ!
そいつがジュリオを操ってやがるのかッ!?
ジュリオの能力はアタシと相性が悪いからなァ……
アズーロの部屋行って起きてりゃアイツに相手させなきゃあな……)
ジュリオを置いて走り出したボナベラにジュリオについてきたヴィペラは理解出来なかった。
ジュリオは姉を助ける為に駆けつけたというのに。
ボナベラは廊下を駆け抜ける。
少しの距離、それも100メートル位のものなのだがボナベラは長い距離を走ったように感じた。
アズーロの部屋のドアをボナベラは殴りつけ、そのまま床にへばり付いた。
「誰だ……部屋に来るってんならよォ~ヴィペラか?」
アズーロはドアを引きながら床のボナベラが視界に入った。
戦闘をしないはずのこの女がここまで疲労しているというのは珍しい。
「バンボラよォどうかしたのか? 首んトコがスッゲェコトんなってるぜェ」
ボナベラの首筋に複数の注射跡が存在した。
青白くなった首筋に紫色の穴が複数点在しているが、血液の赤が一切見当たらない。
ボナベラも言われて気づいたのか、首筋の注射跡に右手を持っていくと、指を注射跡の1つに気が狂ったのか爪を突き刺す。
ボナベラは首に能力体の髪で解毒剤を打ち込むと、アズーロの手を引いて女の所に走り出した。
廊下を走り出すと、先程とは違って体が軽く疲れもしなかった。
解毒剤の効果が出たのだろう。
首筋の注射跡がうっすら赤みがかり、血がボナベラのシャツの襟首を茶色に染めていく。
(さっきの毒は死にゃあしねェが動きづらくなるってヤツだった……
アンダーラバーズが間違えやしねェだろーしよォ……
糸の能力者とジュリオ……それと1人……操るヤツ……『シンデレラ』……)
アンダーラバーズはボナベラの能力体の名前だ。
能力体にはそれぞれ能力者が名前を付ける。
能力体に名前が無かったら他の能力者に出会った時に、色々と面倒だ。
少なくとも、ボナベラや他の使用人達はそう思っている。
先程の塲所に到着した時、2人の目に真っ直ぐに飛び込んで来たのは1人の少年だった。
薔薇色の糸で縛られた少年は弄ばれたのか、頬は桃色に染まり息が乱れ肩が上下している。
官能的な風情を醸し出しているが、それと同時に残酷性があった。
少年の口には黙らせる為なのか糸でナイフが押し付けられ、顎にまで血が垂れていた。
少年の長かった髪と身に付けていた衣類は鋭利な刃物で切り裂かれ、床に乱雑に散らばっていた。
少年はジュリオだった。マーガレットに散々嬲られたのだろう。
少年の身体の至る所には糸が食い込んで圧迫され出血していた。
泣き喚いたのか少年の顔には涙の跡があった。
姉のボナベラには目の前の光景が信じられなかった。
いや、信じようとも思えなかったのだろう。
いつも生意気で高圧的で高飛車な弟が自分達のような陰惨で狂気に満ちた輩に嬲られ、誇りを踏みにじられているのだから。
(──! なんだかよォ~ッ! 怒りが湧き上がってきたッ!
絶対にアイツをブッ殺してやるッ!)
