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という──である。

・比較的長いです。

・ここまで読んでくださった皆様がどう思われているかは知りませんが、台詞がすらっすら出てくるので僕はクソ野郎好きです。

・ここまで三人称。たぶんラスト。






 王城での役目を終えれば王族なんぞに用は無い。本当に無い。

 早く家に帰りたかったサクラ・アブソルートは馬車を断り、馬すら借りず、自慢の快足飛ばして迅速なアブソルート侯爵家領への帰還を試みた。

 その途中に報告を受け、ピーターがシマヅ家より兵を借り受け援軍に駆け付けてくれているのは知ったがそれでも予断を許す状況ではない。

 たとえ微力だったとしても、

 侯爵家の長女としての役目を果たすため。

 そして一人でも多くの領民を救うため、家族の役に立つためにサクラは森を駆け抜けた。


 ついでにジョーも馬を乗り潰しつつ、なんとかどうにかしてサクラから数時間の遅れで領内に到着。

 軽ーく帝国軍の兵站への破壊工作を行っていたサクラと合流して一旦屋敷へと戻ることにした。

 その頃には日はどっぷりと暮れていて、月の光だけが夜道を照らしていた。






 ***






 その、少し前。


「あーくそっ! 手が痛ぇ!」


 ネイティブダンサーは苛立たし気に叫んだ。

 自慢の両拳は赤く腫れ、血が垂れている。

 もしかしたら骨にひびが入っているか、悪ければ砕けているかもしれない。


「……ださ」

「聞こえてるぞ!」


 部屋の隅で一部始終を見学していたペンサコーラがぼそっと呟き、それに対してネイティブダンサーが怒鳴る。

 まあ、客観的に見れば、ダサかったのは事実だ。

 だが──


「あまり馬鹿にするものじゃあないぞ、ペンサコーラ。誰かを貶すよりは先に、素直に賞賛すべき相手がいるだろう」

「……まあ、そうですね」


 ──それ以上に、エンタープライズにしては非常に珍しく感心していることがあった。


「相手の拳が壊れるまで殴られ続けるなんてなぁ、そうそうできることではない」


 見事なまでの精神力と耐久力。

 実に良い見世物だったと、エンタープライズは続けた。

 彼の足元には当の騎士が一人、うつ伏せに倒れている。


「なあ、ウィリアム・アブソルート。何十発も殴られても耐えるなんてなぁちょっと格好が良過ぎるだろう。騎士の矜持ってやつか? 俺はそういった一銭にもならんような感情には一切興味が無かったんだが……中々どうして面白かったぞ」


