暗闇に沈む
GW!だけど外出予定ない…
逃げて、逃げて、逃げて、逃げる。必死になって森を駆ける。いまどこにいて、どこに向かっているのか。それを気にする余裕はなかった。
どれだけ走ったかなんてわからない。左腕の切断面から流れていた血は止まったが治る様子はない。血の滴る感触がまだ残っていた。
「あれは…」
歩を緩め、息を整えつつゆっくりと歩く。数分と経たずに眼前に現れたのは海と、崖だった。
「行き止まり、か…」
心の中で諦念が渦巻く。潮騒が響きわたる中、何がいけなかったのか、どうすればよかったのか、何がしたくて、何が欲しかったのかを何度も何度も繰り返し考え続けていた。
その果てに思い出した。私の想い、願い。
私は、死にたかったんだ。
このデスゲームが始まって、人間を殺してからずっと忘れていたことをいま、思い出した。
ふらふらと吸い込まれるように崖へと近づいていく。人間には殺されたくない。自分の命なのだから、自分で終わらせないと。
不意に足元から不吉な音が鳴る。それから間もなくガラガラと大きく音を上げ、私を巻き込んで崩れていく。海面に叩きつけられ、波の暴力に飲み込まれていく。私と共に沈んでいく岩の塊を目下に、口元を緩めて意識を遠ざけていった。
×××××
走馬灯のように昔の記憶が流れていく。無数の忌々しい記憶が闇の中から現れてくる。
私の家族は最初からおかしかったわけではない。普通の企業に勤めていたお父さん、主婦として家計を切り盛りしてきたお母さん、やんちゃな弟、それと私。
家族みんなで楽しいことも辛いことも話し合って、喜んだり、悲しんだり。そんな平凡な幸せを享受していた。
いつからだったかだろうか、そんな平凡な生活は唐突に狂い始めた。
最初におかしくなったのは弟だった。おかしなことを言い始め、私に向かって殴りかかってきた。そのことをお父さんやお母さんに言いつけたが、私から殴りかかってきたと言い張る弟を信じこんで私を一方的に叱った。
本当のことを言ったはずなのに信じてもらえず、枕を濡らして夜を過ごした。
次におかしくなったのはお父さんとお母さんだった。私に対して笑うことも話しかけることも減っていき、やがて私のことを見なくなった。どうしてそんなことをするの、私が何か悪いことをしたからなの、と理由を問い詰めても返事が返ってくることはなく、何度も謝っても態度は一向に変わらなかった。
むしろ態度は悪化していった。
忘れもしない金曜日の夜、お父さんが帰ってきたと思ったら私を呼んだ。不思議に思いつつお父さんの元へ向かうと、いきなり殴られた。
呆然とする私に畳みかけるように何度も何度も殴ってくる。会社がなんだの、周りがなんだの、私がなんだのと言っていることに一貫性がなく、襲い掛かってくる狂気に対抗するすべのない私には、謝り続けることしかできなかった。
暑い夏の夜、お母さんに叩き起こされた。正確には蹴り起こされたといった方がいいだろう。髪を掴み、血走った目で私に向かって罵詈雑言を吐いてくる。お前はあれができない、これができない、何もできない、ダメだ、ゴミだ。粗大ゴミだ、なんでこんなモノが産まれたのか、なんで生まれてきたのか。狂気に満ちた目を向けて私という存在を否定してきた。
そんな家での出来事も続き、次第に私も狂っていった。私はだんだんと臆病になっていき、周りの存在全てが恐ろしいものに見えて、友達だった子も、誰も信じることができなくなっていった。学年も変わり、クラス替えを経て私と面識のない子がいじめてくるようになった。常にビクビクと怯える私は格好の餌食だったのだろう。
また、私の居場所が減った。
いじめは続いた。靴が砂場に埋められていたり、机に罵詈雑言を書かれたり、いつの間にか物がなくなっていたり。そしてある日、なんの前触れもなく階段から突き落とされた。驚いて振り返ったと同時に意識は暗転し、気が付けば病院にいた。左足が麻痺して、動かなくなった。
あいつらは私を入院させることなく家に連れ帰った。学校には入院したと伝えたらしい。
家の中では暴力に苛まれる日々、それが嫌で日中は動かない左足を引きずって放浪していた。暗くなるまでダラダラと歩き、家に帰ってからはあの女の狂気の的になる。弟が帰ってくると家事に戻り、代わりに弟が私をいたぶった。
あの男が帰宅し、皆が夕ご飯を食べている間は寂れた2階の自室に籠り、しばらくするとあの男に連れられてサンドバッグにされる。
3人が寝たころに残った少量の米を、皮に残っている焼き魚の身をおかずに食べる。食べ終わったら母が来ないことを祈りつつ、薄いタオルを体に被せて死んだように眠りについた。
一人になるといつも考える。私のせいなのか、私が悪かったのか、私がいけなかったのか、私が生きているから。私が悪い、私が悪いと自らを貶め、自己嫌悪した。
どうしてこうなったのか、どうして誰もおかしいと思わなかったのか、どうして私を助けてくれなかったのか、どうして人間は残酷なのか、どうしてこの世界は残酷なのか。人間を、世界を憎んで、呪った。
いつの日か自らの思想が破綻していることに気付いた。人間を、世界を全て壊したい、殺したいと願いながら、同時にこの世界から消え去りたい、死んでしまいたいと願っていた。
殺すためには生きないと、でも私は死にたい、死んでしまったら殺せない、じゃあ生きないと、でも私は生きていてはいけない。死ななければならない。生きたい。殺したい。死にたい。
狂った思想は結論を得ることなく、答えを求め続けた。
地獄は唐突に終わりを迎えた。あの男が死んだ。原因は心筋梗塞らしい。本当かどうかは知らないし興味もない。葬儀の後しばらくは母と弟からの暴力はますます激しくなっていった。
数日前、あの女は暴行の果てに私の髪を引っ張って二階から降りようとした。左足が動かない私は抵抗できず引きずられた。痣の部分が擦れて血がにじみ出たのを覚えている。
階段を降り始めてすぐに髪を引っ張られる感覚が消えた。あいつは「あっ」と一言発してそのまま頭から落ちていった。口元からヒュッと音を漏らしてそれきり音を発することはなかった。どうすればいいか分からず、取り合えず死体を階段の下にある小さい物置きに押し込んだ。
弟はお母さんが死んだその日から帰ってこなかった。何があったのかはわからないし、興味もない。
こうして、ものの数日の間にあっさりと地獄は終わった。だが、私の中の人間への殺意と自分自身の死への渇望は収まらなかった。
誰もいない、静かになった一軒家でただ一人。黒く淀んだ水面の前で静かに己に問い続けた。以前と比べて細くなった自分を見て、死を想う。
目を瞑り、深く、深く暗闇に沈んでいって、何も見えなくなった。