まどろみ
「ヤーナ。お前は何も考えなくて良い。しっかりと私の言いつけを守りなさい」
子供の頃から父に何度もそう言い聞かされてきた。
それに疑問を覚えることはなかったし、尊敬する父親に逆らう気などなかった。
私が綺麗な服を来て、美味しいものを食べ、手に汚れ一つ作ること無く生きることが出来るのは全て父親のおかげだと理解していたし、それがどれだけ恵まれたことなのかということも一応分かっていたと思う。
父親は私に十分な愛情を注いでくれた。
30を越える子供のうちの一人。
4番目の妻の次女。
普通の家であれば、顔と名前が一致するかも怪しいラインの子供であるにも関わらず、私は間違いなく父に愛されていると断言出来るほどの親愛を授けられた。
別に贔屓されたというわけではないし、そこまで自惚れてはいない。
単純に父は愛の大きな人なのだ。全ての妻と子供を愛しきれるほどに。
何も考えるな。親の言葉に従え。
知らぬ者には随分横柄な言い様であると聞こえるだろう。
私とて、あの父の言葉でなければそう思う。
まあこの言葉自体は、貴族の家では珍しくない文句ではあるのだが。
しかしそれも無理もない、道具に意思など必要ないのだから。
ただ父の真意はもう少し別にあったように思う。
あの人は、心の底から子供たちに幸福になって欲しかったのだろう。
かつての、何も知らずに生きていたあの日々は確かに幸せと言えた。
まるで箱庭のような、閉じて完成された世界で何一つ不自由することなく、微睡むように過ごしていた。
あの日、その世界が崩れるまでは。
魔物に襲われ、箱庭の世界が壊れて、黒い闇に覆い尽くされそうになった瞬間、激しい光が全てを切り裂き、塗りつぶしたのだ。
それは余りに眩しすぎて、夢幻の世界に居た私を目覚めさせるには十分すぎた。
光の名前は『ジャッククラウン』
偉大な5人の英雄達。
私はランプに引き寄せられる羽虫のように、あの人達に焦がれた。
そして多くを知った。
私がどれだけ狭い世界で生きてきたかを。
私がどれだけ不自由な存在だったのかを。
私がどれだけ非力な存在であるのかを。
そして、願いの叶わぬことがどれだけ辛いのかを。
貴族の娘に出来ることなど、何一つ無い。
施されながら育ち、親の決めた誰かと結ばれ、それから先はその誰かに従う。
きっとそこに本人の意思など関わらないし、必要もない。
そんな娘が突然、夢を持ったのだ。
あの人達のようになりたいと。
そう思ってしまったのだ。
一度知ってしまったことは、もう無かったことには出来ない。
自分がどれだけ無謀なことを望んでいるのかは分かっていた。
人から見れば滑稽なのだろう。哀れにすら思えるかもしれない。
父はそんな私にチャンスを与えてくれた。
故郷から遠く離れたこの地に小さな屋敷を構え、教師をつけ、必要な道具を買い与えてくれた。
それはもしかすると父なりの、見せる必要のないものを見せてしまったことへの償いだったのかもしれない。
同時にそれは私に現実を理解させるために必要な時間でもあったのだろう。
どれだけ懸命になれど、私は夢には届かない。
なんて見苦しい真似をしているのかと、毎夜自己嫌悪にも陥った。
全ての人々に笑われている気がした。
苦しかった。
こんな思いをするなら、あの日助けられなければ良かったとすら思った。
なんて身勝手な人間なのだろう。
しかし、そう思うことをやめられなかった。
そしてまた嫌悪を重ねて、暗い沼の底まで落ちていくような日々だった。
どれだけその日々を重ねたのか分からなくなったころ、一人の少年が現れた。
私が焦がれ続けたものを、どこからともなく横取りしていった少年。
怒り、妬み、嫉み、憎しみ、絶望。
私の心に様々な感情が湧き上がった。
だがそれらの奥底にあったのは、安堵だった。
もう終わりにしていいのだという、解放感だった。
彼に挑もうと思ったのも、最後に自分で区切りをつけるためだった。
あの人達が認めた人物に、私なんかが敵うはずがないのは分かっていた。
最後に、欠片も残らぬほどに夢を打ち砕いて終わろうと思ったのだ。
自分の重ねた日々に意味などなかったんだと。
この数年のことは、夢幻として忘れてしまおうと。
しかし彼は認めてくれた。
私の成してきたことは無駄ではなかったと言ってくれた。
何も無いはずだった私の中に、熱い何かが込み上げてくるのが分かった。
それに気付いてしまったらもう後戻りは出来なかった。
それは『私』だ
その瞬間に私は『私』になったのだ。
どんなに弱くても、どんなにみっともなくても、積み上げられた時間に育まれた『私』を捨てることなんて出来ない。
だから、あの日から私は『私』として生きようと決めたのだ。
「――――――――――!」
遠くで誰かが呼ぶ声がする。
優しくて、真っ直ぐで、少し生意気な声。
「――――――ナ! ヤーナ!!」
私の大好きな声が、私の名を呼ぶ。
だから、私はその人の名を呼ぶ。
「――――――――リアン」
瞬間暗い闇に沈んでいた世界が罅割れて、光が差し込む。
ぼやけていた意識が急に研ぎ澄まされていく。
肩が温かくて、少し痛い。
彼が強く掴んで、乱暴に揺すっているからだ。
「ヤーナ! 俺が分かるか!? ヤーナ!」
「……ええ、分かるわ。分からないわけない」
彼が頬を緩めて、全身から力が抜けたようにその場にへたり込むようにする。
「良かった……本当に、無事で良かった」
少しずつだが、自分の置かれた状況を思い出す。
そうだ、私は捕まって、それからスウェルグとかいう男の連れてきた女の子に何かを嗅がされて、それから意識が……。
自分の居る場所を思い出して、彼がここにいる意味を考える。
「……私を助けに?」
「当たり前だろ、仲間なんだから」
ああ、どうしよう。
自分が今どんなひどい顔をしているか分からない。
喜びと、怒りと、恥ずかしさと、自責と、もう色々混ざって訳がわからない情感が込み上げてきて、顔がこれ以上なく熱くなる。
ただ、一つだけあげるなら仲間と呼んでくれたその言葉が、ただ嬉しい。
唇を噛み締めて、嗚咽を漏らさないように必死になる。
涙がとめどなく溢れて、地面に滴り落ちる。
せめて鼻水を拭いたいが、両手の自由が効かない。
そんな私を柔らかく抱き寄せて、彼は言う。
「もう大丈夫だから。一緒に帰ろう」
彼の体の熱に逆らうことが出来ず、私は身体の力を抜いて肩に顔を埋める。
何も考えず、彼に身体を委ねる。
今だけは全て忘れて彼に任せてもいいと、そう思えた。
手足の枷を取ることができず、仕方なく(本当に仕方なくだが)リアンに抱き上げられて閉じ込められていた小部屋を出る。
その瞬間、身の毛のよだつような禍々しい声が通路の向こう側から響いた。
「見いいいいいつけえええええええ……たあああああああああああああ……」