 エンタープライズは本心からそう思っている。

 およそ百発。しかも元拳闘士の腰の入った打撃をウィリアムはそれだけの数、じっと耐え続けたのだ。

 一歩も退かず、呻き声すら上げず、その瞳に炎を燃やし続けながら。

 最後には前のめりに倒れてしまったが、それはどんな冷徹漢であったとしても驚嘆に値する光景だった。


「ああ、俺は今すこぶる気分が良い。なんならチップを払ってやってもいい。それぐらい俺は感動した訳だが……どうだ、欲しいか?」


 エンタープライズは懐から一枚の紙幣──ただし最も安価──を取り出して、ウィリアムの頭上でペラペラと振ったり、頭をペシペシと叩いたりする。

 だが当然、返事は無い。

 無理からぬことだろう、ウィリアムは完全に気絶していた。

 先ほどとは立場がすっかりと逆転してしまっている。


「……ふむ、まあいい」


 しかし反応が無いことを悟ると、それっきりエンタープライズは興味を失ったように視線を外した。

 どこまでいってもウィリアムのそれは、珍しい見世物でしかなかったからだ。

 紙幣を懐に仕舞いつつ、部下二人に向き直る。

 やるべき事はまだ残っていた。


「よし。では、やるか」

「はい?」

「あ? なにをだよ?」


 もう仕事は終わったはずだと主張する二人。

 目標のフローラ・アブソルートは確保したのだからあとはそれを依頼主に届けて終わり。

 その後の交渉はもう関わりのないことで、自分達は受け取った報酬を贅沢に使いどこか戦争から遠い場所で優雅にバカンスをするのだと。

 だが、それに対しエンタープライズはわざとわしく大きな溜息を吐いた。


「……何も分かっていないんだな、お前たちは」


 呆れたと、そう言わんばかりに。

 二人はその反応に少しムッとした表情を見せるが、エンタープライズは気にした様子もなく「いいか、よく聞け」といつになく神妙な顔をする。

 その姿に思わず息を呑んだ部下二人に対して、ニヤリと不敵に笑いながら言う。


()()()()


 今この瞬間はボーナスタイム。持てるだけ持って行くぞ。。

 その言葉に二人が喜劇ばりにずっこけたのは言うまでもないことだろう。

 そして思ったのだ、


(こいつ最低だ、死んだ方が良い)


