23話:故郷
「いやぁ、すみれちゃんはすごいね。さっすが都会育ち」
以上が電車を乗り継ぎ、バスで移動したのちの千秋さんの台詞である。
情けないくらい券売機に怯える姿は、墓まで持っていこうと決めた。
どうやら、キーボードよろしくいっぱいボタンがある機械が鬼門らしい。
話を聞くと、レジの操作が限界なのだそうで。
致命的な弱点すら微笑ましいのは、謝りながらの朗らかな笑顔が原因だろう。
こんな風に笑われたら怒れない。
……とにもかくにも、目的のバス停に私たちは降り立った。
鬼住村から約二時間ほどの港町に。
辺りには民家や整備された道路が続く。
緑はあるものの、鬼住村よりずっと文明を感じる町並みだった。
何より大きな違いは、山や森が見えない点だろう。
あっても雑木林程度だ。
まあ、人通りが少なく背の高い建物のない田舎には変わりないのだけれど。
でも、ちょっと感動するくらい雰囲気が違う。
二時間の間にがらりと風景が変わった。
私には目新しいここは、千秋さんにとって勝手知ったる土地。
さあ、ここからはお任せだ。
「ちょっと歩くけど、平気? 寒くない?」
「鬼住村より暖かいし、五枚着込んだので大丈夫です」
「五枚……」
明らかに引かれていた。
私はいつものチェスターコート。
千秋さんはグレーのダッフルコート。
お互い防寒対策はばっちりである。
「だ、だって千秋さんが海風は体に障るって……」
「うん、まあ、うん。備えあれば患いなしだもんね。ついてきて」
二度のうん、が気になるが、私は頷き千秋さんの隣を歩く。
「この辺りは港が近いから、ただのスーパーでも海産物が新鮮で美味しくてさ。これから行くところは特におすすめ」
「ええと、夫婦で経営している小さい魚屋さん、なんですよね」
電車移動中に教えてもらったのは、昔ながらの美味しい魚屋さんの話。
「そう。お願いすると捌いてくれたり、おまけをくれたりするんだ。店主が目利きでハズレがないって評判で、密かに人気店みたい」
「ほう……」
私の生まれ育った地域にはなかったタイプのお店だ。
「左に曲がるよ」
「はい」
明らかにお店のなさそうな住宅地へ、ずんずん進む千秋さん。
さらに路地を何度か曲がり、出世魚の名称で盛り上がっていると、目的地が姿を現した。
「よかった。休みじゃない」
立ち止まったのは、ごくごくありふれた古めかしい民家のような……お魚屋さん。
チャイムを鳴らしたら割烹着のおばあさんが出てきそうな趣がある。
入口はガラス張りで自動ドアだが、それ以外は完全に普通のお家だった。
こんなところを知っているなんて、千秋さん通だなぁ。
なんて、看板を仰いでいると当の本人が「こんにちはー」と自動ドアをくぐる。
「いらっしゃい」
続いてドアをくぐる私の予想は見事に外れた。
冷蔵ショーケースの向こう側に現れたのは、紺色の前掛けが似合うおじいさん。
矍鑠とした髭面がいかにもな玄人感を醸し出している。
「ご無沙汰してます」
「あぁ、あんたか。どうした? 魚屋に彼女なんか連れて」
「彼女はうちの従業員で、常子さんのお孫さんですよ。ねぇ、すみれちゃん?」
「う、え、そうです! お初にお目にかかります!」
錯乱して時代錯誤な挨拶をした私に、おじいさんは目を丸くした。
「ほぉ。常子ちゃんの。娘ともども東京に出たんじゃなかったか?」
「かくかくしかじか、ってやつですよ」
「です。話すと長くなるんですが……」
言葉尻を濁すと、おじいさんは目を細める。
「まぁ、元気にやってんなら詮索はしねぇよ。で? 今日は何が欲しいんだ」
話の分かる人だ。
安心した。
「ブリの半身とあらを。ありますかね?」
「あるよ。待ってろ」
おじいさんは冷蔵ショーケースを開けて、大きな切り身をまな板に乗せる。
次いで、ぶつ切りにされたあらも取り出した。
「刺身で食うのか? 切ってやるぞ?」
「いえ、僕たち常子さんが調理される食材の調達係なんです」
「なら、このままだな。常子ちゃんがやるんならこのままの方がいい。あの子の料理は昔っから一級品だ」
「祖母をご存じなんですか?」
「ああ。中学校が同じだった。俺が転校するまでな。お前のばあちゃんは、この町で生まれ育ったんだ。聞いてないか?」
「そうなんですか! 初耳です」
「ふぅん」
話している間に、立派な切り身とあらは発泡スチロール箱に収められていた。
「あらはまけといてやる」
「いつもありがとうございます」
「常子ちゃんによろしくな」
どこか憎めない不愛想のまま、おじいさんは千秋さんに「ほれ」と電卓を打って見せる。
「私払います!」
コートのポケットを探り始めた千秋さんを制止し、私は鞄から財布を出した。
「だめー。僕が払いますー」
