私は猫である。
・没ったらしきSS
・チーちゃん主人公
私は猫である。名前はチヨメという。
私がどこで生まれたかはとんと見当がつかぬが、チヨメが生まれた時のことは憶えている。
その日の季節は冬で、芯から凍えるような冷たい雨が降っていた。私の記憶は路傍の片隅で雨に打たれながらニャーニャー泣いていた場面から始まる。
微かにしか開かない目で以て、私はそこで初めて人間というものを見た。やけに身なりが上等な、若葉のような小娘であった。しかもあとで聞くところによるとそれは貴族という人間中で一番傲慢な種族であったそうだ。この貴族というのは時々私たちを捕まえて虐めるという話である。
しかし私の出会った貴族は特異であったらしい。貴族は傘というくらげのような道具を放り投げて雨に濡れた。そして自らの服が汚れるのも厭わずに泥だらけの私を抱きかかえると、自身のねぐらへと走った。
何を思ってそうしたのかは、今でもわからない。
貴族は口を真一文字に結び、目には雨以外の未知の液体も溜めながら必死に山を駆けた。
息を切らしながらねぐらに飛び込んだ貴族は、大声で何かを喚いた。そこに幾人かの新しい人間がわらわらとやって来たのだが、残念ながら私の記憶はここで一度途切れる。
眠かったのだ、許せ。
それからどれほど時が経ったかは知らぬが、私はあまりの窮屈さに目を覚ました。
目を開けると何も見えなかった、暗闇である。はて、さてはわが瞳はついに光さえも失ってしまったかとも考えたが、答えはすぐに見つかった。
つまり光を失ったのは空の方で、私は布にくるまっていたというのが今回のオチである。
しかし問題は窮屈さの方だ、息が詰まって仕方がない。私は布を振り払い新鮮な空気のもとへと顔を出す。そこでようやく私は貴族に抱き締められていることを理解した。貴族の目元は少し赤くなって水が溜まっていた。起き抜けで喉が渇いていたのでこれ幸いと舐めてみたが、なんと塩水であったらしく、飲めたものではない。騙された気分である。
とはいえさすがの私も馬鹿ではない、猫だもの。貴族が私を助けてくれたことぐらいわかる。
生き死にというものを私はよく知らない。が、冷たいのが死で、温かいのが生。ならばあの時私は確かに死にかけていて、私はいま間違いなく生きている。ついては、さらに生の実感を得るためにいま一度ぬくもりに浸らせてもらうことにする。なにせ腹が減って動けんからだ。
翌日、貴族が起きるとそこから大騒ぎであった。腹が減ったと私が鳴くと貴族は急いでキッチンへと向かい、牛の乳とほぐした肉を持ってきたのでありがたくいただいた。美味である。
それが終われば昨日と同じような光景が目の前にあった。私を抱えた貴族が、他のでかい貴族共に対して何事かを喚いておる。でかい貴族共は最初こそ渋い顔をしていたが、貴族が猫であれば毛が逆立っているだろう勢いで何事かを怒鳴り散らすと、観念した様に首を縦に振った。
「あなたの名前はチヨメ。チーちゃんです」
かくしてチヨメ爆誕。私は名前と主人とねぐらを一挙にして得たのである。
……だがこの主人、何かがおかしい。というか全般的におかしい。
主人の職業は貴族である。貴族の仕事といえば寝床で食っちゃ寝をしながら下々から年貢を搾り取り、トラブルが起きれば適当な部下に良きに計らわせることであろう。加えて主人は貴族の中でもお嬢様という立ち位置らしい。特に日陰を好む習性を持っているはずだ。
そのはずなのにこの主人、よく動く。それはもう動く。たとえば私が昼寝のために屋敷の屋根へと上ると、先に居る。台所から魚を一匹拝借でもしようとすると、決まって直前に主人が現れて私の頸筋を掴んで外に放り出す。悪戯の後に走って逃げようとすれば五秒でお縄だ。
これはいけない。猫の矜持が守れぬ。ゆえにねぐらを抜け出して、試しに山で一番高い木の天辺へと駆け上がってみた。さすがの主人もここまでは上ってはこれまいと、そう勝利を確信した次第ではあるが、一つだけ誤算があった。
……下りれぬ。にゃんてことだ、もう助からないぞ。
我が明晰な頭脳を以てしても予知できなかった緊急事態。えむじーえいちは残酷である。
ニャーニャー泣いてもこの声量と立地では主人に聞こえるはずもなく、八方塞がり打つ手なし。
空気が薄い、気温が低い、近くを飛んでる猛禽めが怖い。色んな意味で体が冷たい。あの日以来感じる死に私は恐れ戦いた。
そしてついに、猛禽めは完全に私に狙いを定めおったらしい。次の旋回の後、私めがけてその鋭い爪を突き立てることだろう。もはやこれまで、生まれ変わったら次は竜になりたい。空とか飛びたい。そう死を覚悟して目を瞑ると、キュイィと甲高い声がした。何事かと慌てて目を開けると、少し遠くで頭から墜落していく猛禽めが見えた。
「やっと見つけました。こんなとこまで上れるなんてチーちゃんは凄いです。けど、危ないから二度とやっちゃ駄目ですからね?」
そして私の後ろには、顔を汗と泥で汚した主人がいた。主人は私を片腕に抱くと猿のように木を下りていく。これはもう、まかりならぬ。二度までも命を救われた。自由気ままがモットーの誇りある猫といえども、ここまでの恩を受けて生涯の忠誠を誓わぬ者がいるだろうか。
いや、いない。
主人よ、私は決めた。私は主人の一番の下僕となるぞ。
……と、誓ったは良いが、それには少しばかり障害がある。
金髪のでかいじじいと眼鏡のじじいである。
私あの日以来、主人と共に過ごし、主人の指示に従い、主人のために体を鍛え、主人の意を汲む努力を続けた。
しかし、あのじじい共ときたら私が苦労しているそれを倍以上の質と量でこなしおる。
あれを倒さぬ限り、私が筆頭の座に就くことはないだろう。
だが私は諦めない、必ず主人の一番になってみせる。
どんな手を使おうと、どんな屈辱を得ようとも。
私は、最強と最優をこの爪で引きずり降ろしてみせる。
◇◇◇
「──と、チーちゃんが考えている可能性について」
「にゃ?」
「ねぇよ」
「ないかー」
……あるかもしれんぞ?
・ちゃんサクフィーバーしてないね。ごめん。