 自分たちのことは棚に上げつつも、ここまでは下衆ではないと。



 ***



 アレクサンダー・アブソルートに成金趣味は無い。

 とはいえ爵位の第二位である侯爵家の屋敷だ、金目の物には事欠かない。

 調度品、宝飾品、芸術品のオンパレードだ。

 護る者の居ないその場所で泥棒家業に勤しむことの楽しいこと楽しいこと。

 あのエンタープライズですら童心に帰ってそれはもう夏休みに虫取りのため森にやってきた少年の如くはしゃいだのだった。内心では。


 しかし、楽しい時間というのはあっという間に過ぎてしまうもので、時計の針は百倍速。

 物色に没頭している内に気づけば既に三時間が経過していた。

 あまり長居するのも良くないと三人が持ち運べる範囲内で気に入った品々を選び抜いた後、そろそろ帰還するかとロビーへと集合した。


 それが、良かったのか、悪かったのか。

 その時最悪のバッティングは起こった。






 *****






 日の出前のまだ暗い夜中。

 サクラが屋敷の敷地内に入った段階で異変に気づき、ジョーを置き去りにして庭園を駆け抜け勢いのまま正面玄関の扉を蹴破るように開け放つ。

 するとそこには、一番見たかった顔と、二度と見たくなかった顔の両方がサクラを出迎えた。


「……随分と早いな。宰相殿も意外と大したことがない」


 そう呟いたのは、不快な声の不吉な男。

 その傍に控える二人の内、大男は何やら満杯の大きな袋を持ち、もう片方の細身の女はあろうことか母を、フローラ・アブソルートを抱えていた。

 眠っている、眠らされているかは定かではないが母の顔色は悪い。

 そして、彼らの足元に倒れ伏している騎士。顔は見えないが後ろ姿でそれが兄であるウィリアム・アブソルートであると理解できた。

 その兄はまるで人形のように、ピクリとも動かない。


 掃除が行き届いていたはずのロビーには灯りも消され、ひどく荒れていた。

 飾ってあった絵画が無い、お気に入りだった陶器が無い。

 代わりにあるのは何かの破片と、誰かの血。


 視界から得られる情報を少しずつ咀嚼して、理解して。

 サクラ・アブソルートは頭から血の気が引いて行くのはまざまざと感じた。


「久しぶりだな、サクラ・アブソルート。それと、おかえり」


 その言葉を、お前が言うのか。


「グレイゴーストっ……!」


 サクラは歯噛みする。

 男は、エンタープライズはいつもの姿ではなかった。

 髪は乱れ、顔には多くの痣と切り傷。

 服は刻まれボロボロで、少なくない部分が赤く血に染まっている。

 重傷と言っていいだろう。

 それが戦闘によって負った傷であることは明白だった。

 だがその戦闘の勝敗もまた、明らかだった。


 屋敷が襲われた。そして兄が負け、母が人質に取られている。

 この際他のことはどうだっていい、その事実だけをサクラは認識した。


「先に言っておこう、動くなよ。もし動けば誰も幸せになれない」

「……もうすでにかなり不幸だが」

「なら言い直そう。俺が幸せになれない、そしてお前たちはさらに不幸になる」

「……ちっ」


 舌打ちぐらいしか、できることはない。

 動けば母が殺される。殺した奴を自分が殺す。後には何も残らない。そういう図式。

 だから動かないし、動けない。


「正しい判断だ、理解が早くて大変結構。俺だって殺しがしたい訳じゃあない、痛いのだって嫌いだ。穏便に行こうぜ、穏便にな」


 体調自体に余裕がある訳ではないのだろうが、それでもエンタープライズは冗談めかして煽るように言った。

 逐一、人を苛立たせる男だ。

 何をどうしたらこんな最悪な性格になるのか。


「……どうして、こんなことをする」


 純然たる疑問として、問うた。


「……は? 理由か? 知らんよ、そんなこと。依頼主に聞いてくれ」

「そうじゃない。お前は、どうしてこんなことができる? 良心の呵責は無いのか?」


 人の心は無いのかと。

 ああ、そんなもの、無いに決まっているけれど。

 問わずにはいられなかった。


「……俺は贅沢が好きでそのために金が必要だったからだ。ちなみに良心の呵責は無い」

「金を稼ぐなら他にもやりようはあっただろう! こんな、こんなことっ!」

「……貴族の娘に言われても説得力が無いな。黙ってても金が湯水のように湧いてくるお前たちと違って庶民は貧乏なんだ。酷い家だと学も無いし、伝手も無い。有るのは借金だけってな。知らないのか?」