「いえ、ここは孫の私が」
「やかましい。孫娘の金は取らん」
ぴしゃり。
口答えできない。
そのまま千秋さんに支払っていただき、私たちは店を後にした。
「すみません……」
「いいよー。重くない?」
住宅地を進みながら謝る。
せめてもの抵抗に、発泡スチロール箱は私が強奪した。
「これくらいはさせてください……」
誰ともすれ違わず、来た道を戻って大きな通りに出る。
ここを右折してしばらくするとバス停だ。
「ねぇ、まだ時間があるし、ちょっと道草しない?」
住宅地への出入り口。
千秋さんは来た道とは逆の方向を指さした。
私はスマホで時間を確認する。
確かに、バス停で待ちぼうけすると凍えそうなくらい余裕があった。
「どこへですか?」
「海」
「う、み、ですか」
「季節外れだけどね。ちょっとだけ見ておきたくて。好きなんだ、冬の海。どう?」
「私も見てみたいです」
おばあちゃんの故郷の海を、この目で見ておきたい。
「じゃあ、出発! 途中にコンビニあるし、温かいコーヒーでも飲みながらね」
再び私たちは並んで歩き始める。
通りに沿って、ずんずんと。
交通量の多い交差点を渡り、その先のコンビニで缶コーヒーをゲット。
遠くに連なる水産加工工場を眺める頃には、潮の香りが強くなってきた。
「こんな時間でも釣れるんだ。結構釣り人いるや」
間もなくして、延々と続く堤防を視界にとらえた。
腰のあたりまでそり立つコンクリートの堤防には、ぽつぽつ釣りを嗜む人々の姿が見える。
「何が釣れるんだろう……」
「この時期の堤防釣りならメバルとかカレイとかかな、多分」
「煮つけ、ですね」
「だね」
ブリも美味しいけど、こっちの煮つけも絶品だ。
いつも作ってくれるおばあちゃんに調理法を習いたいくらいに。
よだれが垂れそうな私を「あっち行こう」と千秋さんが誘導する。
遠くに見えた堤防へは案外すぐに到着し、私はさっそく身を乗り出した。
「おぉ……白波が」
荒々しくうねる時化た海は、まるでへそを曲げたあけび様みたいだった。
「落ちないようにね。はいどうぞ」
左隣の千秋さんが缶コーヒーを差し出してくれる。
「ありがとうございます」
荷物を足元に置き、二人同時にプルタブを開けて、まだ温かい液体を口に含んだ。
千秋さんはブラック、私は微糖のカフェラテだ。
「鬼住村に嫁ぐまでずっと、常子さんはこの海の近くに住んでいたんだって」
千秋さんはコンクリートの上に頬杖をついて、呟くように口にする。
「ほら、常子さんってすっごく懐が深くて海みたいな人じゃない? 故郷の話を聞かせてもらった時にさ、あぁ、だからか、って納得したんだ。海に見守られて、育てられて、見送られて、あんなに優しい人になったんだよ、きっと」
孫なのに知らなかった。
もっと話さなきゃ。
「おばあちゃん、私が鬼住村に行きたいって相談した時も二つ返事で歓迎してくれたんです。もし断られてたら、まだ呪われたまま途方に暮れてたと思います。千秋さんにも出会えないで、塞ぎ込んで」
「じゃあ僕は、常子さんのお蔭で頼りになる店員を見つけられたってわけだ」
春の陽だまりのような笑顔。
どこかおばあちゃんのくしゃくしゃの笑顔とも重なるそれに、静かにうなずいた。
「僕がさ、……僕が鬼住村に店を出したいって掛け合った時、誰よりも歓迎してくれたのも常子さんなんだよ。どこの馬の骨とも知れないよそ者の僕に」
こうして話していて、私はようやく思い至る。
千秋さんはこの辺りの訛りがない。
家族の話も聞いた記憶がない。
元々どこで生まれて、どこで暮らしていたのだろうか、と。
「千秋さんはどちらの出身なんですか? お店を開くためにこちらに越してきたんですよ、ね?」
「あぁ、うん」
ゆっくりと瞬きし、千秋さんは話し始める。
「とても遠くて雪深い北の町。冬にはありとあらゆるもの、生き物も植物も、音すらも凍り付いてしまうような極寒の地だよ。僕はずっと、そこにいたんだ」
東北か北海道、かな。
鬼住村よりずっと厳しい環境に思えた。
「故郷と鬼住村なら、どちらが好きですか」
口にしたあとに、変な質問だったなと後悔する。
「……鬼住村かな。ここはあそこよりずっと温かいから」
海風が髪を揺らし、過ぎ去っていく。
同時に、千秋さんの儚げな面持ちが私の心を奪った。
「さて、もうそろそろ行こうか。すみれちゃん耳真っ赤だしね」
「え?」
ぼうっとしていた私の両耳を、骨ばった大きな手が包む。
「ほら、やっぱり冷え冷え」
ああ、恥ずかしい。
恥ずかしいけど嬉しい。
くすぐったい。
熱の移った耳が余計に赤くなりそう。
「バスに乗り遅れたらあけび様に怒られちゃいますよね」
自然と笑顔になった私は、千秋さんと共にバス停へと向かった。




