救済とは星のように遠きもの
少し遅くなりました。
楽になりたい。羊のような角をもつ呪塊のその言葉がスッと頭の中に入っていく。これ以上なくそれが真実だと思い込んで、疑う余地一切はなかった。
誰からも期待されない、信じてくれない、気にされない。
誰もが蔑み、否定し、愚弄し、無条件に嫌っていく。
いっそ完全に無視してくれた方がよかった。私だけが透明人間だったらと思ったこともあった。
そんな世界に生きるのにもうとっくに疲れ果てていた。
暴言と暴力の嵐による過去の悪夢は終わった。だけどそれが再び起こらないなんてことは保証されていない。いや、絶対に起こる。いつ同じようなことになるか、なんてことをこれからずっと考えて、怯えて過ごしていくなんて、耐えられない。
「…楽になりたかった。そう、楽になりたかったんだ」
そう呟いて自らの吐いた汚物を避けて三角座りになると、羊のような角をもつ頭はニヤリと笑って2つの頭こと、《諦念》と《傲慢》を馬鹿にするように言葉を紡ぐ。
「『ほらやっぱり!我らの思った通りだ!ははは、《諦念》と《傲慢》じゃあ思いもしなかったんじゃない?おっと失礼、思うわけがなかったかぁ、すまないすまない』」
「『ハっ、ぬかしおる!ただ問いが当たっただけで子供のように調子に乗りおって!薄っぺらい同情心しか持たぬお前の言葉の軽いことよ、まったく傲慢なやつだな!そう思わないか、根気なしの《諦念》よ!』」
「『…はあ、一番見下しているのはお主だろう。まあいい、《傲慢》が言うことも確かだ。《同調》よ、昔から言っているがその軽い言葉と薄い同情心を漂わせるのは止めろ』」
「『違う違うよぉ。我らはね、共感してあげているんだよ。可愛そうな者に手を差し伸べてあげているの。見て分からない?これは慈善事業だよ』」
3つの頭が喚きだす。その影響か体から吹き出る煙は量を増していき、やがて濃くなって結界内の呪塊の醜態を隠していった。
視線を荒れた床に落としてため息をつく。自分の死にたい理由ははっきりとした。でも、死ぬための方法は分からなくなった。結界が自分の力でも呪塊の力でも壊せないのは理解した。一人で死ねない。人間にも殺されたくない。
死に方一つに我がままかもしれない。でも自分の死に方くらい自分で選ばせて欲しい。
私の自身の死さえあれば何もいらないのに。それがどうしてこんなにも叶わないものなのだろう。
「『うるさいですよ、そこの3頭。いい加減にするですよ』」
3つの頭が繰り広げる喧嘩の中に、山羊のような角を持つ新たな頭が参入してくる。どことなく発する一言一句怒りが混じっているように感じた。
「『なんだ《平等》よ!お前なんぞに用はないぞ!今は《同調》のやつにに一噛み入れないと気が済まぬ!』」
「『我も同意見だ…、諦めてもう少し待ってもらえぬか?』」
《傲慢》に同調して《諦念》が《平等》と呼ばれた頭に諦めるように言う。《平等》と呼ばれた頭は本当に諦めたのか顔を3頭から背けた。それを見た《傲慢》と《諦念》は再び《同調》へと向き直りくどくどと話し始める。ふと《同調》の方を見るとニヤニヤと悪い笑みを浮かべていた。
しかし《平等》と呼ばれた頭は少しも諦めていなかった。3頭の方を見据えることなく静かに呪文を紡ぐ。
「『ええ、あなた方に干渉するのは諦めました、ですよ。なのであなた方も平等に争うのを諦めて下さい、ですよ。じゃないと不平等ですよ』」
瞬間、何かに影響されたのか《諦念》と《傲慢》はビクリと頭を震わせる。何かを言おうと口元をせわしなく動かすが代わりに何度か乾いた息を吐き出して、やがて顔をしかめて悪態をついた。
「『…ッ!…ッ!クソが!やりやがったな《平等》!』」
「『…うむ、やられたか…厄介な。全く、どこが平等なのか。その力、本当に難儀なものよ』」
「『残念、もう終わりかい?じゃあ我らも止めるとするよ』」
さっきまで争う気満々だった《同調》も合わせるように首を引っ込めていった。最初から最後まで勝手な奴だ。
「『最初に迷惑かけてきたのはあなた方じゃないですか。ふう…全く、ようやく静かになりましたですよ。…さて小娘、我らからもいいですか?』」
この頭たちははつくづく喋ることが好きだ。こんな辺鄙な場所でどれだけ無駄に話し続けてきたのだろう。私にもいま出来ることはこの呪塊のお喋りの相手になって無駄な時を過ごすことしかないけれど。
「…どうぞ」
「『では一つ。小娘、あなたの求めることが死ぬなのはよくわかりました。ですがそれ以外に望みはないのですか?』」
「…ない、死ぬこと以外に望むことはないし、それ以外のことを望むことはない」