 知っている。知っているとも。

 知識としては、だが。生まれてから、殊更貧しさを感じたことは無い。


「……お前も、そうなのか」


 もし、そうなのなら──


「いや、俺は至って普通の家系の生まれだな。どちらかと言えば裕福だった」

「なんだよ! なんなんだお前は!?」

「俺がこの仕事をしているのは一番稼げて一番手っ取り早く、そしてなにより才能があったからだ。恨むなら神様を恨めよ。こんな人間に創る方が悪い」

「責任転嫁にも程があるだろ!」

「持って生まれた才能を活かしてるだけなんだがな?」

「死ね!」


 エンタープライズの答えは予想していた回答ではあったけれど、望でいた言葉ではなかった。

 サクラにもそれが嘘か真か、それぐらいの判別はできる。

 そしてエンタープライズの言葉は嘘ではない。


 だからこそ理解できない。

 奴は素で、奴なのだ。

 ──もし何か他の、悲しい過去でも何でもいい、それらしい理由があればまだ納得できたのに。許さぬまでも、認めぬまでも、理解できたのに。

 こんな純粋悪、同じ人間だとは思えなかった。


「クソ野郎が」

「褒めるなよ、照れるだろ」

「……………………」


 褒めてない、とは言わなかった。

 もう何を言っても、相手の思う壺な気がして。






 ***






 領内に着いた時点で既に疲労困憊だったために妹に置き去りにされたジョー。


「サクラっ! どうし──!?」


 その遅れてやってきたジョーが現場を見て声にならない声を上げる。

 見知らぬ男たちと屋敷の惨状、今まで見たこともない妹の表情で全てを察した。


「ほぉ、長男の方は初めて見たな」

「……お前が、グレイゴーストか」


 ジョーはサクラを自分の背中に隠しながらエンタープライズに対峙した。


「その通り、初めましてだなジョー・アブソルート。邪魔してるぞ」

「邪魔するなら帰ってくれ」

「初対面でこの嫌われようか。悲しいな、俺が何をしたと言うのだろう。……だがまあ、言われずとも帰るつもりだ、用は済んだからな」


 実に大漁だったと、エンタープライズは愉快そうに口角を上げた。

 ジョーはその仕草だけで目の前の男が嫌いになった。


「……道を開けてくれないか?」


 エンタープライズ言う。

 屋敷の玄関の扉の前にはジョーとサクラが立っている。


「荷物が多いと帰りが大変だろう、置いて行けよ」

「……あまり高圧的な態度で来られると怖くて手が震えてしまう。そうすると、あらぬ方向に滑ってしまうかもしれないなぁ……」

「……そいつは悪かった、気を付ける」


 エンタープライズの言葉はやる気を感じさせないひどい棒読みだった。

 だが対照的に、母を抱えるペンサコーラの手元ではこれ見よがしに刃が煌めいている。

 分かりやすい脅迫だ。しかし、これほど効果的なものもない。


「まあ安心しろよアブソルート。俺はお前の母親に危害を加えるつもりはないし、この仕事が終わればもうお前たちには関わらない。なんなら神にでも誓おうか?」

「……信じるとでも?」

「信じるしかない、だろう?」

「……………………」


 ジョーは表情を変えない。

 激情を見せるのは相手に弱点を晒すのと同じだと分かっていた。

 徐々に熱くなっていく体に反して、頭をクールに。

 努めて冷静に言葉を発する。


「目的はなんだ?」

「俺のか? それとも依頼主の?」

「お前のだ」

「金だよ、知ってるだろう」


 即答。どうあってもエンタープライズの答えは変わらない。


「いくらだ?」

「……は?」


 だからこそ勝利条件も明確だ。


「報酬はいくらだと聞いてるんだ。交渉をしよう、グレイゴースト」

「あ、兄上なにをっ──」

「黙ってろ、サクラ」


 片手で物理的に妹の口を塞ぎつつ、ジョーはエンタープライズを見据えた。


「なあグレイゴースト。誰からいくら貰っているかは知らんが、そんなに金が欲しいなら侯爵家から出そうじゃないか」


 言葉で解決できないなら暴力で、暴力で解決できないなら金で、金で解決できないなら言葉で。戦い方は一つじゃない。

 エンタープライズは予想外だったらしい言葉に一蹴呆けたような顔をしたが、すぐに笑いだした。


「くっくっく……おかしなことを言う男だ。それは、俺がお前たちの領内で何をしたか知りながら言っているのか? 見ろよ、お前の妹の表情。地獄の番人だってそんな眼はしてねぇぜ」

「知ってるよ」


 振り返らずに言った。

 どちらも、知っている。


「書類には目を通している。被害総額については考えたくもないが、死者に関してはなんと0人だ。お優しいお前たちの人道的処置に免じて被害者の心的外傷にさえ目を瞑れば……まあギリギリ許容範囲内だな」


 軽い口調でジョーは言った。

 内心はらわた煮えくりかえる怒りを隠し、背後に感じるとてつもない殺気を無視し、涼しい笑みを浮かべる。

 元々専門なのだから得意な物だ。

 何事にも対応できる万能性を保持しながらの、冷静さと胆力。

 それこそが王国情報部期待の新鋭ジョー・アブソルート本来の武器である。

 まあ万能は器用貧乏と言い換えることもできるし、王城ではちょっとあれだったし、妹が絡むとポンコツになりがちだが。


 うん、まあ、右手に感じる荒れた呼気が本当に怖い。

 視線の向かう先が自分ではないのでなんとか耐えられている。


「ふむ、続けてくれ」

「簡単な話だ。あんたの依頼主と同じだけの額を俺が払う。あんたは母上を返す。なんらな他の荷物は土産にしても良い。もちろん今までの罪過についても全てチャラにしよう。どうだ、悪い話じゃないだろう?」


 悪い話どころか破格だろう。

 今は良い、母を直接人質に取っている今は、手が出せない。

 だが事が終われば、アブソルート侯爵家はグレイゴーストを許さない。

 どこに逃げようが、どこに隠れようが、必ず見つけ出す。

 たとえそれが異界の門のその先だろうが、絶対に辿り着いて殺してみせる。

 これは決意でも宣言でもなく、確定事項だ。


「俺が依頼主を裏切るような男に見えるか?」

「見えるから言ってんだろうが。義理だの人情だのと気にする性質なのかよ、あんた」

「いや、金は全てに優先される。忠誠心とは俺から最も縁遠い言葉だ」

「だろうな、そんな顔をしている」


 言っておきながら自分でも「どんな顔だよ」と思ったが、不吉で不気味で不愛想な男だ、特に間違ってはいないと思う。

 自覚があるのかエンタープライズも気にした様子はなく、反論もしなかった。

 そして少しの思案の後に言う。


「確かに……お前の妹に追い回される日々は中々に肝が冷えた、この仕事が終われば二度と関わりたくないと思うほどにはな。この溜まりに溜まったヘイトを一度リセットできるのならそいつは魅力的な提案だ」

