6話:誕生日には花束を
「ちょっと、ま、待って……どこまで行くのー!」
ママチャリと子供用マウンテンバイクと、大型犬の四本足。
この中で最も足が遅いのがママチャリだった。
店から引っ張り出され、ママチャリの乗車を命じられて、ついて来い! からの全力疾走。
虎鉄と拓斗の爆走を、私は汗だくで追いかける。
心臓は破裂しそうだし、呼吸困難だしでずっと口をぱくぱくさせながらペダルを漕いでいた。
どうしてあの一人と一匹はあんなに早いの。
おかしいくらい早いの。私だって別に運動音痴じゃないし、徒競走では真ん中くらいの順位にいたのに、どうして追いつけないの。
くそう、これが老化か。
「おい新人ー! おっせぇぞー!」
「ま、待ってぇー」
舗装された一車線道路の端をひたすら一列で駆け抜ける。
まわりは水のない乾いた田んぼと、冬野菜が育つ畑が半々。
人の姿はなかった。
「もうすぐだかんなぁー! くたばるなよ新人ー!」
「くたばりませんー!」
振り向いていひひ、と笑う拓斗に悪態をつく。
大人げないけど、私も余裕がないので許してほしい。
「あーもー、早すぎ……」
「のろまだな新人ー。置いてくぞー!」
「置いてかないでってばぁー」
そんなこんなで、がむしゃらに足を動かすこと約三分。
拓斗がマウンテンバイクを乗り捨てたのは、村を流れる一級河川の川岸だった。
雑草と砂利がまだらに混じる河川敷には、豪快なせせらぎの音が響く。
川幅はゆうに二十メートルを超えているだろうか。
向こう岸まではとても渡れない。
虎鉄なら泳げそうだが、私や拓斗では溺れて流されるのが関の山だ。
「虎鉄! やるぞ!」
拓斗は虎鉄のリードを外し、上着のポケットからゴムボールを出して投擲した。
飛んでいくボールに、虎鉄の目がぎらりと輝く。
「行けぇ! 取ってこい!」
号令とともに虎鉄はボールを追いかけ、勢い余って川にまで飛び込む。
「元気だなぁ」
私も近くにママチャリを止めて、笑う膝を労わりながら拓斗の元へ向かった。
一応、エプロンを脱いでかごに入れてから。
「もう一回いくぞ、おらぁ!」
ずぶ濡れの虎鉄がボールを持ち帰るや否や、すぐさま二投目が投げられた。
「あー、もうダメ。足がプルプルする……」
「すみれって貧弱だな、大人のくせに」
「拓斗みたいな元気は小学校に置いてきたんだよ」
「ふーん」
心底興味のなさそうなふーんだった。
息を整える私の隣では三投目が放たれる。
「虎鉄、楽しそうだなぁ。拓斗はいつもここで虎鉄と遊んでるの?」
「いつもじゃねぇよ。山の時もあるし、果樹園の時もあるし、うちの近くの公園の時もあるし。虎鉄が飽きないように変えてる。オレ優秀なバイトだろ?」
「絶対私よりこの辺りに詳しいよね、拓斗って」
「あったり前だろ。何たって先輩だし? しかも、お前この辺で見たことない顔だし?」
「この前引っ越してきたばっかりなの」
「やっぱオレが大先輩じゃん新参者」
「まあ、そうだけど」
拓斗を先輩認定したくないけど。
「オレくらい優秀になれよ? 千秋は怒るとおっかないぞ」
帰ってきた虎鉄をわしゃわしゃ撫でて、四投目。
「怒らせたの?」
おっかないって、まさかあの温厚そうな千秋さんが?