ボナベラは握ったアズーロの手を離した。
瞬間、ボナベラの身体が世界から修正されるように熱を帯びた。
ボナベラもよく理解出来ていないのか、低く唸るような叫びを喉から吐き出されるのを戸惑った様子で立ち止まる。
(な、なんだよ……!? か、身体が熱い……気持ち悪い……)
その間も女の身体は音を立てながら四足歩行の黒く醜い獣に組み替えられていく。ボナベラの頭の中も獣になっていく。理性もなく、考えもしないで本能で物事を決める怪物に。
怪物の目的は只一つ、目の前の害を成す敵を殺し尽くすことだけだった。
*
屋敷の図書室に1人の女がいた。
旧式の暖炉に火を灯し、広く大きい図書室を悩むように忙しなく歩き回っている。
女といっても美しく若々しい訳でもなく、経験を積んだ魔女のような老婆という訳でもない、至って普通の中年の太った女だ。
その女こそがこころの祖母、神樹茜だった。
やがて、図書室の扉近くの棚の列に茜は【オカルト】と美しい字で書かれた古いラベルの貼られた棚を見つけその前で立ち止まる。
茜は優れた魔術師だった。
それこそ傷を治したり、植物を生み出したりと奇跡的な技術を持っていた。
だからといって魔術信者という訳でもなく、現代人らしく現代技術の万能性を信仰していた。
だが医療の力で治せないのなら禁術の力に頼ってみる、茜の頭にはそんなこと位しか今は考えられなかった。
茜は娘が助かる可能性が0.1%でもあるのなら、どんなものでも利用するだろう。それの代償が自分を慕う者達の命や愛する人の家族だとしても。
それが茜の魂に刻み込まれた本質だった。
茜は夫の身長に合わせて作られた本棚を見上げ、悩ましげに溜め息をつく。
男でも高い部類の方に入る凜の身長に合わせて作られた本棚だ。
息子より背の低い茜は1番上に置かれた本に手を伸ばしても届かなかった。
こんな時に自分が能力者ではないのが嫌になる。
もし自分が能力者だとしたら、岩になってしまった娘をどうにかすることが出来たのかもしれないのだから。
使用人達にも息子達にも能力体がいるというのに自分にはいないというのが情けなかった。
高い棚は凛の巻き込みたくないという考えだろうが、茜は凜を──家族を愛していたからこそ悲しかった。
自分の家の男達が何かを隠しているの解っていた。
自分が無知であることが最良の選択だということも。
この選択をとるということは無関心であるのと同じこと。
好きの反対は無関心という言葉が茜の胸に染み込んでいた。
愛しているからこそ、大事だからこそ娘の死について知りたいのだ。
その結果がどんなに残酷で、無機質なものだとしても。
「茜さん、失礼します……」
図書室の古い木製の扉が静かに開いた。
茜が扉の方に目をやるとおさげの男が立っていた。
男は陰気そうな雰囲気でこいつが侵入者だといわれても文句はいえないような風貌だ。
茜は使用人の前で情けない顔を見せられないと気分を切り換えた。
「アメティスタ、何かあったの?」
「いえ、ボナベラの件でお話が……」
彼の口からいつもは聴けない言葉が出てきた。
普段、ボナベラ以外の使用人達はボナベラのことをバンボラと呼んでいる。
茜が前に聞いたところ、使用人達は口を揃えて、“バンボラは自分達だけの呼び名だから”と答える。
bambola──人形の何処があの女に似合うのだろうか。
人を模した人間の贋作より粗暴なあの女に。
「先日、アイツから男になったと連絡が来て俺達が向かったところ……」
「男? 男になったの? ボナベラは女の子なのに」
突拍子のない茜の質問にアメティスタは紫水晶のような瞳を動かして進行を止めるなと無言の意志を感じさせる。
茜は図書室の中の読書スペースにアメティスタと共に移動し、静かに腰を落ち着かせた。
話を続けるように促すと男の陰気な雰囲気すら、気難しい人種の発する1種の目に見えない武装のようだった。
「簡潔に言いましょう。アイツも俺達と同じ──人狼でした。それも強力なオスです」
茜は珍しい物の名前を聞き驚愕の声を挙げる。
それもそのはず、魔術世界において人狼とは過去の生命体だからだ。
過去に魔術師ではない人間達が異端とし処刑すると、如何に繁殖力の高い彼らでも数を減らし子孫を絶やしたというのが茜の認識だった。
また、実際に生き残りとされている個体でもオスは魔術世界の高位、貴族や王族が貴重さ故に奴隷として所有しているか、詐欺師が貧困層の人間と野良犬のキメラを製作しそう扱っているかだ。