「そうだろう、そうだろう。怒り狂ったこいつに追い掛け回されるのは俺だってご免だ。餓えた羆だってこいつに比べれば可愛いもんだろうよ」

「ふっ、違いないな」


 おそらくアブソルート侯爵家を通して初めての意思の疎通に二人は和やかに笑い合う。

 無論、腹の中ではどす黒い感情が渦巻いていたのだけれど。

 後ろから刺してくる抗議の視線を黙殺しながら、ジョーは言葉を選ぶ。


「依頼主には失敗したと伝えればいい。信用は地の底だろうが疑われるようなことは無い、相手が悪かったで終わりだ。数年経てばほとぼりも冷める、その時にまた仕事を始めれば良いさ、この領地以外でな」


 メリットとデメリット、さながら商人の営業のように並び立てて、比較して、こちらの方に利があると伝え続ける。

 ジョーは必死だった。

 顔にこそ出してはいないが、背中は汗でびっしょりと濡れている。

 喉はカラカラで何度も唾を飲み込んでいた。


(耐えろ、堪えろ、隙を見せるな……!)


 この交渉が失敗すれば侯爵家は終わりだ。

 父は、母を切り捨てることなんてできない。

 それだけは絶対にできない。

 国を、民を、もしかしたら自らの子供ですらも、これまでの人生の全てを捨ててあの人は母を選ぶだろう。

 そうでなければ、壊れてしまう。

 いや、とっくにひび割れていた父の心は、母の存在が辛うじて繋ぎ止めていたのだから。

 ここで母を連れて行かれてしまったら、この家は二度と元の姿には戻らない。


「……悪くない、ああ悪くはないぞジョー・アブソルート」

「そうか、なら──」

「だが三つほど、問題点がある」


 ジョーの言葉を制して、エンタープライズは指を三本立てた。


「まず一つは単純に額の問題だ。俺は今回依頼を三か所から別々に受託している、つまり成功すれば通常の三倍ほどの報酬が貰える訳だ。合計すればかなりの額になるが、こいつを上回るのはさしものお前たちでも難しいだろう」

 