たった一人の人間を殺すことも出来ず、自殺することにさえ失敗した私にはもう他のことをやる気力なんてものはなくなっていた。もうあの泣いていた少女を見た時の激情も、殺した時に湧き出たあの喜びもどんなものだったのか、何だったのかもはっきりしない。
「『本当ですか?願いが一つしかないなんて信じられませんですよ。人間というものは生きているだけで無限といってもいい程に願望を、欲望を生み出して求めるのでは?』」
「…よくわからない。他にも願いはあったのかもしれない。けど、それがどんなものだったのかはもう分からない」
「『ふむ…ではもう一つ。小娘、あなたは自分が死ぬことを、自分だけが死ぬなんて事、不平等だと思わないですか?』」
「…は?」
不平等…なのだろうか。私だけが死ぬことは、果たして不平等と言えるのだろうか。でもそんなことは関係ない。私が死に平等も不平等もないはずだ。
「『なぜ小娘だけが死ぬ必要があるのですよ?小娘だけでなく他の人間を道連れに殺せばいいじゃないですか?そうすることであなたのその命が、その人生がどんなものだったかを他の者に刻むことも出来るはずですよね?誰にも知られることなく朽ちる必要はないと思うのですが』」
誰にも知られずに死ぬことは怖くない。むしろそうすることで私の死で弄ばれることはないからだ。死ねば何も分からなくなって楽になるかもしれない。けれで私の死という事象を使って言葉巧みに玩弄されるのは嫌だ。
殺しに戻るのも無理だ。いや、無理というより出来ない。左手の無い状況で戦うことも殺すことも、ましてやまともに逃げることすら叶わないだろう。今度は絶対に殺される。
私は人間の中にも絶対に倒せない相手を知っている。ティエル・アーディア、出来ることならその名前を覚えたくなかった。左腕を吹き飛ばされた恐怖が、勝てないという虚無感が、今も呪詛のように私を蝕み続けている。
「…無理、できない」
「『何を言うのですよ。死にたいというなら原因がある、その原因には人間が関わっていているのでしょう?その人間に対して憎悪や復讐心といったものはないのですか?』」
それは確かに、ある。どんなに自分の死を望んでいても、その原因である家族と人間という生物への怒りと憎悪は奥底で燻っている。
だけどその憎悪や怒りに対して彼女に対する恐怖が侵食してくる。ティエル・アーディアという名の魔法少女の存在、私の人間に対する復讐心をたった一人で抑えつける恐怖の象徴。あいつは恐らくまだ本気すら出していなかった。
「やるやらないとかそういう問題じゃないの!それは不可能だって、絶対に叶うことがないって…私は分かっているから」
「『…なるほどですよ』」
何かに納得したのか一度首を引っ込めた。一時の静寂の後、軽く首をかしげながら未だに結界内に充満する煙を押しのけて再び顔を近づけてくる。
「『小娘、あなたはすでに何人か手にかけているですよね?そしていつしか絶対に殺せない相手に遭遇し全て諦めた。そういうことですか?』」
「…」
「『無言は肯定としますですよ。その者は恐らく…位置的にティエル・アーディアですね?』」
「…?私、言った?」
「『いいえ、我らがその名を知っているだけですよ。そいつは我らを討ちに来る者の一人の予定ですから』」
「…え?」
体中に一斉に鳥肌がたつ。逃れようのない冷たい感覚と恐怖が襲ってくる。理解したくなかった。あの魔法少女はどうあってもここに来るということを。私がここで無意味に生き続けても必ずここに訪れるということを。
嫌だ。怖い。
あいつには、いや人間に殺されるのは嫌だ。どうすれば逃れる?どうすればあいつを殺せる?どうすれば人間を殺せる?どうやったら私は望んだ死に方が出来るの?
どうすれば、私は助かるの?
ふと目の前の呪塊を見る。《平等》は私の方をじっと見て何かの答えを待っているように見えた。他の頭たちも介入することもなく、ただ成り行きを静かに見ていた。
そうだ。忘れていた。この呪塊は私を殺してくれる力を持った化け物だ。私の救世主はここに来た時に最初からあって、救ってくれるまでが少し遠回りなだけで。私が助かる方法はあったんだ。
「…ねえ、いい?」
「『ええ、いいですよ』」
「どうしたら、私を殺してくれる?」
絞り出すような細い声でそう問いかける。煙の晴れた結界内からその巨体を振るわせ、ぞっとするような声色で口に出した。
「『それを待っていた』」
4つの頭は同時に黄金色に輝く瞳を私へと向けた。
最近友達からアップルパイもらったんですよ。
とてもおいしかったです。それだけです。
それと少しずつブクマ増えてきていてうれしいです。いつもありがとうございます。