第1話 プロローグ
東北のM県S市翁来町から瀬崎橋を渡ると【山ノ瀬】という島がある。30年前に埋め立てによって造られた人工の島だ。
【山ノ瀬】の中央部から南側に築20年程のアパートがあった。
六畳一間の部屋とベランダと窓の外から聞こえてくる二子馬線を走る列車の音をこのアパートの住人達は気に入っていた。
2050年の夏、240の部屋に1組の男女がやって来て、列車の音とベランダから見える空をすぐに気に入った。
六畳一間の部屋はふたりで暮らすにはちょうどよい大きさで、そのうえ山ノ瀬でも治安が悪くかなり寂れているところのため格安だったので、彼らは早速契約を交わした。
女の羽や歯車がカラフルな色で車体に描かれているキャンピングカーに積まれていた引っ越しの荷物を部屋に運び込み、彼らはその日に小さな自分達だけの結婚式を挙げた。
1年後──2051年11月11日午前11時13分
彼らに家族が増えた。子供を女が産んだのだ。
赤ん坊は240の部屋で生まれたばかりだというのが信じられない程の大声をあげた。
240の部屋にこころと祖母がいた。
こころは春休み開始の嬉しさよりも母の情報を聞いた混乱と悲しみと言葉にも表せない負の感情が確実に勝っていた。
ただ言えるのはこんな状況になっても帰ってこない父親に対しての不安と怒りが泥のようになった心の中に砂時計の中を落ちる砂のように溜まっていくということだけだった。
「こころ……アンタの母親は確かに『岩になっていた』……私がこの目でハッキリと見た……アンタには言えないけれど、とある技術で元に戻そうとした…けれど出来なかった。その技術では死んだものを生き返らせるということは出来ない。アンタの母親は……心晴は『死んでしまった』……」
祖母は静かに泣きながらそう言った。ハンカチで涙を拭きながら祖母は続ける。
「アンタのことは私が引き取ることになった。
大家にも話を通してあるから、下で待ってる黒い車に乗ってくれ」
祖母は部屋から出ようとドアを開ける。古い木製のドアはギギィという音を出してバタァンと閉じた。
そのドアの音がこころだけになった部屋に少しだけ残ったあと、どこかへ消えていった。
こころは「下で待ってる黒い車に乗ってくれ」と言われたのを思いだして、祖母の家に行くのにランドセルに教科書類、手さげに着替え、それと色々なものをリュックに積めてドアを開けた。
カンカンと音を出して錆び付いたアパートの階段を降りていくと祖母の隣にピカピカの黒塗りの車が停まっていた。
こころは小声で「ウソだろ……」と呟いた。
こころが(バアさんが、乗るのだとしたらセンスがアホみたいに悪いんじゃあないか)と考えていたら祖母が話しかけてきた。
「寒いでしょ。車ん中に入んな。暖房がついてるから。準備は言わなくてもしてきたようだし」
それだけ言うと祖母は後ろの席に乗り込んでいった。
祖母が運転するんじゃあないのかと驚いたけれど、こころは急いで後ろの席のドアを開けて祖母の隣に荷物と一緒に乗り込んだ。
「へぇ…君が茜さんの孫なのか…」
運転席からイケボと時代が違ったら言われるだろう声が聞こえる。
前のバックミラー?だっただろうか映り込んでいる左右非対称の変な髪型をした金髪の男がその声を出した人物なのだろう。
「オレは『ヴィペラ』。君のおばあさん…茜さんの家の使用人だ」
そういうと金髪の男は運転を開始した。
金髪の男は話を続ける。
「んで、オレの隣に乗ってる天パのメガネが『アズーロ』。 オレと同じように茜さんの家の使用人。少しキレやすいが悪いヤツじゃあない。 残りは……そうだなぁ…夕飯を食べる時にでも話そうか」
『アズーロ』と紹介された男は助手席で眠っているようだった。
静かになった車の中から遠くなっていく生まれ育った家を見ながら母との思い出がこころの頭の中で映画のように上映されていく。
昨日の「終業式の日はハンバーグにしよう」といって笑っていた顔を最後に上映は終わった。
外は暗くなっていてこころは自分が眠っていたことに気付いた。
山ノ瀬から出たことのないこころにとって車の下を続く道路がスゴく珍しく感じる。
上映が終わった後にほっぺたを伝う塩水が目の裏から量産されて顔がとっても熱かった。
祖母に「アンタの荷物は後ろにやっといた」といわれた。
そんな大したことがない言葉がこころはとても嬉しかった。
ヴィペラが流したのだろうか、80年代とか90年代の古い洋楽が車内に流れている。
「君は何がいい?」
やがてヴィペラがこころに問いかけてきた。
こころは質問の意味が分からず黙ると、祖母が「夕飯は何がいいかって聞いてる」と助け舟を出してくれた。
こころは少し悩んでから「えっと…ハンバーグ……が食べたい…です……」と言った。
ヴィペラはクスリと笑って「じゃあファミレスにしようか。茜さん、それでいいですか?」と言って祖母が静かに「あぁ」とだけ答えた。
流れる景色をジィっと眺めていたら、ファミレスに到着していた。
特には何も起こらなかったけれど、いつの間にか祖母が支払いをすませていてこころらは店を出た。
アズーロとヴィペラはワインを飲んでいたので、祖母が車を運転して家に行くことになった。
祖母が「私は助手席には誰も乗せたくないんだ。もちろんアンタもだ、こころ」と言ったので、男3人で(それもその内2人は鍛えているような体つきをしている)ギッチりとした後ろの席だったからスゴくこころには居心地が悪かった。
こころは眠くて何を話していたかとか何をしてたとかは覚えてはいないけれどI県にある祖母の家に着いていた。