普通無理だよ、あの人を怒らせるなんて。
拓斗にしか無理だよ。
「うっかりぶつかってガラス瓶割ったらな、頭に角生えたみたいに怒られた」
「うわあ……やーい拓斗、見た目通りのおっちょこちょいー」
「た、たまたまだ! 一回だけだ! 一回だけ!」
ちょっといじっただけなのに、拓斗は腕をぶんぶん回して猛抗議する。
寒さからか、恥ずかしさからか、耳たぶが真っ赤に染まっていた。
「はいはい」
「はいは一回だろ!」
「はぁーい」
「ったく。あーあ、これじゃあすみれには当分散歩係は任せられないな!」
「えー。じゃあセンパイに任せちゃおうかなぁ」
「任せとけ任せとけ。どうせすみれみたいな足の遅いやつにはムリだろうしな!」
おだてたらどこまでも登っていくタイプだ、この子。
「ちなみに、センパイはどういう経緯で散歩係になったんですか?」
息を整え終えた私は、天狗になっているセンパイを小突く。
虎鉄はボールそっちのけで暴走中だ。
「知りたいか?」
「知りたい知りたい」
「じゃあ、特別に教えてやる」
可愛いなぁ、小学校五年生。
生意気だけど可愛い。
こんなにお手本通りの踏ん反り返り、初めて見た。
「あのな、散歩一回で一個スタンプがもらえるんだよ。ほら、これ」
上着のポケットを探り、拓斗はポイントカードらしき厚紙を私に見せる。
「スタンプ? 景品と交換できるとか?」
厚紙をはさみで切って、マスを手書きした手作りのスタンプカード。
薄緑のカードには、ほとんどのマスに肉球型のスタンプが押されている。
ゴールまではわずか三マスだった。
「全部埋まったら花束と交換! 姉ちゃんがな、もうすぐ誕生日だからな!」
お、意外と優しい子らしい。
「お姉ちゃんいるんだ。どんな子?」
「えーとな、ピアノとサボテンが好きで、優しくて、髪の毛サラサラでいい匂いがして、美人で、あとおっぱいがでかい! 羨ましいだろ! 超自慢の姉ちゃんだぜ!」
「はいはい羨ましいです。サボテン好きなら千秋さんと話が弾むだろうね」
「おう! サボテンなら千秋とタイマン張れたかんな。今入院してるロホホラも姉ちゃんの!」
「あのお饅頭が?」
「コンクールの優勝祝いに買ってきたやつ。だから絶対枯らしちゃいけねぇんだ」
「早く退院できるといいね」
「おう!」
拓斗はいひひ、と笑う。
「姉ちゃんはすげぇんだ。あのな、去年のコンクールでも一番でな、今年のコンクールも――」
それから店に帰るまでの間、私はお姉ちゃんの自慢話をずっと聞かされ続けた。
ピアニストが夢の、素敵な女の子のお話を。
*****
お店に戻ると、秘密のお客さんはすでにいなかった。
「千秋、スタンプ!」
ドアを開けるなり、拓斗はジャズの流れる店内で叫ぶ。
「うわっ。虎鉄だいぶはしゃいできたね。今日はシャンプーしようか。拓斗もありがとね」
「スタンプ!」
「はいはい」
突き出されたポイントカードに、肉球のスタンプが押される。
このやり取りもいつもの光景なんだろうか。
千秋さんがやけに手慣れている。
「よし、残り二つ! じゃあな!」
カードをポケットにしまった拓斗は、店を飛び出しそのまま姿を消した。
どこまでも嵐のような男の子だ。
明日も振り回されたらどうしよう。
「ごめん、すみれちゃん。虎鉄拭くの手伝って。僕がバスタオル取ってくるまでブルブルしないよう見張りよろしく」
「ぜ、善処します」
千秋さんは私と虎鉄を残し、二階に上がっていった。
「虎鉄、頼むよ?」
「うわん」
ずぶ濡れ毛玉は返事をした途端、体を――
「ひゃっ! 冷たい! やめてー!」
力いっぱいブルブルと震わせた。
コンクリートの床やテーブルに水滴が飛び散り、私まで霧吹きしたウスネオイデスのごとくしっとりしてしまう。
「おまたせ、って遅かったか……」
「遅かったです……」
一呼吸おいて「うわん」と萎んだ尻尾を振って虎鉄が鳴く。
絶対に笑っているな、こいつ。
ご機嫌そのものだ。
「先にすみれちゃんを乾かそうか」
「えっ」
千秋さんは持ってきた数枚のバスタオルのうち一枚を広げ、私を包み込む。
「初日からこんなでごめんね」
「いえ、私こそ見張り失敗しちゃって、すみません」
覗き込む顔が近くて、途中から思わず目を逸らした。
蕁麻疹でも出そうなくらい体に熱がこもる。
きっと、タオルで包まれているからだ。
こんなに柔らかくて、甘い匂いのするタオルのせいに決まっている。
「虎鉄を乾かし終わったら、お仕事再開だ」
「は、はいっ」
まっすぐなだけで、他意はないんだろうなぁ。と考えながら、私はその日閉店までパソコンと睨み合った。