 概算だがと、エンタープライズが続けた数字を聞いてジョーは微かに息を呑む。

 提示された金額は侯爵家の支払い能力を大きく超えていたからだ。

 どう考えても国家予算レベル、並の貴族が五つ束になったって凡そ暗殺者風情に払うような金額でも、払えるような金額でもない。

 常軌を逸している。


「……払えるさ。アブソルート侯爵家は建国以来続く由緒ある家柄だ、あまり舐めない方が良い」


 だがョーの声はけして大きくもなく、小さくもなく、淀みない。

 たとえそれが嘘だとしても。


 祖父の代で歴史的価値のある芸術品などは全て軍資金に変えられその上で浪費してしまっている。父が幾つか取り戻しはしたが、その数はたかが知れている。

 また戦争の傷を少しでも早く癒すために領内の税率は低く設定されており、税収は市場の規模の割にはそう多いわけでもない。

 つまるところ侯爵家にはたいして金が無いのだ。

 だがそれを悟らせることはしない。

 この件に関係なく、そういう情報操作は以前からやっていた。


「この屋敷を見るにあまり豪華絢爛といった印象は受けなかったが」

「成金趣味が無いだけだ。『わびさび』って知らないか? 海向こうの流行りらしいぞ」

「そうなのか」

「そうだとも」

「……………」


 エンタープライズは一度疑うような視線を向けるが、すぐに切り上げた。

 その代わりに指を二本立てて、次に移る。


「ジョー・アブソルート」

「……なんだ」

「必死過ぎるな。よほど母を救いたいと見える」

「……家族を大事に思うのは普通だろ」


 普通。普通のはず。

 自分の演技に瑕疵は無かったはずだと、ジョーは揺れる精神を押え付ける。


「俺が察するにお前の今の心理状況は怒りよりも緊張の割合の方がでかい。どうした? 世界の命運でも背負ったような顔をして」

「っ……!?」


 だが一瞬、喉が詰まり咄嗟に言葉が出なかった。

 それをエンタープライズは見逃さなかった。


「やはり、お前にとってこれは絶対にまとめねばならん交渉か」

「そりゃそうだろ、家族の命が懸かってんだぞ」


 慌てて取り繕うが、効果は無い。


「それだけではないのだろう?」

「………………」

「二万払える人間に一万で売るほど俺は馬鹿じゃあない。値段を釣り上げてきたくなったな……」

「お前……っ!」

「払えよアブソルート、大事なんだろ? まさか……払えないとか言わないよな?」


 見透かされた、のだろう。

 うっすらと目を細めて笑うこの男はきっと理解している。

 そして、相手の嫌がることもよく理解しているので最悪なのだ。

 これ以上の値段のつり上げは、もはやどうあっても分割払いだので誤魔化せるような領域ではない。


「まあ待てよ、あんま欲張ると良い事ないぞ」

「そうか? 俺の経験上、素知らぬ顔で強欲な方が人生ってのは得するぜ?」

「……分かった。払う、払えばいいんだろ」


 ジョーは一度唇を嚙んだ後、絞り出すように言った。

 払う手立ては思いついてはいない。それは破滅を先延ばしにするだけなのかもしれないが今はとにかく時間が欲しかった。

 母が、その依頼主の手に渡る前に。

 だが──


「物分かりが良いのは嫌いじゃない。だがもし、万が一お前たちに支払い能力があるとしてもあと一つだけ問題が残っている」


 エンタープライズは最後に残った一本だけ、指を立てた。

 そして、言った。


「俺はな、お前らが無様に敗北する姿が見てぇんだよなぁ」


 にんまりと、にんまりと笑っていた。

 悪魔の笑顔と言ったら、分かるだろうか。

 絶望に突き落とされた瞬間の人間を見る、心底愉快そうな瞳。


 最初から、交渉の余地など無かった。

 遊ばれていただけだった。


「お前っ! お前ェ!?」

「待てサクラ!?」


 衝動的にエンタープライズへと掴みかかろうとしたサクラをジョーが抱き止める。

 エンタープライズの表情は余裕のまま変わらず、片手を上げた。

 後ろでは母の喉元に刃が添えられている。

 その手が振り下ろされた瞬間に母は──


「殺す! 殺してやるっ!」

「やめろ! 落ち着けサクラ!」

「離してください! はなっ……離して! こいつ! 絶対に、絶対に許さないっ!」


 怒り狂いながら拘束にもがくサクラの体は細く小さい。

 体格差から拘束が外れることはない。

 それがなお一層、ジョーには辛かった。


「止まれサクラ、止まってくれ……頼むから……」

「~~~~~!?」


 懇願するように、言った。

 サクラは止まった。だけど体は小刻みに震えている。

 どんな顔をしているだろうか、ひどいことになっているのは間違いないだろう。

 ジョーは、その顔を見る勇気がなかった。

 兄のこんなみっともない姿を見せてしまって。


「交渉は決裂だな、俺は帰らせてもらう。なに、大事な依頼品だ、お前の母親は傷つけはせんよ。少なくとも俺たちはな」


 気は済んだのか、いつもの無表情に戻ったエンタープライズ。


「……クソ野郎が」

「もう聞き飽きたぜ、それは」


 堂々と正面玄関から出ていく三人を、ジョーはただ睨みつけることしかできなかった。


























 という設定である。


「はいカットー!」

「「「おつかれーす!!!」」」

「え?」


 一人(ジョー)を除いて。






・お兄ちゃん一号かわいそう。

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