祖母の家は60年前に成金が建てたってかんじの家で駐車場からこころが両手を広げても、はみ出るように大きかった。
車から出ると暖房の効いた車内から3月の終わりでも寒い空の下に出たからか体がブルリと震えて、体の表面がアイスキャンディーにでもなったように感じた。
それが分かったのかはこころには分からないが、ヴィペラとアズーロがこころの手を握った。
祖母は荷物を持って先をズンズンと進んで行っていた。
こころは祖母よりこの二人の男の方が好きになっていた。
多分、この二人にこころは心の底の底で『父親』とかを感じているのかもしれない。
実の父親よりこの二人の男の方が世間一般でいう『父親』という年の離れた友人に近いのかもしれない。
駐車場から歩いていって少しすると、綺麗な庭が見えた。
庭は見事に管理されていて、こころは園芸には興味はないけれど何処から見ても絵画みたいに美しく思えた。
「スゴイなぁ……こんな庭つくれるんだから…」
こころは思わず口から出た言葉が途端に恥ずかしくなった。
(こんなに広い敷地なんだから業者さんが手入れをしているんだろうし)とか色んなことがこころの頭の中で回転してこころの顔が火を吹いたように熱くなった。
「そ~お? ありがとう。オレがこの庭つくったんだ」
そのヴィペラの一言がこころの顔を冷ましてくれた。
それからヴィペラはこころにあの花はこういう名前とかこの花はこんな花言葉とか色んな話を聞かせてくれた。
カッカッカッという音が段々と大きくなってきた。
こころは話し込んでいて気付きはしていたけれど、どっかで人が歩いているのかくらいにしか気にしていなかったのだ。
祖母の家の方から人影が近付いてくる。
女性の声が地面を糸が伝うような音でこころの耳に入ってきた。
「ヴィペラさんよォ~~ッ! 今日、勝手に車を使うってコトはよォ~ッ! アタシにケンカを売ってるてェコトでイイんだよなァーッ!」
服の上を細い糸が通るような感覚がしていた。
その後にとなりの熱が引っ張られていった。
こころは目の前の光景を理解できなかった。
こころの目には長い茶髪の背が高い女が怒りやらの色んな感情をヴィペラに思い切りぶちまけているように映っていた。
最も女の背後に立っている枯れた老木で作った人形に髑髏の仮面を被せたような半透明の幽霊だけならば理解しようと思えただろう。
その幽霊が髪を伸ばしてヴィペラを縛り上げるということをしていなければだが。
(なんだ、あの化け物は?)
こころの視線に気付いたのか髑髏人形は死んだ魚のような目をギョロリと動かし髑髏人形はまるで存在しないかのように消えていった。
髪で縛り上げられていたヴィペラは地面に落下した。
茶髪の女は髑髏人形が消えたという事実に対応できていないようだった。
「バンボラ、何故ヤツを消した? いつもは消さないのに……」
ヴィペラが問いかける。
縛られて落とされて、怪我をしているだろうに痛みを感じていないのか文句の一つも言わずに不思議そうに聞いた。
「アタシが知るかよ! アイツが勝手に消えたんだぜ! 強いて言うんなら……アズーロ! アンタの隣のガキがアイツの方向を見てたってェことぐらいだッ!」
茶髪の女──バンボラが怒鳴るように叫ぶ。
こころの方に指を指しながら。
(確かに幽霊……女はアイツと言っているが……僕が見てたからって幽霊が消えるのか? 山ノ瀬でもあんなかんじの幽霊はたくさんいたが、僕が見たからといって姿を消すことはなかったが……)
こころは不愉快だと言いたそうな表情でバンボラを見つめる。
ボナベラはその視線に気付き、こころを蜂蜜色の目で睨み付けて家の方に向かって歩いていった。
少し遅れて長い髪がハラリとバンボラの体についていった。
トゥルルル、トゥルルルと電話の着信音が鳴り出した。
ボナベラの携帯から鳴り響く音に耐えきれなくなったのか、アズーロが
「バンボラァッ!さっきからうるせぇんだよォ~ッ!! 出るなら出るで、切るなら切るでなんとかしろよッ!! クソがッ!」と怒鳴った。
(確かにうるさくは感じたが……そんなに怒鳴るほどか?)
前のバンボラの髪が揺れた。
バンボラは携帯を取り出して耳に当てている。
「こころ君、先に家に入ろう」
ヴィペラが口を開く。
こころと二人の男は家の方に歩いていった。
幽霊のことはもう考えている必要はないと考えたのだろう。
男達は家にまっすぐ向かっていった。
歩いていくとすぐに家の前に着いていた。
こころには家というより屋敷に感じた。
屋敷は管理されているが、人が住んでいるような空気ではなかった。
人の住んでいる場所というのは住人に対して歓迎するような空気が感じられるが、この屋敷は人が住む家というより無機質な箱庭のように感じられた。
こころはこの屋敷を正常だとは思えなかった。
屋敷の中に入るとホテルのように広いロビーが広がっていた。
最もこころはホテルに宿泊したことはなかったのでこの広さが気持ち悪かった。
(母さんが岩になったことをこの男達は知っているのか? さっきはちょいと絆されそうになったが‥…僕はこいつらだろうと利用して、母さんを治すんだッ!! その為ならどんな汚い手でも使ってやるッ!)
こころはこの屋敷を見て決意を胸に秘めた。
ヴィペラに「君の部屋だ」と言われた部屋に入った。
自分の為に用意された部屋は240の部屋より随分広く感じられた。
母の年収よりも高いであろう家具や調度品の数々に圧倒されたが、
精神的にも肉体的にも少年にはキツいものもあったのだろう。
こころはベッドに倒れ込んですぐに眠った。