目の前の男とその仲間が人狼であることは知っていたが、彼等がその名を出すということは魔術関連の話題だというのは明白だった。
「『人狼』──姿を変幻自在に変化させ、狼の姿の時に見せる獲物を只喰らう凶暴性と人型の時に見せる異常なまでの魅力の二面性がある症状とされる……まあ、私も専門ではないから分からないのだけれど」
アメティスタは自分達のような人狼を9人(ボナベラを入れて10人)も従えて、専門ではないからと宣う自身の主に「そうですか」と賞賛半分呆れ半分の言葉を投げかけた。
この女ははっきりと言って理想が馬鹿のように高い。
優秀な魔術師であると周囲の人間が語るのに対して、当の本人は愚鈍な落ちこぼれであると卑下する。
自分達には会得出来ないような高度な魔術を使ったとしても、夫には劣ると自虐する。
自己評価が低すぎるというのがこの女の欠点だった。
そんな女を主人とした自分も相当に愚かな人種なのだろう。
アメティスタは苦笑する。
20年以上も共に過ごした妺分の症状にすら感付けなかったのだから。
小人の意味の渾名を持つ男が途端に憎らしくなる。
自分の気付けなかった事実を最初に仮説として提示したあの男が。
自分と同じ時間を味わった男が何故、あっけらかんとした態度で言ってのけたのか理解出来なかった。
「『オス』ってのが問題ね。貴方達と同じようにメスだったのならば貴重ではないから狙われずに済むけれど」
人狼(広義に言うと人外とされる者)には、性別がない。
本当に性別が存在しないのではなく生物学的には女で種属上の性別がオス、もしくはその逆といった者達も存在するからだ。
それでアメティスタ達はその内の生物学的には男で性別がメスだ。
男として女を愛することも出来るがメスとしてオスの子を孕むことも出来た。
それはプライドの高いアメティスタにとって屈辱でしかなかった。
人狼には3ヶ月に1度の発情期があるのもアメティスタのプライドをへし折った。
男でメスであるというのは自分が性的に弱者であると発情期が来る度に頭に叩きつけられる。
幸い自分達には同じような人間が周囲にいた。
だが、ボナベラは自分達とは違う。
人狼自体珍しいが、自分達のように外見と性別が反転している者で尚且つ貴重なオスだ。同じような人間なんて存在する可能性が少ない。
それも“強力な”と枕詞を付けるに値する程強くメスとして屈伏してしまいそうな狼。
アメティスタ達にとってボナベラは────。
「──Aghaaaa!!」
屋敷中の空気が震える。それはこの図書室も例外ではなかった。
例えるのなら巨大なオルガンが奏でる不協和音に近い音だ。
聴く人が聴けば人の叫びにも木の葉のざわめきにも聴こえるような。
そんな形容し難い音だった。
図書室の二人にはこの音の正体が解った。
いや、魔術が使えるものであれば音の正体が理解出来るだろう。
あれは人狼の雄叫びだ。
茜は人狼の雄叫びだというのは理解出来たがその出所までは解らなかったようだ。
「アメティスタ、これは……?」
茜の問いに対して、アメティスタはそれどころではなかった。
もし、もしも自分の考えが正しいのならば手遅れの事態になりかねないからだ。
「茜さん──車酔いしませんでしたよね?」
アメティスタの周囲にはじっとりと湿った空気が漂いだす。
身体は霧のように、四足歩行の狼に変わっていく。
狼といっても大型犬のサイズではなく、それこそ茜程度なら乗せられる程に巨大な獣だった。
黒くたっぷりとした毛が狼の威厳に拍車をかけ、瞳の紫が煌々と光っていた。
「体重を軽くしてください。俺にも限界があるので」
狼の声帯では出せない複雑な音は、この狼がアメティスタであることの証明だった。
自分の主人に対する尊敬さえも捨てて急いで向かわねばならない、それこそがアメティスタの今の全てだった。
茜はアメティスタの真意こそは理解していないようだったがブツブツと何かを呟きだす。
茜は滅多に使わない口語表現における魔術を施行していた。
分かりやすくすると呪文だ。
魔術師が呪文を使用するのは簡略化の意図の他にはない。
万人が使える技術より魔術は秘匿せねばならないという重要かつ難易度の高い制限があることが一般人出身の魔術師が増えない理由だろう。
呪文の呟きが鳴り止んだ時、アメティスタは茜を咥えて背に乗せ図書室の扉に向けて駆け出した。